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two o one two

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auto flush toilet

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05/17/2023







職場のトイレはauto flushになっている。
レバーやボタンに触れる必要がないのが良い(手を洗うとは言え、清潔だとは言い難いので)。
と、思っていた。

が、、、、この前、大変なことが起こった。


職場のbathroomはわりと広くて、ドアを開けると右側に戸棚があって(扉の中には予備のロールペーパーなどが入っている)、用を足す前にその棚の上に携帯電話を置いたりする(余談だが、そこに携帯を置いたままでいるワーカーが多い)。

わたしはいつもパンツの後ろポケットにbox cutterを入れている。箱を開けることが多いので、すぐに取り出せるようにだ。

ここまで読んだらもうお分かりでしょうか。はい、その通りです。
その日、わたしはbox cutterをポケットから取り出して棚の上に置くことを忘れてしまった。というか、後ろポケットにbox cutterが入っていることを忘れていた。
そして、トイレに座ってーーーーー詳細は省略ーーーー
そう、つまり、気付いた時には黄色いbox cutterがトイレの中に、、、、、😱😱😱

迷うこと、一瞬。
しかし、迷っている場合ではない。拾うのだ。自分の排泄物だ、手を洗えば済むことじゃないか。
コンマ1秒くらいの躊躇の後に意を決して拾おうとしたその時。

auto flushhhhhhhhhhhhhhh!!!!


忘れていた。職場のトイレはauto flush、しかも非常に敏感なセンサー。
目の前で、わたしの黄色いbox cutterは勢いよく流れていった。うーーーーーーーわーーーーーーーーー😱😱😱


頭の中が真っ白になった。
ヤバいヤバイやばい、、、、、どうしよう、、、、

念のため(何のため?)、サイドボタンを押して、もう一度フラッシュした。
水は勢いよく流れていった。


黙っているわけにもいかないので、マネージャーに報告すると、大笑いされた。詰まって逆流してきたか?と訊かれて、いやそれが逆流どころか問題なく流れてった、と言うと、Great, then, no problem! for now!!と言って笑っていた。
同僚も腹を抱えて笑っていた。その時のわたしの様子を思い浮かべると尚のこと可笑しいのだろう。他人事だから笑い話なのだ。でも、実際、笑い話にしてくれて救われた。

あれから3日。
うちの職場のトイレは問題なく稼働している。
夏休みまで残り12日?とか誰かが言っていた。それまで問題なかったら、時効としたい。



わたしの実家もauto flush toiletだ。
母にとって便利だろうからとそうしたのだが、母の介護をするようになってからはとても役立った。

母が亡くなった年の夏に帰省したときにはauto flushになっていなかった。姉3がセンサーをOFFにしたらしい。「母ちゃんいないから普通でいい」
が、姉2はauto flushが好きで、「またセンサー切ってる!」と言って怒っていた。
姉3は、自動洗浄に慣れると、普通のトイレで流すのを忘れてしまう、脳が働かなくなる、だから自動にしないほうが良い、と言っていた。
忘れんよ。
いや、忘れる。
2人はそう言い合っていて、しばらく、自動だったりそうでなかったりした。
が、姉2が折れたのだろう、そのうちauto flushではなくなった。

母はこのやりとりを天国から見て笑っていたかも。


あの、黄色いbox cutterが流れていったとき、わたしは実家のトイレのことを思い出した。

やっぱり、自動洗浄は良くない(理由は違うけど)。














#介護日記 #日記

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ムツゴロウさん

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04/06/2023










ムツゴロウさんが亡くなった、、、、すごく悲しい。淋しい。

 ↑
この記事で写真家である加納典明氏が「あり得ない光景」だと話しているが、わたしもムツゴロウさんの番組を見て、「あり得ない!!」と衝撃を受けたことがある。

それはもう随分前のことで、いつだったのかも覚えていない。
日本で暮らしていた頃だったのではないかと思う。20年くらい前だろうか。もっと前かもしれない。

ドキュメンタリー番組で、もちろんムツゴロウさんと動物の交流も映し出されていたと思うのだが、この頃、ムツゴロウさんはお母さんの介護をされていた。一緒に暮らしていたのか、お母さんのところへ通っていたのかは覚えていない。が、お母さんには認知障害があったようだ。番組内で、こんなことを言っていた。

「風呂に入るのを嫌がるんですよ。でも、風呂には入れなきゃならない。でね、こういう時って、母親も動物もまぁ一緒なんです。連れて行くときに母の肩(腰?尻?だったかもしれない)を叩くわけです、右側だったり左側だったり叩きながら歩かせるわけです。叩けば歩きますからね。そうやって風呂に入れています。」


そんな感じだった。

もし、今の時代に放送されたら(放送もされないだろうけれど)大問題になるような表現だ。
でも、ムツゴロウさんのあの笑顔で、「動物も人間も一緒です」と言われると、なるほどそうなのか、と、思ってしまった。愛情あっての言葉だった。


母の介護をしていた頃、ある日の母の言葉で、このムツゴロウさんの様子を思い出すことがあった。
母の認知障害はかなり進んでいたのだが、たまにふっと正気に戻ったのでは?と思わせることがあった。
あの時、母はこう言った。
「腰に紐を巻いてそれを右、左、と引いてくれたら、どっちに行けば良いのかわかるのに」
実際には島ユムタで言ったので、何を言っているんだ、と、理解するのに少し時間がかかった。

が、ああああああ、そうか。頭と体がうまく繋がっていないからか、、、、、

そして、随分前に見た、ムツゴロウさんのあの様子を思い出したのだった。


この話は姉たちにも娘や姪っ子にもしたのだが、誰もあの番組を見ていない。
あれから、どうにかしてあの時のムツゴロウさんの言動をもう一度確かめたいと、何度か検索もしたのだが見つからなかった。
どこにも書かれていないし、お母さんの介護をしていた、というエピソードすら載っていない。

記憶違いではないとは思うのだけれど、、、、




ムツゴロウさんが亡くなった。
つい最近、坂本龍一氏が亡くなり、ムツゴロウさんの映画の音楽を担当したのが彼だったと紹介している記事もあった。
坂本龍一氏が亡くなったとき、ショック、、、悲しい、、、と、娘と話していたのだけれど、ムツゴロウさんが亡くなって、さらにショックだし、とてもとても悲しい、、、、淋しい。













#介護日記 #日記

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ふぅ波

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01/17/2022









津波警報は未明に解除された模様。
今朝のYahoo!は通常どおりのデザインだった。

姉たちは解除される少し前に山を下り、家に戻ったらしい。一晩中、駐車場の車内で過ごしたせいで、そのまま泥のように眠ったよう。まるちゃんもやっと落ち着いたみたい。
空振りになった避難劇、疲労困憊の中、少々「早まり過ぎたかも」という気持ちが残ったようだが、いやいや、避難して大正解です。お疲れさまでした、と、言えることに感謝したい。


姉2が母と一緒に暮らしていた頃、あれはいつだったか。
同じように津波の危険ありということで避難準備だか避難勧告だかが出されたことがあった。

姉は、とりあえず必要なものをバッグに入れ、母を連れて戸外へ出た。
あの頃、母はまだ歩行器を使って歩けたので、よっちらおっちら、母と山のほうへ向かった。
母のことを考えて早めに行動した姉、近所の家々に動きは見られなかったようだが、そんなことは気にせず、母を連れて歩く。
我が家から少し上がったところに教会があるが、そこでは安心できない。
もう少し上がったところには神社があり、そこは階段をずっと上がっていかなければならないので、母には無理だろうと判断、そのまま山道を進んだ。
海岸線からそれなりの距離かつ高度的にも大丈夫だろうと思ったところに落ち着いたらしいのだが、それにしても町内は至って普通。
しかも、母と歩いている途中、近所の人から「まだそんな段階じゃない」的なことも言われたとか。

この時も、結局は事なきを終え、母とおっちらおっちら家に戻ることになる。

この話は、後になって姉自身から笑い話として聞かされたのだが、わたしは姉の気持ちがよくわかった。
母は、その昔、チリ地震津波を経験している。

その頃、わたしの両親は母の父親と同居していた。
父親(わたしの祖父)は病気がちで、いつも床に臥せっている状態で、母は祖父を介護しながら暮らしていた。
そんな中、津波警報が出た。
町のサイレンが鳴り、人々は皆、山のほう、高いところへと向かったという。
考えてみれば、わたしはまだ生まれていなかったが、兄や姉たちはもうこの世にいた頃だ。
母はその話をよくしていたのに、今になってもっとちゃんと聞いておけば良かった、と後悔している。
姉2は母からのその話を何度も聞いていて、よく覚えている。
わたしが聞いた話は、姉からのものだったのかもしれない。

「置いて行かんでくれよー」

強烈に覚えているのは、祖父が母に放ったらしいこの言葉だ。
寝たきり、と言っても良いような状態だったのだと思う。母は、そんな祖父を連れて、とにかく逃げた、と。
その時、父は(父もまだ生きていた)、一目散に駆けて行った、と。
祖父を残して、子供達を連れて。

わたしたちは母からその話を聞いた時、父ちゃん、非情だわーーーと、笑ったものだ。
でも、今さらながら、母はどんな気持ちだったろう、と思う。

島の津波は19:50到着、0.5mと記録されている。
被害はなかったと思う。時間的にももう暗くて辺りは良く見えない頃だろう。ふぅ波は見えなかった?でもきっと打ち寄せる音は聞こえたのかも。


記憶がおぼろげだ。
姉ならもっと良く知っているので、また詳しく聞いてみたいと思う。

昨日、避難しているときに姉と話したのだが、母がいたらどんなに怖がっただろう、と、言っていた。
「いなくて良かったよ」
と、返した。
「うん、いたら、ものすごく怖がったと思う」と姉が言うので、
「もし母ちゃんがいたら、トイレがあっても大変じゃ」
と返すと、笑っていた。

姉は、とても優しい。









#介護日記 #日記

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母の日

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5/9/2021







Happy Mother's Day!

夫からラベンダーのオイル入り(?)のヒーティングパッドを貰った。→Rare Essence Lavender SPA Body Wrap

ー毎朝レンジで温めてる音がしてたから
と。
なんだ、知ってたのか。😂

わたしが使っていたのは去年だかに義理ママからもらった手作りのやつ。
iPad mini程度の大きさでお腹にあてたり肩や膝にちょうど良いサイズで大重宝。
で、今日からは夫からのと二刀流となった。ぬくぬく〜。


 ・・・


娘からLINEでメッセージが届く。
そして、何年か前に帰省したときの母とわたしの動画が送られてきた。
あの頃は母は入院中で、その入院先にわたしは毎日見舞いに行った。面会時間が決まっていて(確か午後2時以降)、夕食の時間まで付き合って家に帰った。母は調子の良い時もあったけれど、概して調子が悪く、動画の中の母の表情もすごく硬い。わたしはそんな母に、明るく、優しく、機嫌を損ねないように、接していた。
あの頃の母は薬漬けだったんだよなぁ、、、と、動画の中の母の姿を見て、あらためて思い出した。

姉たちと姪っ子にも動画を送った。

それぞれ返事があって、それぞれと話した。
こうやって別々の場所で、母のことを思い出す。
母はあちらでどうしてるだろか。わたしたちのことを見て、笑ってるだろか。やわらかい顔をしてるだろか。

姉2から、母ちゃんの姿をもっと動画に撮っておけば良かった、、、と返事が来たので、iPadに沢山あるよ、と返した。
帰ったときに一緒に見よう、と言うと、みんなで母ちゃんの思い出話をしよう、と返って来た。

母ちゃん、母の日おめでとう。









#介護日記 #日記

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母の命日

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03/04/2021








今日は母の命日。


ついこの前、日本との時差を気にして遅れないように・・と姉2にLINEを送ったら1日早かった。ので、仕切り直しで昨日の朝、新たに送ったのだが、姉2から既にLINEが届いていて、母の最期を思い出してのことだろう、眠れない、という内容だった。
姉2は母のメイン介護者だった。4姉妹で役割分担というか、それぞれが出来ることをしてきたつもりだけれど、母と同居していたのが姉2なので、色々と思うことはあるだろう。姉のメッセージを読んで、過去日記を読み返したりしていた。母とのこと、もっと詳しく記録しておけば良かったなーなんて、今更ながらに思う。でも、読み返してみると、色んなことが思い出されて、書いておくモンだな〜とも思った。
それにしても、思い返せば思い返すほどに泣き笑いの介護。やっぱりもっとしっかりと記録しておくべきだったかも。


3月3日。
インスタにお雛様の写真が出てきて、ああ、ひな祭りか・・と思い出す。
立派な雛壇の写真もいくつかあって、大昔、娘を出産したばかりのことを思い出した。


わたしたちの娘より、2ヶ月か3ヶ月くらい前に友人夫婦にも女の子が生まれていた。友人夫婦はわたしたちと同じ国際結婚で旦那さんがアメ人(夫の友人)、奥さんが日本人だった。彼女と知り合ったのは、そういう経緯。彼女はわたしにとって妊婦さんの先輩、という感じで、色々と教えてもらった。

2月の末か、3月のはじめ頃だったか、彼女たちの家に行った時のことだ。食事に招待されたか、ただ遊びに行ったのかは覚えていない。行くと、リビングにどかーーーーんと、雛壇が飾られていた。うおおおおおおお、と、眼を見張った。あのような本格的な雛壇を普通の家で見たのは初めてだった。お店でしか見たことなかった。そして、そこで彼女に訊かれたのだ。

mのところももう飾った?

は?何を?
というのがわたしの返答。今マジに。

お雛様!だって、女の子でしょう。
いや、飾ってない、というか、持ってないよ。

彼女は、ちょっと驚いた顔をして、えええかわいそうだよ、初めての女の子でしょう。女の子はお雛様を毎年飾るのよ。と言った。

はて?
と、自分の生まれ育ったこれまでを思い出してみた。お雛様なんて、我が家にはなかったんですけど。

彼女は、そんな家庭があるなんて、という表情をして、とにかく飾ってあげて、かわいそうだから。と言った。


それでお雛様を買うようなわたしたちではない。夫にしてみれば日本の文化風習なので思い入れもない。かく言うわたしにとっても、特別な想いはなく。そう言えば、ひな祭りの人形とかは作ったな〜程度。

それがだ。
確か娘が3歳の頃だったと思う。母が雛人形を買ってくれた。びっくり、、、した。
雛壇のものではなくて、ガラスケースに入った、男雛と女雛だけのものだ。
遅くなったけれど、T(わたしの娘)のために、お雛様を飾ってあげてね。と言われて、二度びっくり。母が、だ。母が、お雛様を、Tのために。
ちょっと、うるっと来た。
自分、そんな気持ちなかったから、母の想いを受け取って、初めて、ああ、女の子なんだから、そうしてあげるべきだよな・・と思った。そして、ああ、母もきっと、ずっとずっと、本当は、自分の娘たちのためにお雛様を飾りたかったのかな〜とも思った。


母の命日はひな祭りの翌日なので、いつもこのことを思い出す。

お雛さまは、アメリカに引っ越す時に壊れてしまうだろうからと日本に置いて来た。そう言えば、もうずっと出してないけど、今でもあの場所に保管されたままなのか?手放した記憶はないけど、、、、今度帰った時に確認してみなくては。ごめん、母ちゃん。









#介護日記 #日記

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心の声

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10/04/2019






これまでにも何度も食べたことのあるものについて、「こんな魚食べるの初めて。これはなんて魚なの」と聞いてくる超高齢の母親に対して、「これは○○だよ」と普通に答えれば良いところを、なんだか悲しくなって、(何度も食べてもらったじゃないか、これは○○だよ)という心の声を表に、しかも苛立ちまぎれに声にしてしまう、という某ブログの作者の記述に、生前の母のことが思い出された。


母の認知障害は徐々に進んでいたのだが、帰郷した折からどんどん進行していったように思う。

あの頃、まだ島に帰る前の母は、何度も同じことを話したり聞いたり時に怒ったりもあったが、外界との接触はそれなりに出来ていた。外食など、出かけることを頑なに拒むようにはなったが、デイには毎日通えていたし、お気に入りの介護士さんもいたりして、笑顔も多かった。

わたしは毎夏、母の介護(の真似事)のために2か月ほど帰国した。母に会いたいのはもちろんだったが、わたしが一時的に母と一緒にいることで、姉たち(あの時は姉3がメインだった)のレスパイトになれば、という思いだった。

ある時、母が祖父のことを訊いてきた。
祖父はもちろんもう亡くなっていて、その時の母の口ぶりからすると、母はタイムスリップしたかのようだった。確か、病床の祖父のオムツをちゃんと確認してくれ、といったことだったと思う。
わたしは母に「わかった、確認しておくからね」というようなことを答えた。
すると姉3がすかさず、「なんで母ちゃん、じゅうはもうおらんがね」と言った。「じゅうはモリシタがね」
母は一瞬きょとんとした顔をしたがあまり意に介さなかったように思う。

後になって姉3はわたしに、母に嘘をつくべきじゃないような気がする、母にちゃんと話せばわかるのではないか、忘れているだけだから、もう死んでいないんだよということを思い出させればいいんじゃないか、というようなことを言った。「なんでもかんでも、そうだね、と言うのは、ちょっと違うような気がする」

あの時、姉3にそう言われて、あぁ確かにそうなのかもしれない・・・と思った。元看護師であるわたしは、母のそういった言動に、あまり深く考えることもなく、母に合わせて答えていた。マニュアル的だったと言っても良い。
思い返せばあの頃、母と一時的に同居していた姉1もそうだった。姉1もまた看護師だからか、母と接する彼女は、穏やかで優しく、母の言うことに異を唱えることはあまりなかったように思う。もちろんそれは、全て母の思い通りにするということではなかったが。

姉3の言葉から、自分は母を「認知症のある母」としてしか接していなかったのかもしれない、と反省した。母は母なのだから、母として接するべきだ、と思い直せたきっかけでもあった。姉3の言動すべてが正しいとは思わない。でも、間違いだとも思わなかった。


そんな姉も、母が帰郷しいよいよ認知障害が進んでくると、母との対応が変わってきた。母は母なのだが、それだけじゃなく、認知障害を持った母として、母の心の安寧を最善として対応する。
そんな姉3の変化が感慨深く、自分自身を省みることにも繋がった。


母がアルツハイマー型認知症と診断され感情の起伏が激しくなり、デイにも行きたがらず、かと言って家にいても「家に帰りたい」と訴えるようになった頃、わたしたち姉妹の母に対する接しかたは、いわば足並みの揃ったものだったと思う。

が、長兄は違った。
兄は娘らに母の介護を任せている罪悪感もあったのか(いやもちろん素直に母に会いたかったのもあったのだと思うが)、時々母の様子を見に他県から帰省し何日か滞在した。そして、母の言動に対しいちいち「また同じこと言ってる」とか「わからんわけないだろう」とか、そんなことをのたまっていた。その度わたしは(母のいないところで)、「兄貴、母ちゃんは認知症なんだからそういうことを言わんで」と言ったものだった。


あの時、兄はきっと悲しかったのだろうなと思う。母が、どんどん母でなくなっていくのが辛かったのだろう。
ある晩、友人らと飲みに出かけた兄は酔っ払って帰って来て、眠っている母のベッドの傍に跪き、「おっかんよー、おっかん、○○どー、わかるなー、わかるだろー、おっかんー」と言って、泣いた。「兄貴、母ちゃんせっかく寝たから起こさんで」と言いかけたが、そんな兄の姿に何も言えなくなった。

「ユックらって!ぬっちゅんニンギンかい!なんや長兄ど!」

そう叫んだのは母だった。
驚いた。心底、驚いた。
酔っ払って帰って来てムガル兄を諌めたのは、紛れもない母だったのだ。


翌日、そのことは兄も母も、どちらももう忘れてしまっていた。
でも、このことでわかったことがある。
認知症といってもその魂は確かにそこにあり、認知障害に常に侵されいるわけではないのだ。
あの時母は、母の魂の、心の声を出した。


(でもユックライは、、、、ユックライ兄の魂はそこから抜け出ている。
母と泣きながらでも話したいのであれば、酒の入っていないときにするべきだ。

まぁ気持ちはわからないでもないけれどね。)













#介護日記

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リスボン

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6/18/2019







世の俗民に漏れず、某週刊誌に取り上げられた(とされる)方の 日記 を読むようになって1週間ほどか。
正直で素朴な老々介護の描写に心打たれる。
彼は自身のことを前期高齢者と呼び、主に高齢の母親との暮らしや彼の仕事のことなどを綴っている。
ほぼ必ずと言っていいほど、老々ブレックファースト・老々ディナーメニューが記されていて、彼らの暮らしぶりが見えるようだ。
また、お母さんとの会話やその時の彼の心情などが綴られており、つい亡き母のことを思い出してしまう。

彼のお母上は認知症はないということなので我が母とは違うのだろうけれど、それでも生前の母の呟きや、時にわたしたち娘に見せた困ったような表情を思い出す。あの時、母は何をどう感じていたのだろう。


彼の日記は、淡々と、その日のことが書かれている。
お母上に対しての、困ったなと思うことやうまくいかないと思うことなどもしっかりと記されているが、悲愴感がない。
そして、そういった暮らしの中で「母との暮らしは面白い」と言う。

思えば姉もそうだった。
どんなに辛そうでも(実際、本当に辛かっただろう)、いつも「母ちゃんと一緒にいると面白い!!」と言っていた。
そんな姉に、わたしはいつも「姉ちゃん、本を書きなよー<明るい介護>の本!」と笑って返したものだった。
「いや、色々書く時間も気力もない。それをするのはm(わたしのこと)!書いてよ!!」
と言っていた。

介護の手伝いで毎夏2ヶ月ほど帰国していた時、たまに母のことを書いた。
一応「介護日記」としてのラベルも付けてある。
でも、全然、足りてない。
今になって、後悔の嵐だ。
もっともっと、ちゃんと書いておけば良かった。
母との会話とか、母の様子とか。
あの時は、毎日毎日その繰り返しで、いつも同じことだって思っていたのだろうな。毎日、違っていた筈なのに。



リスボンとはポルトガルの首都らしい。
名前は聞いたことあったけど、どこのことか知らなくて調べたらそう出ていた。












#介護日記 #日記

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母のこと

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5/20/2018







去る3月のはじめに母が天国に召された。

最後にここに書いたのが、焼き鳥の皮と肉まんのことだった。
その直後に、日本でそれらを見ることになったが、実際には食べなかった。食べられなかった。ただ、不思議な気がした。


母は呆気なく逝ってしまった。
父母だけでなく、全ての兄弟姉妹を見送った母は、生前いつも言っていた。

・・・人間というのはそう簡単には逝かないものなんだよ。危篤だ、となってからが長い。神さまが呼んでくれるまで、生きなければならない。わたしたちは、神さまが呼んでくれる「その時」まで、その人をしっかりと見送るだけ。


神さまはそんな母をすぐに呼んでしまった。どうしてだろう。
わたしはいつも、ずっと長いこと、いつか「母・危篤」という知らせを受けるであろうことを考えていた。そして、すぐに荷物をまとめて母の元へ行き、その時が来るまでの長い長い時間を、母のために過ごそう、と思っていた。「その時」が訪れるまでが「長い」のだ、と。その時間を兄弟姉妹と分かち合いながら、母を看取ろう、と思っていた。

知らせを受けた時、母は危篤というよりも、もう手の施しようがない、ということだった。そんな筈はない、とうろたえた。自分でも驚くくらいに、狼狽し、どうしたら良いのか、思考が止まってしまった。
元医療従事者でありながら、姉に訊いたのは、母は苦しんだのだろうか、ということだった。言葉にしながら、愚かなことだと思った。その時のことを聞いて何になるのだ。
医師の話では苦しむ間もなかった、ということだった。本当かどうかはわからない。遺族のためにそう言ってくれたのかもしれない。或いは本当なのかもしれない。あっという間に意識を失い、そのままだったのだから。

母は幸せだったと思う。
晩年はアルツハイマーに苦しみ、不安が強かった。
死ぬことを怖れている様子もあった。いや、死ぬことというより、一人でいることの不安が強かったのだと思う。

2月、父の命日に母が突然、父との思い出話を始めたらしい。
認知障害が強くなり、このところ父のことなど、ほとんど話すことのなかった母が、だ。しかも、その日が父の命日だということは、誰からも伝えていなかった。その母が、穏やかな表情で父の話をしたそうだ。
その連絡を姉から受けた時には、さすが母ちゃん!と、姉妹で笑い合った。
今となって、あれは何かしらの兆しだったのだな、と思う。


母のことを、もっときちんと記録しておけば良かったと後悔している。
母との日常の小さな色々を、丁寧に書き留めておけば良かった。


夏にまた帰国する。
兄弟姉妹で、母のいろいろを語り合おう。
母は人が集まって賑やかに「ユラう」のが大好きだった。
思い出されるのは、母の楽しそうな笑顔ばかりだ。










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お迎え

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11/10/17






5:20起床。外気温18°F(-7.8℃)との表示。今季一番の冷え込み。screenshotにして娘へ送る。ちょっと自慢。

昨日の朝、ちょうどこの時間くらいに久しぶりに姉2からSkype電話が入った。母とも久しぶりに対面。表情は穏やかで、まぁまぁ元気そうに見えて安心。しばらく母と話したあと、「とぅくばろいー」ということでベッドへ。姉曰く、なるべく起きてて欲しくて電話をかけたとのこと。結局、横にさせたのは20:15くらいか。

ここ数日、母は不穏だったらしい。昼夜逆転が続き、夜間に眠れなかったという。息苦しさを訴え、そろそろお迎えが来たか、などとも言っていたらしい。姉も介護でヘロヘロ状態だったようだ。姉のすごいところは、本当に苦しい時には連絡してこないことだ。わたしへは時差の関係もあるのだが、毎月介護に来てくれる東京の姉にも連絡しなかったらしい。「姉ちゃんに連絡したら心配するから」
そんな姉の話を聞きながら、申し訳なく思う。そして、ただ聞くことしかできない。姉は自分自身に言い聞かせるように話す。「薬が切れてしまったのが良くなかったんだと思う。4日、いや5日かかったかな、普通のリズムに戻るのに。」
そして、過ぎたことを面白おかしく話す。
眠れない日々が続いたある晩、母が何度めかに姉を呼んで「もう天国へのお迎えが来た」と言った時、姉はこう答えたのだと言う。「母ちゃん、母ちゃんのお迎えよりわたしのお迎えかもしれない。わたしがもう天国に呼ばれたのかもしれん。」
そして、不思議とその次の晩から、母はまたぐっすりと眠るようになったらしい。姉はこうも言っていた。
「まるでDVみたい・・・飴と鞭じゃないけど、次の朝に母ちゃんが「あんただけじゃが、よろしくやーありがとやー」っち言うわけ。それ聞いたら、あげれ、母ちゃんかわいいやーっち思うわけ。」
わたしは大笑い。「まさしくそれはDV夫婦の関係じゃ!」
DV夫は手のひらを返したように「お前が一番」「俺を見捨てないでくれ」そして妻は「あぁわたしさえ頑張ればこの人は大丈夫。わたしの頑張りが足りないのだ。」と思う。
いかんいかん!いかんよ〜姉ちゃん!!

お迎えと言えば、こんなことも。
デイへのお迎えが来た時に母にそれを伝えると、「天国へのお迎えね?」と母。それに対して姉は「天国だと良いんだけどね〜、デイよ、母ちゃん、デイのお迎え、天国じゃないよ」
こんな会話でお見送り。明るい介護に明るい未来。

別の日にはこんなことも。
「母ちゃん、お迎え来たよ」「なんのお迎えね」「あおぞらさん」「わんば、てんとうっむぅち捨てぃな!」
あおぞらさんとはデイの名前。てんとうとは、おてんとさん、のこと。空の下に捨てるのか、という意味だ。これは咋夏も良く言っていた。
わたしは姉にこう助言した。
今度、母ちゃんがそう言ったら、てんとうさんからのお迎えだよ、っち言えばいいよ。ま、母はわたし達の上の上を行くだろうけれど。

それにしても姉のこの純粋な気持ち、エネルギーに脱帽。心から尊敬する。
母には来年の6月まで生きててもらわないと、と思う。本当に。

カメラを設置してさ、ドキュメント撮影したいね。それを映画にしたら大ヒットだよ!

こんな冗談を笑って聞いてくれる姉には感謝しかない。
母ちゃんも姉ちゃんも、ふたりとも、本当に素晴らしい。









#介護日記

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若草姉妹

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7/6/2017







姉1が今日、東京へ戻っていった。
2日に来て4泊5日。あっという間だった。
3日に姉3が合流したので、しばらくは4姉妹勢揃い。2年前の温泉旅行以来だ。

姉の、母に対する接し方がとても優しくとても丁寧で、勉強になった。母のほうは、良い時と悪い時の差が激しくて、嫌でも認知症の進行を感じさせられたが、それでもとっても穏やかな時もあって、そんな母と笑いあったり出来たのは良かった。

姉3は比較的長期間、いられそうだ。
ここで仕事を探すことになりそう。わたしのいる間に色々と決まって軌道に乗れるといいのだけれど。。。


毎日暑くてエアコンのお世話になっている。
犬たちの散歩はもっぱら夕方だ。














#介護日記 #日記

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