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岩魚太郎の何でも歳時記

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  • 私の一枚  「敗戦 昭和二十年八月十五日正午」・岩魚太郞の体験記録・下記「昭和を生きた物語」04:松山大空襲」(昭和二十年七月二十六日午後十一時三十分)・表現は小説だが、内容は実体験である。

私の一枚  「敗戦 昭和二十年八月十五日正午」・岩魚太郞の体験記録・下記「昭和を生きた物語」04:松山大空襲」(昭和二十年七月二十六日午後十一時三十分)・表現は小説だが、内容は実体験である。

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私の一枚  「敗戦 昭和二十年...
04 松山大空襲
 
 昭和二十年七月二十六日午後十一時三十分頃、熟睡した菊子が聞いたのは、空襲警報と聞いたこともない爆撃機の飛行音と爆弾の爆発音だった。
菊子は、四郎を起こし、とりあえず身の回りの品と現金を背嚢(当時の布リュック)に詰め込み玄関を飛び出した。
 
 東の空から、編隊飛行の黒い影が(B29)が、ゆっくりと移動していた。空からは、線香花火のように、パチパチはじけながら無数に落ちてきた。焼夷弾(油脂焼夷弾・火災爆弾)である。
爆弾と焼夷弾が落下する中、空襲警報が狂ったように鳴り響く。四郎が寝ぼけ眼で空を見上げた。
 
 8歳の四郎が体験した青森の空襲とは違って、初めて見る光景であった。瞬間、強烈な爆発音と地響きがした。菊子は、慌てて四郎の手を引き、近くにあった防空壕に駆け込もうとした。防空壕の入り口に隣組の組長らしき老人が立っていた。
「あんた、見慣れない顔だが何処の組だ」
「主人が呉海軍工廠に配属されて、昨夜ここに引っ越して来たばかりです」
 
「そうか。引っ越して来たばかりか……気の毒だが、この防空壕は隣組の人数しか入れない広さしかない。残念ながら入れることはできん。ほかの場所に退避してくれ」
「ほかの場所っていいましても、引っ越して来たばかりで何処に避難したらいいかわかりません。お願いですから入れてください」
「いくら頼まれても駄目なものは駄目だ」
 
 菊子が哀願するそばを、「組長さんお願いします」と腰を低く頭を下げながら、二人の子供を連れた若い女と、老夫婦の五人が、防空壕の前にやって来た。
組長が「遅いじゃないか、早く早く!」
やって来た五人に、声をかけ防空壕の中へ招き入れる。
老夫婦の夫が「早く中へ入りなさい!」と言って四人を防空壕の中へと急がせる。
 連れの四人が防空壕の中に入ることを確認すると組長に「よろしくお願いします」と言って頭を下げる老人。
 
 組長が「あんたも気をつけて」そう言って、防空壕の扉を閉めようとした時、老夫婦の妻が手で扉を押さえて「組長さん、夫の一人ぐらい何とかなりませんか?」
「決まりは決まりだ!」
「俺は大丈夫だ。明日の朝迎えに来るから」
「あんた! 気をつけて」
 男は走り去る
 
 菊子と四郎は、この一連の様子を見ていた。
近くで、爆弾と焼夷弾が炸裂する。
「母ちゃん!」
四郎は大きな声で母菊子の顔を見上げながら叫んだ。
「四郎! 母ちゃんの手を離すんじゃないよ!」
「うん!」
 
 防空壕の前から、避難する場所のあてもなく、爆弾の音を背に逃げる菊子と四郎。
深夜の松山市街地が、破壊され焦土と化していく。
炎の中、菊子が四郎の手を握って走るそのシルエットが、炎の中にフェードアウトされてゆく。
 
 昭和二十年七月二十七日午前八時
 
 松山大空襲の翌日である。
市街地は焼け野原と化し、消火しきれない炎と煙が無数にくすぶっていた。その中を、顔面煤にまみれた菊子と四郎が、手を握りあって、よたよたと歩いて来る。四郎の左足に傷を負ったらしく、ふくらはぎの位置に布が巻かれている。
社宅が建っていた場所らしき前に、ようやくたどり着いた。
勿論社宅も全焼、周囲の建物も全焼し瓦礫の山だ。
 
 防空壕の入り口に、大勢の人々が輪になって立っている。
菊子が肩越しに覗き見る。
四郎が人々の足の隙間から最前列に進み出る。
菊子が四郎を追うように人をかき分けて前に出る。
数人の人々が、防空壕の中から死体を運び出し、その死体を筵の上に順番に並べている。
 
 「焼夷弾と爆弾で、防空壕の入り口が塞がれ逃げられなかったそうだ」
菊子は、小声で話す後ろの男の声を耳にした。
その筵の上に、昨夜防空壕に入ることを拒んだ組長の顔があった。その横に、昨夜見た二人の子供と母親、それに老婆が横たわっていた。その四人が寝かされた頭上に「俺は大丈夫だ。明日の朝迎えに来るから」と老婆に言った老夫が、放心状態で座り込んでいた。
 
突然その夫が吠えるように叫び始めた。
「馬鹿野郎! 馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」
叫びながら、両手のこぶしを振り上げ、地面に叩きつけながら狂ったように叫びはじめた。
こぶしから鮮血が流れた。
見かねた側にいた男が、羽交い締めをしてその行為を止めた。
 
 それを見ていた菊子は、四郎の目線まで腰をかがめ黙って強く抱きしめた。
菊子の涙は止まらなかった。
菊子の脳裏に「俺は大丈夫だ。明日の朝迎えに来るから」と言う声がエコーになって聞こえてきた。
 
 私が、もし……組長さんの好意で、防空壕へ入れてもらっていたら……私と四郎は骸となって筵の上に……夢遊病者のように防空壕を後にした。四郎が立ち止まり顔を見ながら「母ちゃん……」と言った。
その声にふと我に返った。
「そうだ。四郎がいる。何とかしなきゃあ!」
と、心の中で呟いた。
 
 菊子の松山での情報は呉造船の社宅の住所だけである。空襲で電話線も切断され、夫への連絡も取れず、菊子は孤立無援になっていた。
菊子は大通りに出た。通りの名前も、東西南北の方向も分からない。焼け出された人々が、通りをある一定の方向に向かって歩いていた。
菊子は、同じ子供連れで歩いている女性に聞いた。
 
「ちょっとお聞きしますが、みなさん何処に向かっているのでしょうか?」
「城山で炊き出しをやっているそうです」
「城山ってどこですか?」
「城山知らないの?」
「昨夜青森から来たばかりですから」
「それで空襲に……」
「えぇ……」
「そうですか……それは大変だったわねぇ……あれが城山よ」と言って遠くを指さした。
 女性の指さす先には、小高い山のような丘陵があり、その頂上には城が見えた。
「お城があるから城山」
 
 女性はぶっきらぼうにそう言って「行くわよ」と、子供をせかせながら足早に城山に向かった。 焼失した市街地の中に、一直線で城山に向かってのびている白い道、空襲直後である。自動車の走行は勿論ない。荷物を積んだ荷車もない。被災した老人、若い女の子供連れ、それらの人々が三々五々、重い足取りで城山に向かって歩いている。
 
「母ちゃん、のど渇いたね」
「そうね、のど渇いたね」
菊子は、オウム返しにそう答えた。
 
菊子は、四郎は親思いで頭のいい子だと思っていた。のどが渇いたからといって、水を欲しいとは言わない子供であった。昨夜から水を飲める状況ではないことは分かっていたに違いない。水をねだって母を困らせたくない。「のど渇いたね」と言う言葉は、「水を飲みたい」と言って、ない物ねだりをしている言葉ではない。四郎は、そういう天性のような資質を持っているような気がした。疲労と、空襲と、空腹と、そのうえのどの渇きの中で、ふと、菊子はそう思った。
 
 そう言えば、菊子と四郎は、空襲で家を飛び出して以来、水も含めて何も口にしていない。必死で空襲を逃れ、気がつけば小さな小川の橋の下にいた。
突然四郎が大きな声で「母ちゃん! 見て!」と言って指さした。
その先には、瓦礫がくすぶり、黒煙を上げている側に、井戸が見えた。菊子と四郎は急いで井戸の側にかけより瓦礫を払いのけ「四郎井戸水を汲んで」と菊子が言う。
 
四郎が井戸の取っ手を上下に動かす。
勢いよく水が噴き出す。菊子が試飲する。
「大丈夫! 四郎飲みなさい」
四郎と菊子が入れ替わって水を飲み、顔を洗い、ほっと一息つく。
 
 水にありつき、咽の渇きは癒やせたが、空腹は満たされない。
人々は、疲れた足取りで、よたよたと、炊き出しがされているという噂の城山に向かっている。菊子もその中にふたたび戻って、城山に向かった。
井戸水で顔を洗ってすっきりしたものの、城山に向かうその途中、菊子は昨夜と、今朝目にした防空壕前の光景が、脳裏から離れなかった。昨夜、もし、あの防空壕に入ることを許されていたならば、四郎と二人で筵の上に並んでいた。
 
 遠くから見えていた松山城が、山の陰で見えなくなった。さらに進むと、「炊き出し」と書かれ左矢印の看板があり、それに沿って進むと、「松山市役所」と書かれた広場に出た。
 市役所は焼失したらしいが、その広場には、三列の長い行列ができていた。その先のテントの中では、臨時の炊き出しがおこなわれていた。そこには、国民服(太平洋戦争中、日本国民が常用すべきものとして制定された軍服に似た男子の服装)を着用した初老の男たちと、防空頭巾を首から提げ、もんぺ、その上に白い真新しい割烹着た数人の女たちが、忙しく炊き出し作業に従事していた。
 
 菊子と四郎は、行列の最後尾に並び、おにぎり一個と蒸かした薩摩芋を一個受け取った。炊き出しがおこなわれている広場の隅に、石垣が城の形に積まれ、その上に木製の時計台が焼け残っていた。菊子と四郎は、その石垣にもたれかかるように座り、おにぎりと薩摩芋を食べた。
 
 頭上の時計が正午を告げた。菊子が時計を見上げ「四郎、行くわよ」と言って立ち上がり、四郎の右手を誘った。四郎は、菊子の差し出した手を握った。
菊子は、昨夜空襲から逃れるときも、城山に向かうときも、何時も四郎の手を握っていた。
 
 青森では手をつないで二人で歩くことはめったになかったことである。赤紙免除の恩恵を受けている妻が、子供と二人手をつないで、幸せそうに歩く姿を、隣組の人たちに見られたくないという、夫三郎の意志でもあった。菊子としても、親しくしている早苗の夫が赤紙でビルマ(ミャンマー)へ、自分の夫は赤紙免除で、家族三人で幸せに……という負い目もあった。しかし友人早苗は「造船技師の赤紙免状はお国の方針だから、菊子さんが負い目を感じることはないは」そう言って理解してくれた。菊子は早苗のその言葉を信じて、家族同様の付き合いをしてきた。
 
  しかし、赤紙で招集された会社の同僚たちも、隣組の人々も違っていた。隣組の組長は、国家権力の末端で、国民の監視役も兼ねていたことは公然の事実であった。「造船技師だから赤紙免除、事務職だから召集令状は不公平で不満と言う意見もあった。そのことが組長に知れると「非国民」というレッテルが貼られ、口には出せなかった。
 
 そのような意志を持つ人々が恐れていたのは、組長経由での警察であり、憲兵(軍隊へ所属する警察)だった。したがって赤紙で招集を受けた家族の抗議は、赤紙免除を受けた人々への「沈黙と無視」だった。菊子は、そのこともあり、夫の転勤に際し、松山に行くことを選択した。
 
 今夜の宿泊の心配もさることながら、今後の生活も心配で、心細く、「こんなことなら青森に残ればよかった」と思った。
しかし時間は戻せない。何とか自力で生きるしかなかった。
菊子は、松山市被災救護所に相談した。
 
 青森から昨夜引っ越してきたばかり、知り合いもなく、隣組にもまだ入っていない。広島の呉造船にいる夫に連絡を取りたいと話した。菊子への市職員の回答は次のものだった。電話局が焼失して市内の一部地域しか通話できない。したがって他県への通話は当面不可能。次の①~③を選べと言われた。
 
 ①被災救護天幕村(天幕=テント・太平洋戦争中、敵国の言葉として排斥・追放・主に英語の単語)に入村する。
 ②松山市が指定する疎開地に居住する。
 ③あるいは自力で仮小屋を建てる。
 
 選択肢は三つ、菊子は②を選択した。
愛媛県東温市北郷村に疎開、桜井初音(50歳)の農家の納屋を改造して住み始め、四郎の北郷国民小学校二年生の授業が始まった。
 学校では、雨降り以外は八時に全校生徒の朝礼が校庭で始まる。整列は横に一年生から六年生、縦に身長の低い順から高い順に並ぶ。その理由は、身長が低い生徒の前に身長の高い生徒が前に並ぶと、正面中央にある奉安殿が身長の低い生徒からは見えないからである。
 
 奉安殿とは、天皇と皇后の写真と教育勅語(国民教育の基本理念を示した勅語)が収められている祠(ほこら)(神を奉る小さな社)がある。その教育勅語は全校生徒で唱和させられる。当時の教育では義務化され、小学一年でも、暗唱できない生徒は、暗唱できるまであらゆる手段を用いて覚えさせられる。
 
 体育の時間では、校庭にアメリカ兵の人形が立てられ、その人形の正面には、「鬼畜米兵」の文字が書かれてある。四郎の身長は1.2m。身長の約二倍もある長さの竹槍を小脇に抱え、走りながら人形に突進、「エイ・エイ・ヤアー」と叫びながら、「鬼畜米兵」と書かれた人形に竹槍を突き刺す。そして先生は言う。
 
 「今回は、松山に敵の空襲を受けたが、日本は必ず勝つ。日本人には大和魂がある。畏れおおくも陛下は教育勅語でこう仰せられています。「我が臣民は忠と孝の道をもって、万民が心をひとつにし、敵と戦えば必ず勝利する」
四郎は先生のその言葉を無条件で信じていた。
また当時の子供たちはそう信じるように教育をされていた。
 
 昭和二十年八月六日(月)午後一時頃、四郎はじめ十名程度の子供たちが農道を下校していた。その最後尾に、友達の政志と四郎が下校していた。突然空襲警報が鳴り響き、艦載機(航空母艦に同載された戦闘機)の爆音が響き、急降下してしながら、下校していた子供たちに機銃を浴びせはじめた。
 
 駆け足で逃げ惑う子供たち、四郎の足元に砂塵が激しく走った。
四郎の前の政志が倒れた。
四郎も左足に激痛が走り倒れたが軽傷であった。
逃げていた子供たち複数人が、政志と四郎が倒れているのを見て逃げ出した。
艦載機が上空で折り返し、再び機銃を浴びせはじめた。
 
 四郎は眼前に倒れていた政志を、必死で転がして一回転させる。
その横を再び銃弾が走った。
艦載機は、何事もなかったように夏の青空に消えていった。
助けたと思った友だちの政志は、最初の機銃射撃で即死していた。
動かぬ政志と、その横に呆然として座り込む四郎を、真夏の暑い太陽が容赦なく照らしていた。
 
 「まぁちゃん! まぁちゃん!」と言って肩を揺する四郎の顔。
動かぬ政志の顔に、四郎の額の汗が落ちる。政志は死んだ。
四郎は空を見上げる。蝉の鳴き声が聞こえる。
焼けつくような真夏の太陽を仰ぎ見る四郎……
四郎の目に、ギラギラと燃える太陽の光が飛び込んでくる。
 
 政志の通夜がおこなわれた。当然菊子と四郎も参列した。
ところが参列した菊子と四郎を、周囲の村人たちの奇異な視線を感じていた。
大家の桜井初音が、菊子の耳元でささやいた。
「亡くなった政志ちゃんを、四郎ちゃんがほったらかして真っ先に逃げたって噂よ」
 
 菊子は思わず四郎の顔を見た。
菊子と四郎は目線を合わすが、菊子は何も言わなかった。
葬儀が終わった後、学校での四郎の評価は一変した。
下駄箱に「卑怯者・非国民」と書かれた紙が置かれ、靴は運動場に放り投げられ、教室では無視された。四郎は、何故親しくしていた政志が亡くなったことで、何故このような仕打ちにあわなければならないのか? その理由が分からなかった。
政志と親しかった友だちがこっそりと教えてくれた。
 
 「政志と友だちなのに、政志をほったらかして逃げた」
四郎は、何故そういうことになっているのか、最後まで残っていたのは自分ではないか!
怒りがこみ上げた。しかし言い訳はしなかった。
無言で唇を噛みしめた。
疎開っ子と虐められた四郎に、唯一友だちとして接してくれて政志は亡くなった。
その一連の事情は、四郎は母には言わなかった。
母に心配をかけたくなかったからである。
 
 菊子は、呉海軍工廠にいる夫の三郎に手紙を書いた。
松山で空襲に遭ったこと、四郎も左足を火傷して、火傷の跡は残ったが歩行に支障がなかったこと、愛媛県東温市北郷村に移住、四郎は北郷の国民小学校に通っていること、食料は配給と少額の蓄えでしのいでいると記した。
 
 しかし菊子は、防空壕の話は記さなかった。手紙の検閲を恐れたからである。夫の配属先、呉海軍工廠も空襲を受けていないかどうかを心配した。
手紙の返事はこなかった。
戦況は、手紙どころではない緊迫した状況であることは、菊子にも分かっていた。
人々はそのことは互いに分かってはいたが、口に出せば「非国民」という烙印を押されることを恐れていた。
 
 しかし松山大空襲が七月、昭和二十年八月六日、四郎たちが艦載機で銃撃を受けた日に、広島で新型爆弾が投下されたという噂が北郷村に聞こえてきた。
 
 松山大空襲:昭和二十年七月二十六日午後二十三時三十分
  死者二百五十一名(当時の人口十一万人)
 広島に原爆投下:昭和二十年八月六日午前八時十五分
  死者十六万六千人(当時の広島市の人口は三十五万人。
 長崎に原爆投下:昭和二十年八月九日午前十一時二分
  死者七万四千人。(当時の長崎市の人口は二十四万人)
 原子爆弾は、一般庶民には「ピカドン」と呼ばれていた。
 一瞬ピカッと光ってドンと爆発するからだ。
 
 05 敗戦 昭和二十年八月十五日正午。
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