神奈川近代文学館の寺山修司展へ。
高校の同級生と、最高に楽しい時間でした。
詩や実験映画の話は別の機会に、
「ゆうこ新聞的寺山修司さん」を書こうと思います。
人の5倍も10倍もの熱量で時代を駆け抜けた感のある
寺山さんは、早稲田大学に入学してまもない1955年(19歳?)
に腎臓の難病、ネフローゼを発症しました。
入院生活は(転院なども含め)3年間にもおよび
「生活保護を受けながら、治療(1956年の記録)」
など、辛い日々を送った寺山さん。
当時の治療や入院生活は、現代と比較にならない
未来の見えないもので、彼が孤独で死を意識していたことが
伝わる言葉が(展示室に)残されていました。
中でも、朱色の大きな文字で「ばら色の人生」と書かれた
「遺書Vol.1」。
そこに、小さな文字で添えるような
〝みんな死んじまえ〟。
病気の症状があまりにもつらい時、同じようなことを
考えていた私には、とても身近に感じました。
ひとは、感謝や誰かの役に立ちたいなって思う以前に、
こっちの道を通りませんか(笑)
少なくとも、私は長い時間、地獄の階段で体育座りを
していたし、今だって時々そこに戻って
〝なにか〟を確認していることがあります(笑)
話がそれてしまいそうなので、
展示物の中でもうひとつ、印象的だったもので締めたいと
思います(※内容がちょっと違うところがあるかも)
いま、このハガキをそのまま誰かに出したいと
思っているひとがいるかもしれないな~って思って。
~1955年11月に寺山修司さんが編集者の中井英夫さんに
宛てたハガキより~
僕、参っちゃった。癒らないんです。
まだ入院時とおんなじで、むくんで、
とてもとても 絶対安静のまんま
くやし涙の滝。
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