霊的戦いの戦略 The Strategy of Spiritual Battle
Jun
22
Ⅱ列王記Kings 6:8-22
6アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」9そのとき、神の人は、イスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこはアラムが下って来ますから。」10そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」12すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られる言葉までもイスラエルの王に告げているのです。」13王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼は、ドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。14そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの探している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。20彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22エリシャは言った。打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」
エリシャは、神の人でした。預言者でした。彼の仕事は神の声を聞き、それに従うこと。それを人に伝えることでした。
ここで、イスラエルとアラムの間の実際の戦いがありました。しかし、この神の人エリシャがどんなに大きな役割を持っていたかが良く分かりますね。彼は、神様に聞いて、まるで相手の動きを見ているかのようにイスラエルの王に指示を出し、イスラエルを敵から守っていました。今日は、このエリシャから戦いにおける戦略について学びたいと思います。これは、私たちの人生にも適用できることです。私たちもたくさんの戦い・試練・攻撃のようなものを乗り越えながら生きているものです。
① まず第一に、神の声を聞くこと v6-14
ヨハネ10:4, 5
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。5しかし、他の人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。And when he brings out his own sheep, he goes before them; and the sheep follow him, for they know his voice. 5 Yet they will by no means follow a stranger, but will flee from him, for they do not know the voice of strangers.”
先ほども言いましたが、神の声を聞くことは、一番の勝利の決め手。視力の弱い羊は、聴力、すなわち、自分の主人の声をしっかり聞き分けることで自分の身を守っている。
私たちに聞こえる声は、三種類ある。
1) 自分の声。。肉の声。。理性、過去、常識、自我・高慢。
2)敵サタンの声、恐れを持たせてくる。ネガティブ。
3)神の声。。。信仰が引き上げられる。ポジティブ。信じることに結び付けられる。慰められる。心が満たされる。心が自由になる。
自分を疲れさせ、混乱させるのが、自分と敵の声。。また特に敵からの声を聞くと落胆させられる。
神の声に対して敏感に、また親しみましょう。神の声を聞いている限り、どんな状況の中にあっても、揺るがされることがありません。
② 霊の目を開いて見ること v15-17
15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。15 And when the servant of the man of God arose early and went out, there was an army, surrounding the city with horses and chariots. And his servant said to him, “Alas, my master! What shall we do?” 16 So he answered, “Do not fear, for those who are with us are more than those who are with them.” 17 And Elisha prayed, and said, “LORD, I pray, open his eyes that he may see.” Then the LORD opened the eyes of the young man, and he saw. And behold, the mountain was full of horses and chariots of fire all around Elisha.
イエス様の目を通して物事をみる。ヨハネの福音書で生まれつきの盲人がイエス様によって、目を開けられ、見えるようになりました。後にそれが大問題に発展します。しかし、このもと盲人は、私は見える。私の目を開けた人は神から来たに違いないといいました。そして、イエス様を信じました。彼は、肉の目と同時に霊の目も開かれました。それは、イエス様が目を開けてくださったからです。彼は、どんなに反対者が来ても、自分の体験からくる見解を曲げはしませんでした。
私たちも、戦いの多いとき、難しさの中にあるとき、イエス様に心の目に触れていただかなければなりません。
誰が主であるのか、神なのかを、困難なときに見出すことができなければ、つぶされてしまう。問題があなたの主なのか、悩みがあなたをコントロールしている神であるのか? それとも全地の主があなたの神なのか。
③ 目を閉じることBlindness v18-19
18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの探している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。18 So when the Syrians came down to him, Elisha prayed to the LORD, and said, “Strike this people, I pray, with blindness.” And He struck them with blindness according to the word of Elisha. 19 Now Elisha said to them, “This is not the way, nor is this the city. Follow me, and I will bring you to the man whom you seek.” But he led them to Samaria.
新約聖書の中に、
ヨハネ9:39 「そこで、イエスは言われた。「わたしは、さばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」And Jesus said, “For judgment I have come into this world, that those who do not see may see, and that those who see may be made blind.” とありますが、
目を開かれるのも神様ですが、目を閉じられることも神様の業です。Ⅱ列王記ではエリシャが神に願って、敵の目を見えなくしました。
真理が来るときに、このようなことがおきるのです。イエス様という真理が来たときに、盲人の場合は、目が開かれました。
しかし、自分は霊肉ともに見えているとしているパリサイ人たちの霊の目は余計に堅く閉ざされてしまいました。
真理が来るときに、このような分離、裁きともいえることが来るのです。これは、何も神が裁かれるということではなく、人々の心が頑なで、真理を受け入れられないときに、霊の目も堅く閉ざしてしまうのです。
私は、見える、見えているという態度に気をつけましょう。
④ 反対のスピリットを持って戦うことv21-23
21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22エリシャは言った。打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」21 Now when the king of Israel saw them, he said to Elisha, “My father, shall I kill them? Shall I kill them?” 22 But he answered, “You shall not kill them. Would you kill those whom you have taken captive with your sword and your bow? Set food and water before them, that they may eat and drink and go to their master.” 23 Then he prepared a great feast for them; and after they ate and drank, he sent them away and they went to their master. So the bands of Syrian raiders came no more into the land of Israel.
神様と人の方法とは、まったく質の違うものであり、相いれないものであります。ここで、敵を盲目に集め、場所を移したエリシャに、王は殺してしまうことを提案しますが、神の人は、全く逆に思えるようなことを言います。飲み食いさせた上で生きて帰らせてあげることでした。
霊的な戦いには、いつも感情が伴っています。私たちは、その感情に反応して物事を決めて行動していまいます。相手がこんな悪いことをしてきたから、自分たちもそうするのだと思いがちではないでしょうか。
自分が相手をこらしめるんだ、罰をあたえるんだという思いをもっては、自治は、敵のおもうつぼなのです。
しかし、そんなとき、一呼吸おいて、神様に聞いてみてはどうでしょうか。相手に反対のスピリットをもって対峙するときに、実は、大きな勝利を体験することが多いのです。
エリシャは、自分を殺そうとした人たちをもてなしたのです。
その結果、その後、二度とアラムはイスラエルの地に侵入してこなかったのです。
これこそ、一次しのぎでない、永遠の勝利が得られる方法なのです。
戦いのとき、困難のとき、自分の身が危ういとき、あなたは、今日のポイントを思い出してください。
神の声を聞くこと。霊の目を開くこと、反対のスピリットで応じること。
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