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8月15日は終戦の日。 太平洋戦争が終わって78年を迎えます。 激しい地上戦となった沖縄では、多くの北海道出身の兵士も命を落としました。 その中のひとりの兵士が身につけていた「お守り」が道内にいる家族のもとへかえりました。
*** 「必勝」「突破」。 寄せ書きされた数々の激励の言葉。 一緒に働く仲間から、戦地に向かう兵士の幸運を祈って贈られた「日の丸の旗」です。 いつ、ついたのでしょう。 血の痕のようなものも…。
■鈴木久子さん: 「よくね、長い年月、耐えたと思いますね…」
■シュバートさん: 「どうしてもその旗を日本の家族へ返す必要があったんです」沖縄、アメリカ、そして北海道へ。 地獄と呼ばれた戦場で命を落とした兵士の「日の丸」がおよそ80年という歳月をかけて家族のもとへかえってきました。
▼沖縄戦太平洋戦争末期、一般住民をも巻き込んだ沖縄戦。 空襲や、海からの艦砲射撃に加え、陸では銃や火炎放射器など激しい攻撃により、沖縄は地形が変わるほどの被害を受けました。 おびただしい数の砲弾が撃ち込まれる様子は、「鉄の暴風」として語り継がれています。 3か月に及ぶ激しい戦闘でおよそ20万人が犠牲に。 沖縄県民に次いで死者の数が多いのが北海道出身者です。 その数、1万805人。 主に満州から沖縄に向かった部隊の兵士です。
■鈴木久子さん: 「これなら1本入ったら華やかだね」 …札幌市に住む鈴木久子さん、87歳。 9歳のときに、父親が沖縄で戦死しました。 6月はじめのある日、沖縄戦で戦没した北海道出身者の慰霊碑がある札幌護国神社を訪れ、花を手向けました。
■鈴木久子さん:「ここだね。母さん、父さんのとこだよ」 久子さんの父・米代由雄さんは、沖縄・糸満市で車両を運転中、戦闘機の機銃掃射を受けて即死。 35歳でした。 助手席に同乗していた仲間が終戦後、最期の状況を久子さんの母に伝えたといいます。
■鈴木久子さん:「きょう祥月命日ね。沖縄は、まだ梅雨のまっさかりです。」 「尺八を吹いていたのを覚えてますけどね/のど自慢の男の人たちが集まってきて、父の尺八で江差追分とか、ああゆうのを歌っている姿を。」 小さいころのときに、目にも耳にも残ってますけれど」由雄さんが沖縄で戦死してから78年。 札幌で暮らす長女・久子さんのもとへ、父が戦地に持って行った「日の丸の旗」が見つかったと、連絡が入りました。 当時、ほとんどの兵士たちが肌身離さず持っていたという日の丸の旗。 親しい人から直筆の寄せ書きがされていて日本兵にとっての「お守り」でした。 しかし、アメリカ兵にとって敵軍の旗は一番の「戦利品」とされ、 当時、たくさんの日の丸が戦場から持ち去られました。 由雄さんの日の丸をアメリカに持ち帰ったのは、当時、陸軍に所属していたジョン・コルベルさんでした。
■米国在郷軍人会ジェイムス・V・シュバート: 「彼は5枚の日本の旗を持っていました。1975年に彼が亡くなるまで旗はクローゼットの引き出しに保管されていました。」 その後、息子のジョンさんがこの旗を引き継ぎますが、2017年に亡くなり妻のキャロルさんが、在郷軍人会に旗を寄贈しました。
■シュバートさん「旗を手にしたとき、これはアメリカにとっての記念品ではないと思いました。 圧倒されるような感覚やスピリチャルな存在を感じ、私たちが持つべきものではない日本の家族が持つべきものだと思いました。」 そこで、こうした旗を日本の遺族へ返す活動をしているアメリカのNPOに、持ち主の家族を探すよう依頼。 由雄さんは七飯町の出身にも関わらず、旗には当時の勤務地だった「平取」とあったことから捜索は困難を極めました。 しかし、米代という珍しい苗字を手掛かりに、およそ2年半をかけて娘の鈴木久子さんにたどり着きました。 こうした旗が、長い月日を経て、いま少しずつ日本へ。 北海道でも現在14枚が家族のもとへかえっています。
■OBONソサエティ工藤公督さん: 「米国サイドで、日本兵がそのように(お守りと)して持っていた旗と知ったときにそんな意味があるものだったということに気づかないで長年持っていたということに対して、ものすごく引け目ではないですけれど。 そういうことであれば一刻も早く日本のご遺族に返還してあげたいと」
■鈴木久子さん: 「やっぱりドキドキするわね。 こんなに大仕掛けになるとは思わなかったものだからね」沖縄戦が終結した6月23日。 札幌護国神社でも、毎年、沖縄戦犠牲者の慰霊祭が開かれています。 今年は、父・由雄さんの旗を受け取る久子さんのため、慰霊祭の合間に返還式を執り行うことになりました。
■元北海道沖縄会会長黒田練介さん: 「日の丸の返還は、戦没霊の魂が家族に暗に帰ってきたことになり、大変意義深いことです。」
■鈴木久子さん: 「よく、長い年月耐えたと思いますね。きっと今残っているたった一人の娘に戻ったっていうことは喜んでくれているんでないかなとは思います。 」妻や幼い子どもを故郷に残し、戦地に赴いていった日本兵たち。 彼らがお守りとして身につけていた寄せ書きの日の丸は、未だアメリカに2500枚以上あり、家族のもとへかえる日を待っています。
■鈴木久子さん: 「薄っぺらい布地だけど。78年の年月の重みですこの旗は
https://www.youtube.com/watch?v=xMzJC9Rs6ps&t=14s
日章旗遺族に 沖縄で戦死 苫前出身の加藤さん
太平洋戦争末期に沖縄で戦死した苫前町出身の加藤馨さんの日章旗が米国から返還され、10日、遺族に手渡された。
加藤さんは1921年生まれ。後方支援を担う旧陸軍第24師団 輜重しちょう 兵第24連隊第五中隊伍長で、1945年6月22日、沖縄本島・ 真栄平まえひら で戦死したという。
日章旗は、沖縄戦に従軍した米海兵隊員が持ち帰り、長らく保管されていた。隊員が2016年に死去した後、日章旗を引き継いだ娘が米国の非営利団体「OBONソサエティ」に所有者と遺族の捜索を依頼。日本遺族会などを通じて加藤さんの弟、等さんを捜し当てた。日章旗には「がんばれ 加藤等」と記されていた。
返還の一報は今年3月、等さんに伝えられたが、7月4日に死去し、この日の返還式への出席はかなわなかった。
親族らが出席した式では、等さんの妻チヤさん(91)と長男の 誉美たかみ さん(71)が福士敦朗町長から日章旗を受け取った。遺族を代表し、誉美さんは「式を目前に父は亡くなってしまったが、どこかで見守ってくれていると思う」とあいさつした。
等さんは戦後、兄の馨さんを捜しに沖縄を訪ねたことがあり、平和祈念公園の平和の 礎いしじ に刻まれた加藤さんの名前を何度もさすっていたという。チヤさんは「(日章旗を)仏壇にお供えしたい」と話した。
https://www.yomiuri.co.jp/local/hokkaido/news/20230810-OYTNT50172/
太平洋戦争の沖縄戦で24歳の若さで亡くなった苫前町出身の男性が持っていた日章旗が、終戦から78年となるのを前に遺族に返還されました。
返還された日章旗は昭和20年6月に沖縄戦に出征し、24歳で亡くなった苫前町出身の加藤馨さんが持っていました。
10日、苫前町内の神社で行われた返還式には、馨さんの弟の妻、加藤チヤさんなど遺族が出席し、福士敦朗町長から日章旗を受け取りました。
チヤさんは涙を浮かべ、日章旗に「おかえりなさい」と語りかけていました。
日章旗は沖縄戦に参戦した元アメリカ兵が持ち帰っていましたが、その娘が戦没者の遺留品を遺族の元に返す活動をしているアメリカのNPO「OBONソサエティ」に遺族を捜し出して返還するよう依頼したということです。
加藤馨さんのおいの加藤誉美さんは「弟にあたる私の父は日章旗の返還を前に7月に亡くなりましたが、きょうは天国から見守ってくれていると思います。日本が二度と戦争がない平和な国であるように願っています」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230810/7000059913.html?fbclid=IwAR3k6Kv_nZ0PjOWeFhdQ-iqXeq_CCVvh8-hpabZ30OuIqw2cH0Zi_mZu4hk
【苫前】太平洋戦争終結直前の1945年(昭和20年)6月、沖縄戦で亡くなった加藤馨(かおる)さん(享年24)=旧苫前村出身=が、戦地でお守りとして身に着けていた日章旗が10日、町在住の遺族に返還された。今年7月に亡くなった馨さんの弟、等さんの妻チヤさん(91)は、そっと旗をなで「お帰りなさい」と声をかけ、故人をしのんだ。
戦時中、兵士が出征時、友人や親族が日章旗に激励の言葉を寄せ書きした。加藤さんの日章旗は、戦後、米海兵隊員が戦利品として沖縄から米国に持ち帰り、保管していた。米兵が亡くなった後、遺品で見つかった。旧日本兵の遺品返還に取り組む米オレゴン州のNPO法人、OBONソサエティが、依頼を受けて遺族を探していた。
日章旗は、文字がにじんだり薄くなったりして判読が難しかったが、日本人スタッフの工藤公督(こうすけ)さんが、馨さんが苫前出身であることを突き止め、等さんに連絡した。等さんは日章旗を見ることなく7月に亡くなった。
OBONソサエティと遺族によると、馨さんは町内三渓地区出身で、41年に召集された。陸軍第24師団第24連隊第5中隊に所属し、武器や弾薬を運ぶ輜重(しちょう)兵として沖縄で従軍。旧日本軍が組織的な戦闘を終えた日とされる45年6月23日前日の22日に戦死した。
今月10日、苫前神社で行われた返還式には遺族7人が出席し、チヤさんとチヤさんの長男、誉美(たかみ)さん(71)が日章旗を受け取った。チヤさんは「お父さん(等さん)と沖縄を訪ねた時、『兄貴、会いに来たぞ』と涙ぐんでいました」と振り返った。誉美さんは「78年後に帰ってきてくれた。おじの望郷の念が強かったのでは」と声を詰まらせた。
親族の加藤郁子さん(47)は「遺品も遺骨も何一つなかった。とても温厚な方だったと聞いていました」と話した。
OBONソサエティによると、今年、同団体を通じて道内に日章旗が返還されたのは馨さんを含めて3人。スタッフの工藤さんは「沖縄戦で同時期に戦死された3人の方が今年、故郷の北海道に帰ってきました。さらに捜索を進めたい」と話した。(道新)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/891897
The keepsake was returned to the family of a Japanese soldier who died in World War II
Toshihiro Mutsuda was making preparations for his mother’s funeral in late March when he made a miraculous discovery. His mother, Masae, had lived a long and full life. But most of those 102 years had been spent without Shigeyoshi, her husband and Mutsuda’s father, after Shigeyoshi died in the Second World War.
Shigeyoshi died in 1944 somewhere on the island of Saipan in the western Pacific Ocean, Japanese authorities told his family. His body was never recovered. Mutsuda, now 82, and his two siblings grew up with few memories of their father.
Then an acquaintance sent Mutsuda a photo. It showed a Japanese flag hanging in an American museum, covered in Japanese names written in black ink.
Mutsuda recognized those names. They were his relatives and family friends. Near the center, in a larger script, was Shigeyoshi’s name.
It felt like fate. Just as he was arranging to say goodbye to his mother, Mutsuda had discovered his father’s most treasured belonging: a Yosegaki Hinomaru flag, a keepsake Japanese soldiers carried for good luck in World War II, adorned with the names of their friends and family. He postponed the funeral, determined to reunite his family with the flag.
It was returned to Mutsuda and his siblings in a ceremony in Tokyo on Saturday, concluding an unlikely effort by a nonprofit and American and Japanese researchers to reconnect the family with a piece of their father.
“We are all so happy together finally,” Mutsuda told The Washington Post in a statement translated from Japanese.
News of Shigeyoshi’s flag only reached Mutsuda because of an offhand exchange between two historical researchers. Frank Thompson, an assistant director at the Naval History and Heritage Command, photographed the flag on a visit to the USS Lexington Museum in Corpus Christi, Tex., in February.
The USS Lexington, a World War II aircraft carrier, battled Japanese ships in the Pacific before being converted into a naval aviation museum in 1992. Its curators didn’t realize that it was now carrying a Japanese family’s treasure. Shigeyoshi’s flag had been donated to the Lexington in 1994, said Steve Banta, the museum’s executive director. There was no record of its donor.
The flag was described by the Lexington as the relic of a kamikaze pilot. Thompson sent the photo to a friend in Japan. The photo circulated between curious researchers there, who narrowed down its origin using a red seal on the flag unique to a shrine in the Gifu region. Eventually, they found the Mutsudas, who told them the museum’s label was incorrect. Shigeyoshi was drafted into the Imperial Japanese Army in 1943 and died a year later in Saipan at the age of 23, according to Thompson.
“I recognized immediately that picture of the flag was my father’s flag,” Mutsuda said. There, hung belowdecks in an American warship, was the closest remaining link to his father. But how could he get it back?
Mutsuda found someone else who understood what was at stake. Keiko Ziak saw her mother reduced to tears when her grandfather’s Yosegaki Hinomaru flag was returned to her family in 2007.
“My mother said, ‘[The] strong spirit of the grandfather really wanted to come home. So finally he came back to see us,’” Ziak recalled.
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Ziak’s flag was returned to her family by a collector from Toronto. Like Mutsuda’s, it had probably been recovered as a souvenir by Allied forces and brought back across the Pacific. Ziak and her husband, Rex, said there are many more.
“This item became the most popular souvenir of the whole Pacific theater,” Rex Ziak said. “They came home by the tens of thousands.”
The Ziaks, who live in Oregon, knew what returning the flags meant to bereaved Japanese families. They formed a nonprofit, Obon Society, to take on the challenge, accepting donated flags from American collectors and poring through records to match them with the Japanese families whose names were still inked on the fabric.
Mutsuda came to Obon Society in April with a slam-dunk case. He showed the Ziaks a black-and-white photo of his family — one where Mutsuda was only a toddler. Shigeyoshi loomed above him, carrying a flag. The writing on it matched the photo from the Lexington.
When the Ziaks contacted the museum, Banta was stunned to learn of the significance of his exhibit. But the former Navy helicopter pilot needed no convincing.
“We knew that this flag did not belong to us,” Banta said. “And we needed to return it to the family.”
The repatriation began on July 20 when staff at the Lexington removed the flag from its frame in a ceremony in the ship’s hangar bay. Banta and the Ziaks then accompanied the flag to Tokyo. On Saturday, they gathered at the Yasukuni Shrine, which honors Japanese soldiers killed in the country’s wars, to return the flag to the Mutsuda siblings.
Masae — Shigeyoshi’s wife and the Mutsuda children’s mother — had traveled to the shrine yearly to remember her husband after the war, the Mutsudas told Rex Ziak. She made the trip once more this year with her children, who brought her cremated remains in an urn so she could be with them when they received the flag.
The Ziaks said Mutsuda’s story was a highlight among the roughly 500 flags they’ve been able to return to Japanese families so far. They want to scale up their work as the 80th anniversary of the end of the war approaches, Rex Ziak added. He advocated for a wider effort to return flags, with support from the U.S. government.
“Here’s an opportunity for America to reach out and touch these families, one by one, by returning the remains of their missing relatives,” Rex Ziak said. “It would be one of the most spectacular humanitarian gestures the world has ever seen.”
Mutsuda added that the repatriation was a heartening gesture of cooperation between American and Japanese organizations — and a reconciliation that his parents would have been glad to see.
“[Shigeyoshi’s] flag made us feel that my father and mother wanted to tell us, ‘Please do not repeat this horrible and painful experience [that] we had been through ever again,’” he said.
After the ceremony, the group joined Mutsuda and his siblings in a private room for lunch. Before they sat down with their bento boxes, the Mutsudas arranged their mother’s urn and their father’s flag next to each other on a shelf and bowed to pray.
Mutsuda imagined his parents deep in conversation, finally able to catch up on almost 80 years’ worth of stories together.
“We want to let both my parents [get] acquainted together as long as they want,” Mutsuda said. “Then when they are ready, we will put my mother’s ash into the temple in Kyoto for her departure to heaven to be with her husband forever.”
https://www.washingtonpost.com/nation/2023/08/04/wwii-japanese-flag-returned-lexington/?fbclid=IwAR1WHuHW8kSIOvU-PTkK1g4caQcxSQc63uRn1tMCvgUwjqwccRp5am0FfY0
【北海道新聞】7月26日に北海道は松前町で執り行われました「鈴木秀二命日章旗返還式」について紙面が届きましたので掲載させて頂きます。
米南部テキサス州の博物館に展示していた養老町出身の陸田繁義さんの「寄せ書き日の丸」と呼ばれる日章旗が七月二十九日、靖国神社(東京都)で長男の敏弘さん(83)に返還された。敏弘さんと次男の靖則さん(80)=いずれも養老町大跡=が一日に町役場を訪れ、川地憲元町長に喜びを語った。
日章旗は日の丸の上に「武運長久」と書かれ、繁義さんの義父らとみられる九十四人の署名が日の丸を囲んでいる。入手経緯が分からないまま一九九四年に博物館に寄贈され、二十九年間展示されていた。
敏弘さんは日章旗を手に帰宅した後、すぐに自宅にある母の仏前に供えた。父の記憶はほとんどないため、返還後は三人の子どもを育てた母の顔が浮かび「親戚など周りに助けてもらった。苦労してきた母に見せたかった」と思いを巡らせたという。
戦争の悲惨さを後世に伝えるため、日章旗は靖国神社への展示を検討している。敏弘さんは「若者に戦争の裏でどれだけ悲劇があったのか考えてもらう史料になれば」と力を込める。
川地町長は「よく返還してもらえた。八十年の歴史には重みがある」と話した。
https://www.chunichi.co.jp/article/740695?rct=gifu
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