ここ数ヶ月の間に昭和を代表する保養地・温泉地・別荘地の一つ“熱海”を2度も訪れた。
子供の頃に親に連れられ行った、懐かしい場所でもある。
今では、観光客で賑わう保存建築文化財でもある「起雲閣」に昔、宿泊したことがあった。
1919(大正8)年に実業家,政治家であった内田信也が実母の静養場に建てた別荘。
伝統的和風建築だが、随所に斬新な技術が見られる。
母屋的建屋(座敷の床の間や付書院まわり欄間等)は、細部に凝っているが簡素な造りである。
しかし、座敷の三方を取り囲む畳廊下と庭園の風情は、今日では見れない贅沢な空間に映った(今現在)。
畳廊下の窓ガラスは、当時、職人の手造りの「大正ガラス」、手造りゆえの微妙なゆがみが、懐かしい。
又、座敷と同じ高さに揃えた畳廊下で囲む造り(入側造、いりかわづくり)、車椅子生活を思っての事か。
家族を思い図っている事が見て取れる。母屋の二階座敷「大鳳」に「太宰 治」も逗留したと伝わっている。
起雲閣の表門は、1919(大正8)年に創建され、薬医門(やくいもん)とよばれる造りである。
二本の本柱と二本の控柱で女梁(肘木)と男梁(腕木)を受け「切妻」「入母屋」の屋根を架けている。
現在は、屋根に瓦を載せているが、古い写真では檜皮葺(ひわたぶき)で軒を押さえている。
大正期から昭和期にかけての門・土塀、母屋(座敷や玄関)、土蔵、別棟の洋館、
そして庭園のすべてが揃い邸宅の屋敷構えとして現存する事例は数少なく、貴重な文化的・歴史的遺産である。
洋館「玉姫」(たまひめ)は、二代目の持ち主「根津嘉一郎」により、1932(昭和7)年に完成した。
正面中央に暖炉があるヨーロッパのデザインを基本にして「折上格天上」(おりあげごうてんじょう)等、
日本の神社仏閣に見られる建築様式や中国風の彫刻、シルクロードで見られる唐草模様の彫刻で飾られている。
洋館「玉渓」(ぎょくけい)は中世英国の「チューダー様式」に「名栗仕上げ」を取り入れ山荘風の造り。
だが、暖炉の覆いにはサンスクリット語の飾り、入口の天井には茶室様な竹が用いられ、独特の雰囲気空間。
暖炉脇の太い円柱は、古社寺の柱、江戸時代の帆船の帆柱とも云われ日本建築の「床の間」と「床柱」感覚か?
「玉姫の間」に併設されたサンルームや、ローマ風浴室等、目を見張るものばかりだ。
訪れた日は、撮影機材を持参していなくて、後日再訪して仔細を記録したい(自己流視点で)。
起雲閣の庭園は、池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)とよばれ、眺望・散策を楽しむためのもの。
「起雲閣」とは、旅館時代の名称。外観は和風だが、室内は洋を取り入れ斬新、調和さは、見事という他ない。
昭和を彩った文人に愛された宿。僕にとって谷崎潤一郎、志賀直哉を思い起こせる夢想の場所である。
熱海散策から帰宅した後、「旧日向別邸」の拝観が年内を以って数年間お休みになる、という情報をもらった。
子供時分に起雲閣に逗留した折り、海岸を散歩して「旧日向別邸」を訪ねた記憶がある。
懐かしく拝観できないか、と思った。今は、「旧日向別邸」熱海市が管理しており、土日、予約のみに由。
「旧日向別邸」は、ドイツ人建築家(旧東ドイツ)ブルーノ・タウトが日本に残した設計建築物である。
アジア貿易で活躍した日向利兵衛が別邸の離れとして1936年(昭和11年 )に竣工。
ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが日本に残した唯一現存する建築で、重要文化財にも指定。
竹や桐をふんだんに用いた社交室、部屋の一部として階段のある洋室、そして和室の3室から構成され、
桂離宮、伊勢神宮など日本の様式美を意識して設計されている。
日向氏の死後は民間企業の保養所として利用され、今は熱海市の所有となり一般公開されている。
木造二階建ての母屋の設計は、東京銀座の和光、東京上野の東京国立博物館、
愛知県庁などの設計で知られる渡辺仁によるもの。
写真撮影は禁止であったが、昔を思い出せる空間であった。月日の経った事に寄るものだろう!?!
昔、訪れた時は、室内にもっと光が差し込んでいたように思う。諸々の事でへや全体がくすんだのか?
へやの隅々まで拝してみると、繊細かつ丁寧な職人技が随所に見られ感慨深く拝観できた。