昨日の竹田研究会は、なんと樺太の勉強。 1945年8月20日の話を竹田先生から聞く事になろうとは思わなかった。 僕にも5分だけ、この話をさせてほしかった。 ------------------ 僕の母は、樺太(サハリン)の生まれです。 樺太の面積は76,400km²であり、北海道の面積(77,981.87km²)に匹敵する。 当時、国境以南の南樺太には45万人の日本人が生活しており、祖父は王子製紙の工場の寮の食事を作り、祖母は豆腐屋をやっていたと聞いています。 8月6日に広島に原爆が投下され、日本の敗戦が確定的になった1945年8月8日。 それまで友好国だと信じていたソビエト連邦が日本に宣戦布告し、満州・朝鮮・樺太で一斉に進撃を開始する。 1945年8月20日朝。 真岡の王子製紙工場を見下ろす岡にある、大きな社員寮の小さな窓からは、海が真っ黒になるほどの軍艦が押し寄せ、火の塊が飛んで来るのが見えたと聞いています。 軍艦による砲撃です。 人々は防空壕へ避難しましたが、ソ連軍はその一つ一つの防空壕の入り口から機関銃の銃口を差し込み、多くの人がその中で倒れました。 母達が隠れた防空壕は、扉が壊れて開いていたため「無人」と判断され生き延びたようです。 伯母は、真岡郵便電信局の電話交換手。 後に「氷雪の門」という映画になった悲劇の職場の同僚です。 幸い、その日は非番だったのでしょう。今も存命です。 ソ連の侵攻後は家屋の接収があり、何度も引っ越したと聞いています。 2年の月日が流れ、最後は着の身着のままで、引き上げ船に乗ったのだそうです。
Posted at 2013-08-21 02:00
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Posted at 2013-08-21 11:02
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Posted at 2013-08-21 15:57
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Posted at 2013-08-22 10:09
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