ローマ書二章
Sep
12
シリーズロマ書ですが。先週、一章では、ロマ書のメインテーマと、福音、義、そして、異邦人の罪について話しました。今日は、その続きです。続いて、人を裁く罪、ユダヤ人の罪と罪のお話しが続きます。義=正しさについて話すには、罪について話さないわけにはいられないからです。私たちは、みな正しくありたいという願望を心に持ちながら生きています。そして、それゆえに罪悪感に苦しんだりするわけです。人間の大きくの問題は、義に関することと言っても過言ではありません。
★ 人を裁く罪 ユダヤ人の罪The sins that judge others --- sins of Jew
ローマ2:1
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
一章の終わりで、様々な罪のリストがありました。そして、続いて、人を裁く人よ。あなたに弁明の余地はありません。。。。と続きます。人を裁く人は、誰でも、自分を罪に定めているというのです。
◎ 裁きについて
私たちは、裁きについて甘く考えていることが多い。良いか悪いかを決める。審判する。また、人を罪に定めることであるが。聖書は、誰をも裁いてはいけませんと書いてあります。裁かれないためだ。。。とルカ七章。人にレッテルを貼ることも裁きです。『あの人は、ああいう人だから。。。』というのも裁きです。あなたが、人を審判することが裁きです。
二つの側面。
① The plank from your own eye, and you will see clearly the speck from your brother’s eye. Matt. 7:5 自分の目の梁、他人の目のちり マタイ7:5
人は、人のしている悪には気が付くけど、自分の悪には気が付かない鈍さをもっている。それは、高慢さから出ているとも言える。
② Sawing and reaping Gal. 6:7 種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7
人は、種まきと刈り取りの法則ガラテヤ6:7の通りに、人を裁く通りに、自分も裁かれるようになる。(自分が裁きを下した人と同じことをして裁かれるようになる)
この法則も、神の知恵です。それは、裁かれることによって、自分を知り、悔い改めに導かれるからです。
ローマ2: 4, 5
4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
◎ Self-righteousness (自己義)
人の罪の中で、いくつか大きいもの、取り除きにくいもの。悪魔が大好きなものがあります。それは、赦さない罪と、自己義。です。分かりやすい、悪人のする罪、盗みや暴力と比べて、目に見えにくいものです。かえって上品に見えている人の方が、大きな罪を持っているのかもしれません。
自己義、という言葉があります。これは、自分がいろいろと神様の御用をやっているし、罪を犯していないから自分は正しい、義だと思っていることです。これは、大きな間違いです。義は、一章でちらりと話しましたが、信仰によります。自分からは出てこないのです。自分で自分を正しく保てるのなら、神様はいらないのです。
パウロは、言っています。「神の慈愛が私たちを悔い改めに導くことをあなたがたは知らないのですか」
私の証し;
神学校行きたてのころ、私は、自己義満載の人でした。献身者たるもの、こうあるべきだ、みたいな考えでいました。そして、クラスメイトを裁いていました。「この人は召されていない。自分の力でここにいる。召しでなく、自分で何かになろうとしている。事実、あれもしない、これもしないじゃないか。」といつも裁いていた。一学期中自分がしんどかった。その人を見ると辛いし、自分がイライラする。あるとき、朝、聖書を読んでいる時、1ヨハネ4:8 「愛のないものに神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉に出会いました。とても、ショックを受けました。自分の持っていると思っているもの、自己義について強く示されました。私たちは、自分の測りで他人を測り裁いていますが、神の測りは、どこまでも愛であり、その愛の測りのないものは、神を知ってはいないのだ。。。と語られたのです。私は、泣き崩れ、悔い改めました。私の、愛のなさ。愛のアプローチの無さに気が付いて、自分がされたらどんなに傷つくかということも思い知らされました。そして、悔い改めました。私は、自分の自己義の大きさにはっきり直面することとなりました。
◎裁く人たちへの解放の鍵
神様の慈愛に気付くこと。愛の測りを知ること。そして、悔い改めること。この二つは、私たちの盲目な霊の目を開かせます。開かせて、まず自分自身が見えるようになるのです。
★律法を知っているひとたちへPeople who know the law of God.
律法というのは、聖書のことでもあります。アブラハムが信仰を持ち、そして、神の人となり、その子孫たちがユダヤ人となりました。ユダヤ人にモーセを通して十戒が与えられ。また、モーセが神の書物を書きました。ユダヤ人たちは、律法を持つている=神の民 ということで、自分たちのことをとても誇りに思っていたのです。そして、自分たちは、その律法という「測り」を持って、周りを測り続けていました。
しかし、パウロは、そこをついて、
ローマ2:13
13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。13 (for not the hearers of the law are just in the sight of God, but the doers of the law will be justified;
ローマ2:16
16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。16 in the day when God will judge the secrets of men by Jesus Christ, according to my gospel.
「律法を聞いている人が正しいのではなくて、行っている人が正しいんですよ。」と主張します。そして、「自己義も、裁きの日に、人の目には隠れていたとしても、神様に裁かれるのですよ。」と。
★心の割礼circumcision is that of the heart
ローマ2:26-29
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
ユダヤ人と異邦人との大きな違いは、律法を持つか持たないかもそうですが、割礼もまた一つの違いです。割礼とは、神様との契約関係にあることを示し、男性の性器の一部を切り取るという儀式です。
しかし、割礼を受けていても、律法を行っていないなら、自分を裁くことになっていないか? というのです。ユダヤ人は、そもそも、人種でなく、アブラハムから始まった信仰を引き継ぎ、神様と関係のある人がユダヤ人なのですから、外見上のユダヤ人、人目に隠れたユダヤ人という言い方をしています。
文字ではなく、御霊による心の割礼こそ、割礼である。すなわち、神様に示され、心から悔い改めること、そこに聖霊様が働く、それこそ、本当の割礼であり、それは、人の業ではなく、神の業であり、神の栄光である。というのです。
二章、いかがでしたか? 今日は、自己義を取るか、神の愛の測りを取るか? ということだけ覚えていただけたらと思います。今週も神の愛にとどまりましょう。
ぼ
Posted at 2016-09-13 07:58
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Posted at 2016-09-13 18:42
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