2017年10月29日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから。。。 今週も引き続きホセア書です。今週もイスラエルの罪とその結果についてと続いています。ホセア書のテーマをもう一度おさらいしておきたいと思います。預言者ホセアの言葉、ホセアの意味は、「主は救い」という意味です。また、彼自身が不誠実な自分の妻との間を神様に導かれて、何度も愛するようにしめされながら、並行して、神のイスラエルへの言葉を語っています。結婚関係に現されいる通りに、神と人との間のテーマは、契約に基づく愛であり、また、それに反してイスラエルのしていることは、姦淫であるというキーワードがありましたね。 さて、戦争になり、神に頼るのではなく、他国の王に頼るイスラエルの民、どうなるのでしょうか。 ★主の癒しのあるところにカオスあり。 ホセア7:1 わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪とは、あらわにされる。彼らは偽りを行い、盗人が押し入り、外では略奪隊が襲うからだ。 一節では、神は、イスラエルを癒す時、と始まります。すなわち、神の御心は、神の民が癒されることです。私たちは、みな、神に従いたいと思っているのです。が、そうできない。それは、私たちのうちに霊的な病気があるからです。神の側では、それを癒したいというご意思がはっきりしていることを見ることがでます。また、できる、できないで裁かれるのではなく、できない理由を癒してあげようとする神の優しさを読み取ることができます。しかし、癒されるときには、私たちの不義と悪があらわにされなければならないというのです。癒されるためには、自分のありのままの姿が露呈されなければ、自分自身でさえも認めることができないのが、人の恥の仕組みであり、人の高慢、欺瞞であります。あなたは、神に癒していただきたいですか? 神の前に、あるいは、人の前にもありのままの姿をさらしてまでも、神の前に正しく生きて行きたいという、意思と覚悟があるでしょうか? ★中途半端は、ゼロと一緒 ホセア7:8-10 エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる。9 他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。10 イスラエルの高慢はその顔に現れ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。 イスラエルとは、そもそも、神に選ばれた民であり、全世界が神と共にある彼らをみて、神を知るようになることが彼らの使命であり、特権でありました。しかし、今や、他国の民の中に入り交じり、神の民としてのなんの塩気も特徴もなく生きているというのです。新約にも、塩が塩気をなくしたらなんの意味がありましょう。という箇所がありますね。エフライムは生焼けのパンだと言われています。半分は焼けて半分はできてない。神の言葉を聞いても、従わない。神の民のようで、そうでない、中途半端な状態であるというのです。そして、何よりも、その生焼けのパンのようである自分自身の姿に気が付いてないとうのです。みなさん、自分の姿に気が付くというのは、簡単なことではないですよね。まず、他者がいないと、自分の姿に気が付くことができませんし、他者に反映している自分を受け入れてこそ、気づきになります。受け入れることも簡単ではありません。しかし、塩気を持つためには、半分神様に従い、半分自分の思いを通すということではできないのです。 ★自ら罠にかかるナイーブさ ホセア7:11-13 エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった。彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く。12 彼らが行くとき、わたしは彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き落とし、その群れが騒々しくなるとき、わたしはこれを懲らす。13 ああ、彼らは。彼らは私から逃げ去ったからだ。彼らは踏みにじられよ。彼らはわたしにそむいたからだ。私は彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う。 箴言16:1-3 人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。2 人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。3 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。 愚かで思慮のない鳩のようだと言われた民は、大きな外国に頼ることが得策だと思い、そうするが、その大国は、敵国であり、飛んで火にいる夏の虫状態であることを盲目的に理解できないという状態でした。私たちも、自分の思いに頼ると、罠に陥ります。しかし、箴言にあるように、神に委ねるときに、私たちの道はゆるがないものになります。ある人が言いました、神に委ねるというこは、自分の計画、思い事、全部、ぽーんと神様の方に投げ捨てることです。自分の手元にも何にもない状態。私たちも神様に委ねることができるでしょうか。委ねるとは、それがたとえその通りにならなくても、取り去られても大丈夫という精神状態です。ある意味、計画に対しての自我の死です。 ★この世の満たしにご注意 ホセア7:14 彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく。彼らは、穀物と新しいぶどう酒のためには集まって来るが、わたしからは離れ去る。 人々は、食べるもの、すなわち、生活、新しいぶどう酒、一時的な喜びにひかれて行って、神に心から叫ばず、一時しのぎの満たしのために神から離れてるということです。私たちも、その点でよくよく考えなければなりません。イエス様も、マモンに仕えるか、主に仕えるか? 同時に二人の主人には仕えられないとおっしゃいました。 ★的外れ ホセア7:15-16わたしが訓戒し、わたしが彼らの腕を強くしたのに、彼らはわたしに対して悪事をたくらむ。16 彼らはむなしいものに立ち返る。彼らはたるんだ弓のようだ。彼らの首長たちは、神をののしったために、剣に倒れる。これはエジプトの国であざけりとなる。 最後に、イスラエルはたるんだ弓のようだといいます。どんなに的を得ようとしても、たるんだ弓では、的をまっすぐにいることはできません。的外れは、罪を表す言葉です。弓がたるんでいては、正しいことをしようとしても、必ず間違うのです。弓とは、なんでしようか。それは、神様との関係ではないでしょうか。癒す神が、今日、あなたの弓を正しくしてあげようと招いておられます。今日、神様に立ち返りましょう。 ぽ