フェンシング!!

北京オリンピックで新たな日本人ヒーローが誕生した。

騎士道に端を発するスポーツ、フェンシング。

若武者太田 雄貴、22歳。

日本の柔道ではヒーロー・ヒロインがいるのは当たり前かもしれない。

日本の武術・剣道はオリンピック種目にはないが、

洋の東西でフェンシングと剣術には通じるものがあるか!?!

柔道にも言えることだが、単に勝てば良いのではないだろう。

静と動、「心身一体」となす武道精神が奥底にあると思えるのだ。

古い話だが、昭和の始め頃に、野間 恒という剣客が居た。

彼は、講談社の創始者、野間清治の一人息子。

昭和8年、「昭和天覧試合」で優勝した達人だが、

地区予選から各府県代表本戦、

決勝戦まで一本も打たれることなく勝ち進んだ。

決勝戦相手の二刀流名手に難儀、右胴を一本とられたのみだった。

しかしてそれよりも強い剣士がいたという。

「森(野間)寅雄」。

この剣士は、野間 恒の従弟(いとこ)だった。

わけあって幼くして野間家に入籍していた。

そんな寅雄が、府予選で恒に二本とられて敗退した!?!

恒は、天覧試合の数年後、病没している。

寅雄は、天覧試合後、野間家を出た。

森 寅雄という名は、幕末の千葉周作道場の四天王と言われた

森 要蔵の息子として「戊辰戦争」で名を残した人物が有名であるが、

ここで言う森 寅雄と恒は、双方とも要蔵の娘が、母方の祖母に当たる。

二人とも森要蔵の血を引いている。

会津城外、雷神山で戦死した森寅雄は、彼等の大伯父であり、、、、

雷神山の寅雄にあやかって付けられた名らしい。

こんな昭和の森寅雄は、昭和9年に米国・サンフランシスコに渡った。

仕事を転々とし、養蜂場で働いていた時、日々剣道の鍛錬をしていた。

それを見ていた友人のダニエル・ソーンなる人物が、

フェンシングを寅雄に教えた。

寅雄は、フェンシングの世界でも頭角を現し、

渡米2年足らずで、全米選手権大会で優勝している。

昭和11年のベルリンオリンピックでは、

非公式の米国選手コーチを依頼されている。

米国では、「タイガーモリ」と呼ばれ

フェンシング界では知られている。

昭和35年にはローマオリンピックに

米国フェンシングチーム監督として参加している。

そんな彼の残した言葉の中に・・・

「フェンシングは、勝つだけの技術である。
しかし剣道は、己を鍛える為のものである。」

オリンピックで日本人柔道家が、「一本」にこだわっていた。

減点法の柔道など見たくない。

洋の東西はあるが、切る(剣道)と突く(フェンシング)

これ等の背景には、精神論が潜んでいるまいか!!
#スポーツ

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