どうしてだろう ぼくはさんすうのじかん えをかくのかな どうしてだろう ぼくはこくごのじかん ねむくなるのかな どうしてだろう ぼくはせんせいにおこられて ないているのかな
詩人会の方から同人誌(本)『みみずく』(みみずくの会)が送られてきた。少年詩と批評が掲載されている。少年、少女時の残っている想い出。その意味を大人になっても追いかける詩に、まだ我が身にある感性へ言葉が響いてくる。少年、少女を読む。心も少年、少女のままで。
テステス 詩のテスト中 テステス あいうえおえういあ 詩のテスト中 テステス かきくけこけくきか 詩のテスト中 テステス さしすせそせすしさ 詩のテスト中 テステス たちつてとてつちた 詩のテスト中 テステス なにぬねのねぬにな 詩のテスト中 テステス はひふへほへふひは 詩のテスト中 テステス まみむめもめむみま 詩のテスト中 テステス やいゆえよえゆいや 詩のテスト中 テステス らりるれろれるりろ 詩のテスト中 テステス わゐうゑをゑうゐわ 詩のテスト中 テステス んんんんんんんんん 詩のテスト中 テステス 詩のテスト中
今週火、水、木曜日は詩の掲示板へ投稿された作品に評を出す担当だ。数年前まで、ひとの詩を読むくらいなら、自分が詩を書く時間にあてたい、と思っていた。なんとも成長を伴わない思考をしていたようである。そして、このような機会を与えて頂くと自分の読解力がないことに気づき慌て、なんとか想像力を膨らませて対応している。すぐに雰囲気をつかめる作品、難解な作品等、読み込んでいくと今まで見えなかった世界を堪能することができる。そして、作者のもとから離れた作品は読者の数だけ世界が広がる。今まで二度ほど評を出してみて、作者から「そういう捉え方も……」というご意見を頂いた。詩はこのセレンディピティ要素が濃い芸術ではなかろうかと感じる。そこが面白い。ただ、的を外した評を書いている言い訳のように聞こえてしまうだろうが…… 評を書く時はとても集中する。詩を書く時とはまったく違う脳の部位を使うのだろうか、文章が纏まった時の達成感に充実をこれでもかと得るのである。幸せなことだ。ありがたいこととだ、感謝。ということで評を書くこと、私は好きみたいだ。できの良し悪しは置いといて……、もっと勉強するぞ! 作品をお待ちしております!
我が身のグレーは 取り憑かれた層を重ね塊となり 転がり亀裂だらけで終着に何を望む 誰が空を信じようか 誰が海を信じようか 誰が誰を信じようか 我が身のグレーは 取り憑かれた層を重ね塊となり 転がり亀裂だらけで終着に何を望む 誰が流されるものか 誰が心地よくなるものか 誰が信じる処へ行くものか
気持ちの明暗を 電車に揺られ確認している 大丈夫、大丈夫でない 大丈夫、大丈夫でない と いけそうか、いけないか 今度は身体に確認している 痺れはどうだ、痛みはどうだ と 怖いことは先が見えない 現状が見えない 今週の検査で先が見える 結果に慄き また先を見ようとする 自分であるに違いないが……
玄関を開け 疎らに落ちる冬の雨を 感じて行くよ 明日を忘れようとして 明日は浮かんでくるけれど 変えられそうもない色を 上塗りする納得を探し 答えは拾えそうで拾えない 答えは拾えないようで拾えそう 公園の雨やどり 屋根のあるベンチ 左手はぶら下がったまま iPadは膝の上 右手は軽やかなリズム 詩を書く最小最大の存在 落ちるほど上塗りされる明日
頚椎にある脊柱管の神経がまた潰れているようだ。四年前にインプラントで対応したが、左手でiPadが一分持っていられない痛み、痺れ。思っていたより早い草臥れ方だ。詩でやりたいことが崩れてゆく。もし、両手が使えなくなっても詩は書いてゆく、そう決めたのだから。足でも書ける。明日、受診しよう。