1995年1月17日の関西淡路大震災から20年が過ぎたのですね。
当時私はアメリカにいて、お客様から「関西で大地震があった、ご両親に連絡したほうがいいですよ。」と言われて電話した。
偶然にも電話が繋がって、皆の無事を聞いたが、それでも住んでいた芦屋のマンションはこの状態でした。よく崩壊せずに立っていてくれた・・・
電話で聞いたから良かったが、そのあと3日間電話は繋がらなくなった。
1週間後に関空に降り立って電車(JR)で芦屋に行った。
はじめて「終点、芦屋」という言葉を聞いいた。芦屋まではJRは走っていた。
そこから家まで歩いた。ビニールシートが目についた。
阪急の線路はクニャクニャに曲がって、人が歩いていた。
ビルが倒れていた。自衛隊の方が道を見れにしてくれていた。
芦屋の警察学校には棺桶が山積みだった。
水が無いが電気は届いていたように記憶しています。
なんかすごいことが起こった。でも何もできない。
道を歩いていたら、自衛他の方がセーターをくれた。
ありがとう。でも私がもらって良いのだろうか。
私は35歳だった。
会社も8年目で順調になり始めた頃だった。
今芦屋にはこの災害の跡は何もない。
みんなすごく頑張った。
復興おめでとう。あのときは何もできなくてごめんなさい。
- If you are a bloguru member, please login.
Login
- If you are not a bloguru member, you may request a free account here:
Request Account