お世話になった人を訪ねる
Mar
13
爺さんの家に寄っていただいた、 ラスベガス グランドキャニオン そして
ヨセミテを観光してサンフランへ
サンフランシスコには、 爺さんがアメリカに住むきっかけになった方が住んでいる、
38年前のモントリオール オリンピックの年に 現代っ子の大阪の爺さんと
人情厚い熊本の人と 昔は、電話のなかなか大変な時代、情報は 日本からの
お客さんが情報源 大阪弁と熊本弁で会話、 アメリカ滞在の注意を聞いて、
三ヶ月間の旅に 何のトラブルもなしで 楽しい旅を終えた。
何回かの行き来 昔は、婆さんが 年賀状を出したが 最近は、電話で省略
本当は 前もって電話して 都合を聞くのが礼儀だが、いつもの癖で、
ベイブリッジに着く少し前に ”今、 サンフランに居るんですが 三十分ほどで
着きますが お茶をお願いします。” また トラブルメイカーが来たかと
いやな顔もせず、歓待してくれた、
会話の中で 震災の津波で 家を無くした話が出た、
バーブさんの口癖 you know で始まる、
貴方も ご存知と思うが、 あんなの(津波のこと)ナッシングと言う。
日本語に直せば あんな 東北の津波なんか たいしたことは ないよ!!
この会話を 津波で被害にあった人が聞いたら、怒るかもしれない。
昔、日本は 苦しい時代があった、国の政策で ブラジル、 ハワイ など
移民を奨励する時期があった、 バーブさんの父上も一大決心でアメリカへ、
一世は 大変な苦労、現地と日本の話が違う、 そして、日本とアメリカが
戦争になる気配、 バーブさん一家は 一時日本に帰国、 アメリカに留まった
人は、危険分子とみなされ、強制収用所へ、アメリカで生まれた子供は、自分の
親の国と戦争に、 子供たちの選択は、アメリカに忠誠 ヨーロッパ戦線で
沢山の死者が バーブさんは 日本の学校で
”あれはアメリカのスパイだあいてにするなと” いじめられた、 実際
広島 長崎で 沢山の死者が、 日本全土が、焼け野原、 食べるものもない、
がんばって生活したが、 やっぱりアメリカのほうがいいと決断 またアメリカへ
これを、 帰米二世と言う、 津波に会った人は せいぜい二日ほどで食べ物は
あったと思う、 バーブさんの経験したことは、津波であった被害など、
とるにたらないと 言う意味です
バーブさんが 元気な内に もう一度訪れて、 昔の話をしてみたいと思います。