SHOGUN の按針は誰?
Apr
7
SHOGUN に出てくるジョン・ブラックソーンは、実在の人物で、本当の名前はアダム・ウリアムスと言い、徳川家康から旗本に昇格された英国人なのだそうです。ジョン・ブラックソーンも実際にいた人で、ウイリアム・アダムスと同じ船に乗っていました。『SHOGUN 将軍』(しょうぐん、Shōgun)は、ジェームズ・クラヴェルの1975年の小説が元になっていますが、そのときにアダム・ウリアムスではなく、ジョン・ブラックソーンの名前が使われました。
下記が Wikipedia から見つけたアダム・ウリアムス(三浦 按針(みうら あんじん))に関する資料です。
ウィリアム・アダムス(1564年生まれ、イングランドのギリンガム出身 - 1620年5月26日没、日本の平戸)は、航海士、商人冒険家であり、日本を訪れた最初のイギリス人です。
12歳の時、アダムスは商船で船大工に弟子入りし、1588年にはスペインの無敵艦隊の侵略の際、イギリス海軍の補給船の船長となりました。イギリスの勝利後、彼はバルバリア商人団の船の操縦士や船長として勤め始めました。1598年6月、ヨーロッパから東インド(現在のインドネシア)に向かう5隻のオランダ船の航海士として出航しましたが、船団は嵐によって分散され、1600年4月、アダムスの船である「リーフデ」(「慈善」)は、九州の南に位置する九州の島に停泊しました。これは、北欧の船が初めて日本に到達したことでした。
アダムスと他の生存者は大阪に召喚され、日本の将軍(大将軍)となる徳川家康から、政治、宗教、技術などについて尋ねられました。家康は、特に船舶や造船に関するアダムスの知識に感銘を受け、彼を自身の信頼できる者の1人にしました。アダムスは、将軍の家臣である旗本の地位を授けられ、江戸(現在の東京)の南に位置する三浦半島の三浦に領地を授けられました。それらの栄誉にもかかわらず、アダムスは日本滞在の初期の数年間、何度もイングランドに帰国することを希望しました(彼は最終的に家族を支援し続けることができました)。しかし、彼は許可を得られませんでした。そのため、彼は日本に永住し、日本人女性と結婚し、後に「船長」を意味する「安針」という名前で知られるようになりました。
アダムスは西洋式の船の建造を監督し、将軍の名代としてオランダ人やイギリス人の商人を日本に招くための手紙を書き、そして国を訪れ始めた商人と将軍府の仲介役を務めました。1613年には、彼は長崎の北西に位置する九州の平戸に、東インド会社のための英国商館(貿易拠点)の設立に手を貸しました。1614年から1619年の間に、アダムスは数回の海外航海を許され、東南アジアまで旅しました。
しかし、1616年に家康が亡くなり、その後継者である徳川秀忠の下で、日本はますます孤立主義に傾きました。英国商人の活動は制限され(最終的にオランダ人だけが日本との貿易を許されるようになりました)、アダムスの将軍府への影響力は大幅に低下しました。1620年にはアダムスは病気になり、平戸にいる間にそこで死去し、埋葬されました。その後、英国商館は閉鎖されました。
アダムスの日本での活動は、英語および日本語の多くの書籍の着想源となりました。特に、ジェームズ・クラヴェルのベストセラー小説『将軍』(1975年)はその代表例であり、同名の人気テレビミニシリーズ(1980年)の基礎ともなりました。九州の屋敷に加え、アダムスは江戸の日本橋地区にも家を持ち、そこが今も「安針町」と呼ばれています。彼を追悼する年中行事のうち、5月に平戸で行われるものと、静岡県の伊東で行われるもの(8月)があり、後者は最初の西洋式船が建造・進水された場所を記念しています。
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