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takeの電気式日記

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自分が自分ではなくなる事を想像

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義父が昨年7月(2015.07)に肺炎をおこして2週間ほど入院した後、
たったそれだけの短い期間で認知症と判定されるほど
物忘れ以上のモノの認識ができない。
手順に沿って簡単な動作をする事も全くできず、
何度も繰り返してトライするのだが、いっこうに出来ない。
クレバーだった義父からして、ありえない事だ。
肺炎完治して半年経過した現在(2016.03)、
ラジオも聴かない、テレビも観ない、運動しない(弱ってできない)、
新聞は日付だけ見て終わり。何もしない。

でも、着る服にこだわりがあって、外出するときに羽織る上着や、
寝る時のパジャマは、お気に入りのものがないと騒ぐ。
服ならどれでもいいんじゃないか?と自分は思うのだけど、そうはいかない。
今はまだマシな方なんだろうけど、そのこだわりが無くなった頃は、
もう義父が義父ではないんだろうと想像させられる。

自分の祖母は昨年100歳を迎えたものの、息子娘の顔は分からず、
ましてや孫の自分は認識できない。
でも、何か不満があって騒ぐという事は無く、
老人ホーム職員からはいいおばあさんとの事。

自分がもしボケてしまって誰が誰だかわからなくなったらどうしよう?
なんて事を想像してみるのだけど、そうなった時はもう
自分が自分じゃないので、想像するだけ無駄なのだと思う。

仮にボケなくて、まわりの家族が誰も居なくなって
誰とも交流が無いという状況に陥った場合、
何を励みに生き続ければいいのか?と少し考えて見るのだけど、
お金を使えるだけ使ってしまって、オケラになってどうしようもないのなら、
飲まず食わずで2週間過ごして静かな自害という手段もある。
それはありえない事だけど、どうしようも無い状況に陥る前の
最期の手段としてそういうのもあるという事を認識しておけば
そこには陥る事はないと思う。

何が幸せを運んでくるかわからないから、
何でも熟すというスタンスで居たい。

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