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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2005年度 10月 「老化に挑む-あなたの脳はよみがえる。」

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講師 - 加藤俊徳氏 氏

福祉社会研究所主任研究員、東京大学医学部大学院客員研究員、 
医学博士、脳機能生理学、脳画像、光脳計測の専門家、小児科専門医。
NHKなど数多くテレビ番組に出演
2005年5/21   BS日テレ, Newton Kids TV 「脳・ヒト」、
2004年9/18   18NHKスペシャル 老化に挑む 一部あなたの脳はよみがえる.
(第46回科学技術映像祭 文部科学大臣賞受賞作
アメリカ国際フィルム・ビデオ祭 医療健康部門、
シルバースクリーン賞)
2004年6/20   あるある大辞典II.~酸素~, フジテレビ収録出演,
2003年12/13  TBSテレビ出演.ブロードキャスター: 脳の髄まで見えちゃうMRIって
一体なに?
2003.年1/7    NHK教育テレビ出演 ETVスペシャル あなたと話したい
~障害者と向き合う医療・教育最前線~ 

講義内容

1980年代から脳機能画像の研究が盛んになり、1991年からの加藤氏の発明により、ベッドサイドで非侵襲に、頭皮から、緻密な脳内地図と脳毛細血管中の酸素交換機能の働きが判るようになってきた。今回は、その技術の紹介及び応用によって判明した脳の働きに関する数々の新事実の解明を実例を挙げて説明いただくと共に、老化の予防法をご講義頂いた。以下は講義の概要。


21世紀は脳科学の技術革新がもたらす積極的な人生観、即ち、科学と心が結びついた新しい価値観が繁栄していき、自分で自分の脳を教育する時代と考える事が今回の講義の本質的メッセージ。
人は一生涯、自分の脳を育てる事が出来る時代に突入した。
時とともに人の顔が変わる様に脳の形も変わる。そして、我々は今、自分の脳の形を見る事が出来る時代にいる。
人が自分の顔を若く保とうと努力するのと同じように、常に脳の手入れをし、育てる事が大切。
今までは、知りたかった脳の鍛錬法や脳の働かせ方を調べる事は学問として無かったため、客観的で役に立つ計測方法が生まれなかった。
人の脳の形は千差万別で一人として同じ物はないが、今までの技術では脳の形は種類別としてしか捉える事ができなかった。
加藤氏が開発したCOE(脳の酸素交換機能)技術で脳の働きを一般家庭でも簡単に見ることが出来る時代がやってくる。
脳の形から個人の機能特性が分るが、MRIは脳の形から脳の機能を読み取る技術。一方、COE測定法は酸素を運ぶ赤血球の働き方で脳の活動を捉える技術。
脳は使えば育つ。使わなければ衰える。
十数年間の観察の結果、脳の形はMRIで観測できる程、即ち1ミリや2ミリは変わる事が分った。
脳細胞は酸素が必要。筋肉と脳の毛細血管は類似していて、酸素の使い方も似ている。そのため、潤滑に酸素を供給する健康な血管を維持する事が大切。脳は筋肉と同様で常に鍛えていないと衰え、鍛えていれば成長する。
40歳から50歳を境に脳細胞は減っていき、脳は萎縮方向に向かうが、脳は成長する力も持っている事が分った。脳の成長する力を下げない努力を行う事が重要で40歳、50歳代が勝負。どのようにして脳の成長を下げないで自分の能力を更に高める事ができるかを考える事が更に大切。
脳の前頭葉は人の意思の育成を統率する部分であるが、今までの通説であった、脳の成長は三歳ごろまでに完成するとの説を覆す証拠のスライドを展示し、15歳を過ぎても成長し続ける事を示した。即ち、意思に関わる脳である前頭葉の意思の向け方を上手くコントロールすれば,脳は育つと説明。
加藤氏は米国ではMayo Clinicの教授とアルツハイマー病の研究をしてきたが、小児科医としての経験と知識を生かし、胎児から老人まで、人の脳を100年のスパンで診ることができた。これは、分野別に研究する他の多くの脳医学者には出来ない視野での脳の研究が出来た事に?がる。そして、脳の一生涯を100年のスパンで考える事が重要と説く。
脳には年齢が異なる部位が存在している。また、個々の職業や得意分野別に異なった部位の脳が育っていると予測される。
猿と人間では脳のハードウエアーが異なる。故に今までのように人間と他の動物の脳の比較での脳科学の研究は不十分。
加藤氏は多くの知識を重症の脳障害者から得た。障害者の壊れた脳は生き抜くため、残っている脳を精一杯働かす事、そして、それが脳の形に表れてきている事を学んだ。これらは脳障害者からのメッセージであり、これが21世紀の人類を変える事になる。この知識は具体的な生活を送っている人達に広まる事が重要で、これがNHKと番組協力製作した理由でもある。
100歳の人、10歳の障害者、40歳の人とそれぞれの人の前頭葉のブロードマン10番周囲(額の仏像の部分)をスライド提示し、個々の脳でブロードマンの部分が一番良く発達している事の発見を提示した。即ち、前頭葉のブロードマンの前側の部分は老齢になっても発達を続ける不思議な脳である。歳を重ねるにつれ、記憶力が衰えるのは仕方が無いが、人は新しく脳の細胞を作り変え続けながら、100歳、あるいはそれ以上の人生を生きる事が出来る事をこの脳科学が裏付けている。
側頭葉(聴覚、言語、記憶などに関係)は生物学的にみて時間の経過と共に萎縮するが、使えば育つ前頭葉と?がっている。
筋肉の如く脳を使うと大きくなる脳がある事の実例の紹介として、誕生時の出血のため、脳の連絡繊維が切れたが、反対側の脳がそれを補うため約3倍の大きさに育っている人の脳を提示。これは主に脳の連絡繊維が太くなり、言わばブロードバンド化しているため。これは老化防止対策として、脳の連絡線維を太くする事が可能である事の証拠。
皮質(神経)の厚さは40歳、50歳代から萎縮し始めるが線維は40歳を過ぎても50歳頃までは成長する。しかし、この頃から個人差が出始める。つまり、努力すれば線維は発達し神経細胞も共に活動する。だが、今までの技術では神経活動の個人差の観測が出来なかった。加藤氏はCOEでその活動の観測を頭皮上から可能にした。
人の脳はその目的によって運動野、視覚野、等とその働きが分化されている。個々の目的を実行している脳の部分の形の変化はMRIで知る事が出来るが、人類は今まで脳の形が変わる事の事実を過小評価してきた。
COEでは脳が物事を理解した瞬間の変化を観測する事を可能にした。脳の毛細血管に酸素を運ぶ赤血球が放す酸素の量を脳の表面から観測する事で脳の活動を知る事が出来る。応用例として、COEを使えば言葉を発せない障害者が、聞いた言葉の意味を理解したか否かを知る事も出来る。スライドや動画を使い人の脳が活動している時の酸素交換の状況を示した。 
脳の血流が増える事と脳を使う事は違う。例えば、人が興奮状態(頭がカッカしている時)は血流が増えるだけで、酸素交換されていないため、脳は使っていない。
今までの脳活動の測定技術は血流の測定(実は大きな間違いと指摘)であった。イギリスのノーベル賞学者シェリントン博士は1890年に脳の血流は心臓が送り出す血流とは独立していると発表したが、これは脳血圧を計る事のみで得た結果であり、脳内の酸素移動を見ていなかった故の間違った結論だった。これは計測方法の限界であったが、今までの科学者はこのような観点の脳血流計測でしか脳活動が捉えられなかった。COEは酸素交換の測定で細胞の変化を計るため、今までとは違う概念で医薬品などの開発ができ、老化防止対策の戦略にも?がる。
毛細血管だけが酸素交換を行っている。動脈や静脈では酸素交換は行われてなく血液を運んでいるだけ。従って、毛細血管だけの信号を取り出す技術(COE)を発見した。
COEの技術を応用すれば、脳障害者などが何を明確に理解し、何が不明確であるかを知る事ができ、治療法として酸素交換が行われていない不明確な部分の教育を強化する事ができる。これは自分自身にも、老人介護などにも使えるので新しい脳科学のビジネスとなり得る。
現在、個人が家庭で体重計を使うような感覚で使える安価な脳酸素交換機(COE)の開発を進めている。即ち、各家庭で自分の脳活動を観測できる時代になる。
植物状態と言う事実は存在しない。そのように他人から見えるだけである。脳は脳死か学習状態でしかない。例として、植物状態と思われた人の脳を酸素交換技術で観測すると、人から話しかけられた時には前頭葉で酸素交換が行われ、脳が学習している事が分った実例を紹介。
COE技術は頭皮の上から量子レベル大きさの酸素の動きを見る技術。MRIは脳の形の変化の状態がじっくりと分るが、COEでは即座に脳の働きの変化が酸素交換で分る。これは脳の働きの提要化、即ち人の精神の働きの提要化が出来た事になる。
加藤氏が方程式化した酸素交換方程式には虚数がでる。即ち、生命体が虚数次元で動いている事になる。実際に行われている酸素交換は二重支配されていて、実の世界と虚の世界を仮定しないと上手く酸素交換が取り出せない事実が判明。この虚次元の事実によって加藤氏の提要記述が可能となっているので、今までの生命科学とは異なるもうひとつの軸を想定する必要がある。

以上。
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2005年度 9月 10周年記念パーティー

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2005年度 8月 「心理療法からみた個人のパーソナリティーと文化現象 」

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2005年度 8月 「心理療法... 2005年度 8月 「心理療法...
講師 - 平山 栄治氏

九州大学大学院博士課程修了。教育学博士。心理教育相談、スクールカウンセリング、学生相談、精神科臨床、開業臨床を経て、現在、青山学院大学文学部心理学科助教授(2000~2004大学院文学研究科附置心理相談室長)。1999年日本心理臨床学会奨励賞。2004年9月よりUCLA心理学部Visiting Scholar、およびThe Psychoanalytic Center of California(精神分析研究所)Visiting Fellow。主な著書は、『臨床心理面接技法3』(誠信書房)、『ロジャース再考-カウンセリングの原点を探る』(培風館)、『ロジャース学派の現在』(現代のエスプリ、至文堂)、『エンカウンターグループと個人の心理的成長過程』(風間書房)など。

講義内容

心理療法のココロは、対話する心にある。心理療法に関する講演自体も、相互に交流できる経験的な対話に近い場でありたい。関与は、そのとき限りの生きた人間と人間の対話にあり、語り合いにあり、その時間と空間にのみ存在する。ここではいくつかのトピックを選んでまとめる。
 昨年8月のこの日に渡米し、UCLA心理学部と精神分析研究所で研究に携わり、ちょうど1年になる。心理学部の所属研究室にも精神分析研究所にも日本人や日系人は一人もいなかった。
 先日、ある国際学会に参加した折、日本から来た精神分析家たちと夕食をともにした。1年ぶりに接する日本文化に驚愕した。
 米国では、メンタル・ヘルスの重要性について高く認識されている。臨床心理学者や精神分析家の数も、人口比から見ても、日本に比して桁違いに多いし、クライエントの数も多い。(しかし、保険で最初の数十回はカバーされるにしても、料金は決して安くはない。)心理療法を個人的成長への投資と考え、その意義を認識しているのである。
 米国は、世界中から移民を受け入れており、公衆衛生局長官報告書でも、(文化・人種・民族的)多様性は米国の活力原であり、マイノリティーの精神衛生確保が重要だと論じられている。
 米国ではスクール・サイコロジストの歴史は長いが、日本では特に不登校といじめ問題に対処するため、スクール・カウンセラー制度が1995年から文部省(文科省)によって導入され、効果をあげている。しかし、不登校やいじめの増加は、個人の心理的問題として理解し扱うことが可能であるというだけでなく、また、子供の問題というだけでなく、日本社会が抱えている問題を反映している。多様性への不寛容は、日本社会がもつ島国という地理的状況や歴史の延長線上のテーマである。同時に、世界が密接に交流するなかで、「摩擦」という現象を通して、文化交流は不可避である。
 日米文化は、多くの点で対照的であるが、たとえば集団主義と個人主義の葛藤は、当然現代日本文化の問題として、個人の適応・不適応、症状形成と自己実現の形式に大きなインパクトを与えている。
 もちろん人間は生涯にわたって成長可能であるが、三つ子の魂百までもというように、個人のパーソナリティーの根本的部分は幼少期に母子関係・親子関係を通して形成される。そこに深々と文化が伝達されていく。
 昨年、精神分析研究所で乳幼児観察をおこなったが、研究所が事前に準備をしてくれたおかげで、私は幸運にも、日本からの移民家庭を毎週訪問し、乳児をまさに誕生直後から1年間観察することができた。毎週開催される乳幼児観察セミナーでの発表と討論を通して、日米の育児の相違に驚き、かつ、その文化移行に接する中で、育児と母子関係の様式は、日米の文化と人間関係に直結しているだけでなく、症状形成にまで直線的につながっていると実感した。
 文化は、その歴史と伝統を背景にしつつも、必ずしも不変ではなく、葛藤してもいる。変化に抵抗しつつ、変化を求めてもいる。個々の文化は、その文化に特有の症状と心理的葛藤を生むと考えられる。文化は、その社会の適応行動であると同時に、それと遺伝子レベルでの人間性とのきしみでもあり、双方の力動の妥協形成としての症状でもあると考えられるのではないか。ならば、文化を相対化する精神分析や心理療法的視点が必要だろう。(文化精神分析、あるいは文化心理療法は、文化処方というパースペクティブを生み出す可能性があると言うことも可能だろう。)
 個々人の心理的問題や症状は、巨視的に見れば、文化に内在する葛藤のもがきの表現とも考えられる。文化移行は、ある意味では、その過程を個人の内面で高速で実演するものであるとも考えられるだろう。日本文化を相対化する視点は、今後、日本社会が多様性に開かれ、成熟し、発展していく上で、非常に重要な示唆をもたらすに違いない。
(文責、平山)
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2005年度 7月 「 あなたのお金が3倍の価値になる。知られざるセカンドライフ天国、マレーシア 」

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2005年度 7月 「 あなた... 2005年度 7月 「 あなた...
講師 - 川口 輝明 氏

1976年、東京外国語大学アラビア語科卒。76年から82年末までイラクのバグダッド、83年はじめから90年末までサウジアラビア、91年はじめから99年10月までマレーシアのクアラルンプール、そして99年11月から現在まで、Sumitomo Electric U.S.A Inc.のVice President & COOとしてサウスベイで勤務、海外生活は通算で約30年に及ぶ。若いときから「終の棲家」候補地を奥様と訪ね歩いてきた。その数、マレーシアのほか、コスタリカ、フィンランド、ポルトガル、ドイツ、イタリア、ギリシャ、オーストラリア、タイ、カナダ、フロリダなどなど多数。

講義内容

1-なぜマレーシア、特にクアラルンプールが、セカンドライフに適しているか?
「マレーシア・マイ・セカンド・ホームプログラム」という外国人引退者のためのプログラムがあること。このプログラムはオーストラリアのプログラムと違って、普通の人でも簡単に手が届くこと。

クアラルンプール(KL)は洗練された都会で、清潔で快適な生活環境。気候が温暖。交通機関が整備されて移動が楽。マレーシア人の性格が穏やかで友好的。日本人の地位が高い。英語が通じる。日本との距離は飛行機で約6時間。時差は1時間でそれほど遠くない。

2-マレーシアの生活環境
気温はホノルルの7-9月とほぼ同じ。年中雨が降るが、朝晩は過ごしやすい。地震、台風などの天変地異はない。物価と生活費はアメリカの3分の1。生活費は夫婦2人で月1500米ドルあれば、実質的4500米ドル相当の生活ができる。つまり、年金で豊かな生活ができる物価水準。住宅(KL地区のコンドミニアム)は、中級中古物件が45-90千米ドル、高級物件は90-200千米ドルで購入できる。過剰供給状態なので、特殊な例外を除いて、投資には向かない。また、1年単位の賃借コンドや短期滞在用サービスフラットもある。中級コンドの家賃(家具付)は月600から1000ドルくらい。
食事は、中華料理、マレー料理、インド料理が中心。日本料理店もKL地区で50軒以上ある。そのほか、韓国料理、イタリア料理、ファーストフードなども多数ある。屋台での食事は1.2米ドル・品くらい。贅沢しても6-10米ドル(アルコール別)という水準。
日系金融機関では東京三菱銀行が営業権あり。そのほか欧米系(CITI、HSBなど)銀行もある。またMay Bankなど地元銀行もしっかりしている。外国人は、マレーシアリンギ(RM)でも外貨でも口座持てる。RMの定期預金金利は約4%・年。


3-マレーシアの生活の質
メイドがいる生活が可能(週3回の通いで約100米ドル・月)。75万円で高級ゴルフ会員権が買える。Monthly Feeは30米ドルくらい。様々な、芸術文化活動を安い金額で楽しめる。習い事は一回3米ドル(グループレッスン)。車社会でありながら、公共交通機関も整備されている。買い物天国。日系デパート・スーパー(伊勢丹、JUSCOなど)も充実。マレーシア国内、近隣諸国にリゾート多数あり。タイ、ベトナム、インドネシア、シンガポールは飛行機で2時間以内の距離。インターネット、携帯電話、衛星放送(NHK)も整備されている。
  
4-マレーシアの社会と人間
治安は東南アジアの中できわめて安全。不安要素は不法外国人労働者(特にインドネシア人)。テロの心配はほとんどない。麻薬は死刑。政治的にも安定している。過去の政権交代はすべて平和裏に行われた。 マレーシア人(特にマレー人)は温和な性格。争い事を好まない。KL在住の日本人は約1万人。永住組は少ない。コミュニティーはこじんまりしており、まとまりがよい。
  
5-マレーシアの医療と保険  
医療制度はイギリス式で、レベルは東南アジアではシンガポールに次いで高い。日本語対応可能な病院・クリニックはKL地区に5ヶ所ある。医療費は、高級私立病院での診察費が初診・保険なしで60米ドル、市中のクリニックでの診療費が保険なし、薬込みで18米ドル程度。医療・傷害保険は欧米系(AIAなど)、日系保険会社、マレーシア独自の保険(Takaful)がある。そのほか、海外旅行者傷害保険の利用者も多い。
  
6- 「マレーシア・マイ・セカンドホーム・プログラム(MMSHP)」
マレーシア政府が推し進める、主として50歳以上の外国人を対象にした、引退者用のプログラム。夫婦の場合、マレーシア国内銀行に15万RM以上の5年定期預金をするか、または 日本での収入が1ヶ月 1万RM以上あることを証明すると、5年間の滞在ビザがもらえる(更新可能)。MMSHP資格者が受けられる恩典は、
 -1戸 15万RM以上の住宅を2軒まで購入可能。
 - 車1台無関税輸入ができる
 -年金は無税、それ以外の不労所得(金利、配当、家賃収入など)も所得税免除。 ?
 -メイド(使用人)を1名入国させるビザを発給する。

7-マレーシアを絡ませた様々なセカンドライフの考え方
「ベース(米国あるいは日本)+セカンドホーム(マレーシア)」、「べース(マレーシア)+セカンドホーム(日本あるいは米国)」、「移住型(マレーシア)」などのバリエーションが考えられるが、まずは視察と体験が重要。SBMSでは、来年マレーシア視察旅行(1週間~10日間)を企画したい。



マレーシアでのセカンドライフとセカンド・ホームプログラムの情報をもっと知りたいという方は、マレーシアKL日本人会のホームページと、実際にKLでセカンドライフを満喫されている阪本さんというかたの情報満載のホームページをご覧ください。
以上
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2005年度 6月「揺れる皇室と憲法改正のからみ」

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2005年度 6月「揺れる皇室...
講師 - 橋本明氏

1933年生まれ。’52年学習院大学政経学部政治学科卒業。
同年(社)共同通信社に入社。
社会部記者、ジュネーブ支局長、ロサンゼルス支局長、国際局次長、㈱共同通信社役員待遇を経て退職後、プリウ゛ェ・グループ社主となるとともに他に十数社の顧問などを引き受けている。また学習院初等科入学当時より天皇陛下のご学友として交遊を深め、現在も親しいご関係にある。著書「パパ、スリッパどうぞ」「二人のユーゴ」「チトー」「オリンピック革命」「平成の天皇」「昭和抱擁」などがある。その他文藝春秋社など多くの雑誌に女帝論など天皇家にまつわる論文を執筆している。講師は元首相橋本龍太郎の従兄。

講義内容

(講師のご意向により録音も禁じられたため、講義録も詳細には触れないことにします)

概要
橋本氏は、天皇陛下ご自身が語られた天皇の理想像「国民の心の中に潜在化し、国民が必要なときに顕在化できればよい」というお言葉を紹介し、皇室のあり方と現状との乖離について語り、また一般の報道では知りえない情報に基づき深い考察を加えつつ、日本にはなぜ天皇制が必要かを説いた。

女帝論
橋本氏は1993年にはすでに「妃となり男子を産まなければならないという重圧と、その期待を一人の女性にかけるのは大変なことであり、国体としても危うい」との考えから、女帝を認めるべきとの論評を発表している。
平民から嫁がれた美智子様は皇族の古いしきたりで苦しまれた一方で、男子、男子、女子と理想的な子宝に恵まれたことが「ちから」となり皇室での存在感を増すことができた。 雅子様の重圧は計り知れない。
国会でも現在論じられているが、男女に関わらず第一子が天皇継承権を持つとか、何らかの形で認められるだろう。

帝王学
皇太子は天皇からじかに帝王学を学ぶべきであり、現状ではそれが不足している。もっと東宮職が皇太子と天皇とのコミュニケーションを密にするサポート機能を果たすべきである。

皇太子の発言
「雅子の人格を否定するような・・・」という皇太子の一連の発言は前述のように天皇との意思の疎通が欠けている現われであり、皇太子・皇太子妃ともども内にこもってしまっているのではないかと危惧している。信頼して心を開ける人のサポートが必要。

秋篠宮の発言
秋篠宮は上記皇太子発言の前である03年の誕生日コメントで「陛下を支えるのにはコミュニケーションが大切・・・」と述べていたが国民は注目せず。これが意思疎通断絶の一つのサインではあった。

秋篠宮ご夫妻にすぐに子供ができて陛下ご夫妻との団欒があった。なかなか子ができなかった皇太子ご夫妻への気遣いが反って陛下ご夫妻との距離を遠ざけることになったのではないか。

皇室外交
皇族個人の資質でやるものではなく、日本のコンセンサスとしてなすべきものである。

天皇制度
戦後、日本の国体護持のために日本人の象徴として天皇制を残した。天皇制度があるから日本はバランスが取れていると信じている。そこが他国と違うところ。

皇族の戸籍
皇族の戸籍は一般国民の戸籍とは別に、皇統譜という皇族の戸籍に登録されている。皇室に関する事柄は、皇室典範として明治時代までは憲法と同列にあったが、現在は憲法の下位法として存在する。

この他にも種々述べられましたが、冒頭の理由で割愛します。

(作成者: 出井) 
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2005年度 5月 「ロサンゼルス市港湾局見学会」

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2005年度 5月 「ロサンゼ...
講師 - 森本政司氏

日本通運(総合物流)、アトラス(伊藤忠の運輸部)、ハパックロイド(西ドイツの船社)、鈴与アメリカ(乙仲)を経て、1984年に港湾局に入り、現在にいたる。

講義内容

【今月のセミナーは、ロサンゼルス港湾局を訪問させていただき、講師の森本氏から現地でお話を伺いました。その後ボートに乗船させていただき、実際にロサンゼルス港の見学もさせていただきました。】

ロサンゼルス港湾局は1907年に設立され、公的資金に頼らずに独立採算制で運営している。また開発に必要な資金はすべて公債の発行で調達しており、赤字になっていない。このような米国型の港湾経営には、日本が参考にするべき点が多いだろう。

ロサンゼルス港湾局では、「12%の投資リターンが見込めない開発プロジェクトは実施しない」など、経営判断の基準が明確になっている。一方で日本の港湾局では、採算や経営基準が不明確のまま開発が行われてしまうので、赤字経営に陥りやすい。

港湾局でCEO、CFOなどのイグゼキュティブ・レベルを採用する際には、広く世界から最適な人材を探すという人事努力がなされる。数年にわたる契約ベースの雇用となり、日本のように天下りや持ち回りによって、イグゼキュティブのポジションが埋められることはない。

本日使用しているこの会議室では、当港湾局のボード・ミーティングも行われるので、テーブルと座席もそのように設置されている。一番前の席が、LA市長に選出されたコミッショナー(5名)が座る席である。そしてコミッショナー席に向かい合う形で配置された席は、港湾局のCEO、CFO、そしてロサンゼルス市当局の弁護士など、イグゼキュティブ・レベルのメンバー6名ほどが座る席である。残りの席は、港湾局職員やミーティングの議題に関与する関係者などが座る席である。

ボード・ミーティングは、公正な形式に則って開催され、市民に対して意見を述べる権利が与えられている。ただし会議の効率を図るため、一人の意見陳述の時間は3分以内に制限されている。会議の進行状態は、すべて公式な録音記録に収められる。またコミッショナーは議決権を持つ重要な立場にあるため、仕事場以外の場所でコミッショナー同士が会うことは禁止されている。

ロサンゼルス港のもともとの土地はカリフォルニア州のTideland で、港湾局はこのTideland を州法の下に開発し、船舶会社や業者に賃貸して、賃貸料や施設使用料などとして徴収し収入源としている。賃貸契約の内容は、契約先や使用目的によって様々であり、可能な限り臨機応変に対応している。

現在 IT 導入が一番進んでいるコンテナー ターミナルは、商船三井の運営するTRAPAC社のターミナルである。何年か前に失業を恐れた港湾の労働者が、IT導入に反対していたが、船荷取扱量はずっと増加傾向にあり、労働者過剰の心配は出ていない。また昨年秋頃にロサンゼルス港で船荷が滞ったことがあったが、もともとの原因は米国内の鉄道会社のボトルネック現象にあり、港が根源だったわけではない。


<データで見るロサンゼルス港湾局>      (配布された同港湾局の資料より)
港湾面積
地上4,200エーカー、海上3,300エーカー
主要ターミナル数
27ターミナル
入港船舶数 (2004年度)
2,813隻
年間船荷取扱量(2004年)
米国で1位、世界で8位(7.3Mil. TEUs)
輸入品目トップ3 (2004年)
家具、衣類、電化製品
輸出品目トップ3 (2004年)
古紙、綿を含む生地、人工樹脂
貿易国トップ3 (2004年)
中国、日本、台湾
港湾局のウェブサイト・アドレス
www.portoflosanegles.org


(作成者: セミナー副委員長 矢部) 
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2005年度 4月 「 高峰譲吉が日米に掛けた夢の橋を追う 」

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2005年度 4月 「 高峰譲...
講師 - 飯沼信子氏

静岡県沼津出身。日本ベンクラブ会員。日本エッセイクラブ会員。国際(英国)女性伝記作家協会会員。裏千家支部元幹事長。現在、講演歴として内外のロータリー、ライオンズクラブを始め、NHK,民放などのメディアにも米国在住を強みとするユニークな伝記作家として登壇することが多くなっている。

また、作家としての本領は1987以来続く羅府新報「木曜随想」欄の常連として筆力を顕し、既に著書「野口英雄とその妻」を始め、上梓した他の六冊の伝記小説はいずれも圧巻である。

飯沼信子氏WEBサイト

講義内容

総括
幕末に生まれ明治時代に育った高峰譲吉は、アメリカに渡り科学者として、またビジネスマンとして数々の業績を残す。ウィスキーの醸造、胃腸薬タカ・ジアスアスターゼの開発、アドレナリン製法の発明など数々の業績を残し、ノーベル賞級の業績であったと伝えられる。同時期にアメリカで活躍した野口英世と比べ、科学者として遙かに大きな業績を残している。
科学者として業績を残しただけでなく、数々の特許を取得し、 その収益は膨大なものとなりビジネスマンとしても大成功した。
また、ニューヨークで日本倶楽部を設立。米国における日本人の地位向上に尽力した。

高峰譲吉の主な業績
・ウィスキーの醸造
高峰式日本酒醸造法を、ウィスキーの製造に応用した。従来、ウィスキーの醸造には大量の大麦が必用で、わずかな麦の「ふすま」で製造することが可能となり、大幅なコストダウンを可能とした。生産初日に火災があり、反対派の放火の噂もあったが、当時の状況を見る限り、スパークによる事故と思われる。
・タカ・ジアスターゼの開発
「ふすま」を使った麹かび に、大量のジアスターゼが含まれることを発見。タカ・ジアスターゼと名付け、胃腸薬として製品化した。パーク・ディービス社により全世界販売されることとなったが、日本での販売権は除外することを条件とした。日本が化学工業が立ち後れていることを痛感しており、その一助とするためである。
タカ・ジアスターゼ は三共製薬から 販売され、高峰譲吉は同社の初代社長に就任している。 タカ・ジアスターゼ は、数々の改良を経て、 現在でも同社から販売されている。
・アドレナリンの製法の発明
副腎ホルモンの純粋培養に成功し、特に外科手術での救命率が飛躍的に高まった。ノーベル賞級の発見と言われ、この特許による高峰譲吉の収益は膨大なものとなった。

妻のキャロライン
高峰譲吉が、1884年ニューオリンズでの万国博覧会で、日本の事務官の一人として渡米。そこで、キャロラインと出会い、婚約。結婚後日本での暮らしが始まるが、ウィスキー製造の件により渡米。以後、譲吉を支え続ける。
譲吉の没後は、若い再婚相手とアリゾナで全く異なる生活を送る。

高峰ファミリーのその後
長男ジョウは、40歳で不慮の死を遂げる。次男エーベンは、ビジネス上の失敗が多く高峰財閥にかげりが見え始める。現在、高峰姓を名乗る直系のファミリーは、ロス在住の譲吉三世のみ。

日本倶楽部の設立
1907年、日本倶楽部をニューヨークに設立。日本人排斥の気運が高まる中、ニューヨークの日本人のよりどころとして大きな役割を果たした。日本倶楽部での高峰譲吉と野口英世が一枚の写真に写っている写真も残っている。

以上
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2005年度 3月 「Japan's Back」

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2005年度 3月 「Japa...
講師 - 土屋敬三氏

73年 立教大学経済学部卒業後、JETROに入る
76年より2年間、マレーシアのマラヤ大学留学
83年 スリランカ・コロンボ事務所長
91年 JETRO労働組合委員長
95年 JETROサンフランシスコ次長
98年 対日投資課長、03年投資交流部次長を経て、
    03年10月にロサンゼルス所長 として赴任、現在に至る

『米国浮かぶ船上デパート』、コスコクラブ、ギャップなどの米国企業の対日進出支援、日本の47都道府県の英語版『投資環境ガイドブック』の刊行、『対日投資ワンストップセンター』の設立など、数々のプロジェクトを手がける。月刊エコノミストや経済産業ジャーナルにも執筆。

講義内容

経歴紹介
立教大学で理論経済学、貿易論を学び73年に卒業後、JETRO入会。76年にマレーシアのマラヤ大学に留学。1日7-8時間マレー語漬けの生活が1年続いたら、ある日突然先生の言うことがすべて理解できた。楽しい時代だった。

日米関係とJETROの機能の転機
50年代から70年代後半までは輸出振興政策一辺倒。70年代後半に日米貿易摩擦がおこり、米政府より日本の市場開放要求が強まり、79年に通産省の貿易政策は、輸出促進から輸入促進に方向転換。当時の米商務長官訪日デレゲーションに協力して、「新さくら丸」に米国製品をつんで日本中を巡回PRしたりもした。当時一番日本人に人気があった米国製品は、「オレンジ」と「牛肉」だった。
政策転換は、別の言い方をすると輸出のための輸入振興を進める政策ともいえる。一人勝ちが許されない時代となった。

円高を乗り越えバブル経済に
戦後ずっと1ドル360円が続いて輸出振興ができたが、為替自由化で200円、150円と円高が進んだ。そのつど、これ以上の円高では日本は死ぬ、と騒いだが結果はハードシップを超える研究と努力がみのり、製造業や流通業を中心に、80年代半ばまで、どんどん日本は強くなっていった。ところが80年後半に不必要な投資をした日本はバブル経済に突入して、90年はじめにそれがはじけた。

バブルを繰り返さない3つのポイント

政策は国際ビジネスをベースにしたグローバルなものであること。それを国民に知らしめること。
コーポレート・ガバナンスの強化(企業のむやみな投資の防止、株主重視、利益の擁護)
ベンチャー支援(税制、ファイナンス)の強化

「Japan Is Back」キャンペーン
03年ごろから日本経済回復の兆し。市場環境も改善されてきた。投資対象市場として日本の魅力をPRするため、JETROは、04年10月にBiltmore Hotelで「Japan Is Back」という題目でセミナー実施。目標の500名を大きく超えて、638名の参加者があった。

バブルの後遺症としてみられた「90年代の3つの過剰」

失業
設備
不良債権
バブル崩壊後、日本経済はデフレスパイラルに落ち込み、企業化心理の冷え込み、縮小、がんじがらめの状態に陥った。これをどう克服するかが、95年以降の日本政府の最大の課題だった。


96年以降の規制緩和・改革の成果
  1-3つの金融ビッグバン
  外貨決済の自由化、ノンバンクの金融参入、株式手数料の自由化
  2-会計ビッグバン
会計基準のグローバル化。連結会計、減損会計、税効果会計の導入。
   企業の情報開示、透明化の促進。
  3-企業関係法制(商法など)の改正

外資には追い風だった「想像以上に痛みを伴った」日本の構造改革
規制緩和・改革で、日本に投資をする外資は、企業価値を下げることなく売却でき、債権譲渡も可能になった。また、Cash Mergerが06年より可能になる。対日投資額は97年6700億円から04年上期だけで2.3兆円に拡大。内外比率(対日投資:対外投資)が1対10だったのが、04年上期に初めて1:1になった。ルップルウッドによる新生銀行買収にみられる産業の淘汰と外資によるリストラクチャリング。建設、小売、ホテルなどあらゆる分野における対日投資と日本企業同士によるM&Aが促進された。

(その後、プロジェクターを使って、日本が投資対象として魅力的な市場である「10のメリット」について簡単に説明。)

経済の回復は大都市圏では進んだが、地方都市ではまだまだ遅れている。その間隙をぬって、中国の投資家が地方の優良中小企業を狙い撃ちで買収している。中国の狙いは設備(技術)と人(エンジニア)のお持ち帰りで、これを問題視する人たちもいるが、外資の対日投資促進のためには、多少の副産物が出てもしかたがないという考えが、今のところ主流を占めている。

空洞化したあとの新産業は何か?JETROは、企業化が育つ海外での事例の紹介を目標としている。

少子高齢化社会について
少子高齢化社会は必ずしも問題ではない。労働生産性を向上させれば、人口が減っても、一人当たりの可処分所得は増える。生産性向上のために、女性(主婦)の雇用促進、外国人労働者の受け入れ、体が不自由な人たちが快適に買い物ができるような環境整備をめざす。外国の企業文化から学ぶことは多い。

以上
#SBMS過去のセミナー

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2005年度 2月 「 サルでもわかるリスクマネージメント 」

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2005年度 2月 「 サルで...
講師 - 諸橋義弘 氏

2004年はイラク戦争、異常気象、大地震、スマトラ沖大津波など
大災害が続いた1年でした。
  今年は、穏やかな年となることを願わざるを得ませんが、現在そのような事故や災害から会社や身を守る手段として、リスクマネージメントの必要性が叫ばれています。しかし、一口にリスクマネージメントと言っても、何をどのようにすることがリスクマネージメントなのか良く分からない面があります。
  そこで、今回はリスクマネージメントの専門家であり、会員でもある
諸橋義弘さんに「サルでも分かるリスクマネージメント」と題して、リスクマネージメントって何なのか、会社経営者にとって、リスクマネージメントという手法を経営にどう生かせばよいのか説いてもらいます。

〔 諸橋義弘 氏プロフィール〕
  日米の保険会社およびブローカー業界で40年間活動。人身事故
査定管理を経て、日本最初の保険金詐欺調査専門職となる。その後
保険ブローカーとなり、現在に至る。専門は、企業の損害保険プランニングおよびリスクマネージメント・サービス。
  現在、Trisure Insurance Serviceを設立し、保険ブローカーおよび
リスクマネージメントコンサルティングの他、Frenkel & Coと提携して、
中規模企業の保険サービスの充実を図っている。1995年に?Associate in Risk Management(ARM)の称号を取得。

講義内容

近年、事故や災害その他の事件が発生すると、危機管理が十分でなかったという批判が
大きく取り上げられるようになった。危機管理とはリスクマネージメントの日本語訳だが、
企業の経営には次のようないろんなリスクがつきまとう。

自然災害: 地震、噴火、津波、風害 など
人的要因: 火災、爆発、汚染、横領、詐欺、暴動、キーパーソンの死亡 など
経済的要因: 消費者の嗜好の変化、通貨変動、不景気、株価下落、技術変化 など
政治的要因: 戦争、課税強化、規制基準厳格化、輸出入禁止 など

リスクマネージメントとは、具体的には 上記のような①突発的な出来事を想定し、その経済的損失を最小限化することであり、②そのための予防処置、事後対策、組織化、指導および処理方法を確立しておくことである。

従って、経営者は常に防災意識と当事者意識が必要であり、具体的対策は現場担当者、外部コンサルタントなどその方面の専門家に検討させることが肝要である。

リスク・マネージメントの具体的方法とは、次のようなステップを言う

Ⅰ.リスクの発見と分析
Ⅱ.リスクへの対応策の検討
Ⅲ.最適と思われる手段の選択
Ⅳ.選択した手段の実行と監視
Ⅵ.その結果の評価と見直し

リスクへの対応策としては次の方法がある。

リスク・コントロール(事故などの予防、軽減するための方法)
                      《例》

事故などの原因の削減: 危険品などを置かない。呑んだら乗らない
予防対策:安全器具購入、不燃物構造の建物にする  
損害の軽減化:スプリンクラーの設置   
リスクの分割化:防火壁   
契約によるリスクの移転:危険作業のアウトソーシング
卑近な例でいうと、呑み会に1.酒癖の悪い人を呼ばない 1.あまり飲まさない 3.酒癖の悪い人の苦手なひとを呼ぶ 4.相性の悪い人を隣同士にしない 5.飲酒後、タクシーを呼ぶ、など

リスク・ファイナンシング(リスクに対する資金的な手配)
リスクの保有

その都度、現金払い
非積み立て準備金
積み立て準備金
ローン
キャプティブ保険(自家保険)
リスク移転

保険の購入
契約による他社からの支払い保証
以上のように、企業存続を危うくする事態を想定して、事故が起きないように予防処置を
講じ、万一発生した場合、その損害を軽微に留め、その損害を補填する手段を考えて
おくことが経営者の務めである。

但し、これらの手法の活用については、企業目的、組織形態などによって多岐に分かれる。例えば新聞社はコストの如何に拘わらず新聞を発行することを目的としたプランを作成
すべきであり、食品会社は安全性に関することを目的としたプランを作ることである。

適切なリスク・マネージメント・プログラムを実施している企業は、事故の軽減だけでなく、
保険料も安くなる。労災保険などは良い例で、保険料の軽減だけでなく、社員の勤労意欲を増し、また労使間の問題も少なくなる。
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2004年度 12月 - 日系アメリカ人に学ぶビジネス観-社会学的考察

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2004年度 12月 - 日系...
講師 山本剛郎氏
講師紹介と略歴
カリフォルニア州では、19世紀末に日本人移民が農業労働者として入植、その中には、自ら農業経営に乗り出し、大きな成功を収めた例がある。その中で、安孫子久太郎(あびこ・きゅうたろう)の主導による農業コミュニティー「ヤマト・コロニー」「クレッシー・コロニー」「コーテス・コロニー」は、1906年から1919年にかけて北カリフォルニアに作られ、現在でも形を変えて、そのコミュニティーは存続している。日系アメリカ人の生き方、事業の進め方、子供(次世代)との関わり方から、現代の日本人が学ぶものは、何か。2004年4月からロサンゼルスで、調査をしている関西学院大学社会学部教授の山本剛郎氏が、社会学とは何かを説明し、安孫子久太郎の足跡、コーテス・コロニーの現状および最近入手した資料などを報告・紹介する。


〔山本剛郎氏プロフィール〕
  関西学院大学社会学部教授。担当分野は、人間社会で生じるもろもろのできごとを、村落や都市との関連で考察・分析する地域社会学。京都大学文学部(地理学)、大阪大学大学院を卒業。大阪大学文学部助手、天理大学教養部講師を経て、関西学院大学社会学部へ。おもな著作に、『都市コミュニティーとエスニシティ』(ミネルヴァ書房)、『阪神・淡路大震災の社会学』(昭和堂)、『地域生活の社会学』(関学出版会)。1985年5月から1986年9月、UCLA社会学科客員研究員としてロサンゼルスに滞在し、日系アメリカ人コミュニティーの成立と展開過程を研究。2004年4月から2005年3月まで、UCLAアジア系アメリカ人スタディー・センターの客員研究員としてロサンゼルスに滞在中。今回は、日系アメリカ人コミュニティーを、農業の観点から、その変動を調査している。


講義内容
社会学とは何か
 明治になって、Society ということばが日本に入ってきて、「会社」「社交」「社会」という訳語が候補になり、その中から「社会」に決まった。明治以前の日本では、Societyに相当することばは、「世間」であった。人間関係は、何かしてあげた
いな、と思うことから始まる。期待しあうことから、関係が生まれる。そして、役割が生じて、組織が生まれる。人間の組織は、「家族」という集団から、「制度」へと、組織が大きくなるにつれて、発展していく。

社会学と日本人移民史
 カリフォルニア州では、19世紀末に日本人移民が農業労働者として入植、その中には自ら農業経営に乗り出し、大きな成功を収めた例がある。その中で、安孫子久太郎(あびこ・きゅうたろう)の主導による農業コミュニティー「ヤマト・コロニー」
「クレッシー・コロニー」「コーテス・コロニー」は、1906年から1919年にかけて北カリフォルニアに作られ、現在でも、形を変えて、そのコミュニティーは存在している。わたし(山本)は2004年4月からカリフォルニアに来て、現存するこうしたコミュニティーで生きるひとたちのインタビューをしている。今日は、わたしの研究経過を報告する。

事業家、安孫子久太郎
 新潟県出身。生まれてすぐ母親が亡くなり、母親の実家で育てられる。14、15歳の時東京は出て洗礼を受ける。津田米子と結婚。米子の姉、津田梅子は、津田塾大学の創設者。安孫子は、日本人が差別を受けるのは、出稼ぎ根性でいるからだと、アメリカへの定住を訴える。そのため、新聞社、銀行、労働者斡旋会社(日米勧業社)、殖産会社を作った。

ヤマト・コロニー
 サンフランシスコから車で、1時間ほどの距離にある、マーセッド・カウンティーに、安孫子は、1906年にヤマト・コロニーを作った。ヤマト・コロニーは、高学歴、クリスチャンの集団だった。その後、近くに仏教徒とクリスチャンが混じり合ったクレッシー、コーテス・コロニーができるが、身近な距離であったにもかかわらず、協力関係がなかった。
 コロニーの日本人は、地元の白人と対立することを避けるため、商店などはあえて開かなかった。しかし、白人と仲良くしていれば、差別はなくなるという理想は崩れ、日米開戦、日本人の強制収容が行われる。

コーテス・コロニー
 わたし(山本)は、20年前と今回と2回、コーテスの調査を行っている。この間の変化は、インターマリッジ(異人種間結婚)が増え、離婚率も上がっている。学歴が高くなるにつれて、農業に従事しなくなっている。また、農業規模も、80年前は、20から40エーカーで生産が成り立っていたが、現在は最低100エーカーが必要。コーテ
スの農業は企業化し、白人が経営するコーポレーションが多い。

創意工夫の国府田敬三郎
 国府田米で、有名。福島県出身。元武士だった父は精米業を営んでいた。敬三郎は教師をやっていた。敬三郎は、労働者としてはアメリカへに入国許可が、出なかったので、視察という名目で1907年、25歳の時、アメリカに入った。飛行機でモミを蒔く方法を考案し、カリフォルニアでは米ができる南限のサリナスで、戦前、米を作った。日本人の土地所有権を認めさせるために「民権擁護協会」を作たり、日本人の米国帰化権を認めさせるためのロビー活動に潤沢に資金を出した。日本から農村青年
の、カリフォルニアへの受け入れの先頭に立った。(非買品、『国府田敬三郎伝』が福島の新聞社から出版されている)

日本人移民の実業家から学ぶこと
● 事業の絶頂期に次ぎの方策を考える。いいことは長く続くはずがない。
● 密かに考え、大胆に勇気を持って行動する。
● スケールの大きな発想
● 徹底した調査・研究。他人がやったことで、マネできないことはない。
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