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ぼくしのめがね

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しるしと悟り Sign and understanding

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2014年7月27日日曜日礼拝 音声はyoutubeから http://youtu.be/c-X8zVUYBbw

書いているものと、実際のメッセージは少し違います。いつも聖霊様が助けてくださって、書いていないことも語っています。英語と日本語で両方なので、日本語、英語のみ理解される方には聞きづらいかもしれませんが、音声の方が内容がいいので、ぜひ音声もお聞きくださいね。

聖書箇所 マルコ8:8-26

テーマ聖句 

マルコ8:14, 15

弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパンがただ一つしかなかった。15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。Now the disciples had forgotten to take bread, and they did not have more than one loaf with them in the boat. Then He charged them, saying, “Take heed, beware of the leaven of the Pharisees and the leaven of Herod.”

★しるしを求めるパリサイ人

この章の始めには、たった七つのパンで四千人以上を満腹にするという奇跡がありました。そして、パリサイ人は、イエスのもとに来て議論を吹っかけました。
天からのしるしを見せろというのです。
それは、彼らにとっては、イエス様がしていることが天からのものかどうか分からなかったので、自分たちに分かるようにやってみろというのです。検証したいから、自分が納得したいから、納得を行くものを出してくれというのです。
しかし、イエス様は、それを拒まれました。
私たちも、このパリサイ人にようなことを時々してしまうのではないでしょうか。神様、これが御心かどうか教えてください。教えてくれるまで動きません。というような。本当にこれが神様の御心なんだろうか。。。この問いかけや、やり方が本当に宗教的で正しいように感じますが、実は、そうではないのです。この思いはどこから来ているのでしょうか。それは、疑いからきているのです。パリサイ人は宗教人でありながら、信仰がなかったのです。

皆さん、何が御心であるかどのようにして分かるのでしょうか。一つは、聖書に書かれていること、真理は御心です。もう一つは、ロマ書12:1,2心の一新、すなわち悔い改めによって、神の御心が分かるのです。
逆に言うと、人間の考えや、予想、やり方、思いでは、神の御心が分からないのです。神のこころが分からなければ、分からないのです。
ですから、一番大切なみこころの知り方は、神ご自身を知る、神と知り合いになる。神と関係を築くことにあります。

みなさん、しるし、奇跡は何のためにあるのでしょうか?  

先週も言いましたが、奇跡は、ただあなたの身体や生活が良くなるためだけではなく、神とあなたの間に関係ができるためにあります。神は、むしろこの部分を大切にしておられます。ですから、長血の女が癒されたとき、こっそりさわったのに、イエス様は、わざわざ「誰ですか?」とその人と、対面することを望まれ、きっちり面と向かって「あなたの信仰が良くしたのだ」と直面されたのです。イエス様はあなたとの関係を求めていらっしゃいます。天の御国はあなたとの関係を求めています。

★パン種について気がつかない弟子たち  自意識から神意識へ変わる必要

先週のメッセージでも、とりあげましたが、弟子たちがこの章でまた同じようにイエス様に注意されています。この章の始めで弟子たちは、七つのパンで四千人以上を満腹にしたのを見たばかりなのでした。しかし、船にのって向こう岸にいく時に、イエス様は、「パリサイ人と、ヘロデのパン種に気をつけなさい。」と言われました。それは、たった今、パリサイ人が議論を吹っかけてきて、しるしのことでひと悶着あったことを元におっしゃいました。しかし、弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、パンが一つしかないことで、責められたと思ったのか、互いに責める気持ちなのか、互いに議論が始まりました。

マルコ8:16-18

そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。And they reasoned among themselves, saying, “It is because we have no bread.”17 But Jesus, being aware of it, said to them, “Why do you reason because you have no bread? Do you not yet perceive nor understand? Is your heart still hardened? 18 Having eyes, do you not see? And having ears, do you not hear? And do you not remember?

弟子たちは、自意識過剰でした。誰が悪い、誰が忘れた。どうして忘れたということばかりが気になり。イエス様が何を考え、何を言おうとしているのかということは、全く理解できませんでした。

そこで、「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。Do you not yet perceive nor understand? Is your heart still hardened? 18 Having eyes, do you not see? And having ears, do you not hear? And do you not remember?」としかれます。

悟りというのは、先週もお話したとおり、目で見たものと心で信じていることが一致すること。物事の真の意味を理解することです。

弟子たちは、悟りからほどとおく、自分のことしか考えていなかったようですね。
みなさん、自意識が強いかぎり、神様のことは、悟ることができません。五千人給食と、四千人給食の真の意味とは、では、なんだったのでしょうか。『自分の手の内に持っているものが少なくても、大勢の人を満たすことができる。神の力によって。』ということではなかったでしょうか。

しかし、弟子たちは、まだ、パンがあるかないか。自分の手のうちのことで思いがいっぱい担っていたのです。彼らが、誰と一緒にいるかということだけでも、悟ることができたら、このような議論は起きなかったはずです。

私たちも、このようなことは、ありませんか。私には、これだけしかリソースがないから。。私には、うまくできないから、などと、自分の小ささや、リソースの小ささに捕らわれ、自分に捕らわれて物事を考えないでしょうか。弟子たちのしたような議論を頭の中で繰り広げてしまいませんか。

人が自意識過剰でいる限り、信仰はありません、悟りはありません。

自意識から、神意識に変えられる必要があります。私が、「誰と一緒にいるのか」ということに目が開かれるのならば、このような議論はなくなるのです。神を意識しましょう。

★しるしと悟り

弟子たちは、パリサイ人となんら変わりの無い状態でした。天のしるしを求めたパリサイ人には、疑いしかなく、信仰がありませんでした。信仰がないということは、神様との関係がありませんでした。イコール悟りがありませんでした。
また、パリサイ人のパン種に気をつけなさいと言われた、弟子たちは、たくさんのしるしを見てきたが、心で信じていることと一致していなかった。見ているのに信じていなかった。すなわち、起きている事と、それを起こしている人と自分との関係がなかった。イコール悟りがありませんでした。

イエス様は、奇跡をたくさん起こしておきながら、パリサイ人のパン種に気をつけなさいと言われた。

しるしは、悟りの無いところには、何の意味も持たないからです。

またイエス様は、「覚えていないのか」とも言われました。見たことを、記憶し、それについて瞑想し、心に悟りとして蓄えていく作業が必要なのです。

★盲人の癒しから学ぶこと

イエス様は、続いて、村に入られて、盲人を癒されました。そして、その盲人の癒しは、二段階で成されました。初めにつばきをかけ、手を置き、祈られたときには、盲人は、うっすら人が見え始めました。そして、もう一度イエス様が手を置かれたあと、しばらくして、完全に見えるようになりました。

イエス様がこの盲人の目を開けるために二度祈る必要があったと思われますか? 疑問ですよね。あれほどの数々の奇跡をされる方が、二度祈る必要があったのかと思いますよね。

これは、イエス様からの私たちへのメッセージだと思います。この盲人は、一度祈られて、ものがうっすら見え始めたときに、悟ったのです。ああ、見える。癒される。私は、イエス様によって癒されると。そして、心に信じた。そして、癒しが完成したのです。
私たちが、自意識から、神意識に移されるとき、神の御業が完成されるのです。
覚えていますか。先週、イエス様の郷里では、大きな業が成されなかった。なぜなら、人々がイエス様を敬って受け入れることができなかった。すなわち、期待がなかったから。

しるしと悟りには、私たちの分があるので。役割があります。

受け取るか、願うか。信じるか、イエス様との関係を持ちたいか。という決断が必要なのです。

イエス様は、また、この癒された盲人に、村に入らないようにと言われました。

これは、せっかく自意識から神意識になったのだから、しばらく時間を掛けてゆっくり悟るようにということを示されたのです。

私たちは、時間を掛けて、世から、離れて、瞑想する時間が必要です。日々の生活の中で神様に教えられたことを心の中に悟りとして蓄える時間が必要です。
イエス様は、弟子たちに、「覚えていないのか」と言われましたね。ゆっくり、心の中に蓄える時間があってこそ、奇跡の本当の意味を覚えていられるのです。

さあ、今週、世から離れ、静まる時を持ちましょう。


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MR-職人
Commented by MR職人
Posted at 2014-07-29 05:31

何時も参考になる<コメント>ありがとうございます。
難しいテーマが多いので理解できない事柄に遭遇しています。
俗世間から離れるのは至難の業です。
時々座禅?を組んで<瞑想の真似事>をしますが、チラチラ浮世が出てきます。
とても<悟り>は他人事の様です。
未熟者の戯言です。

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bokushi
Commented by bokushi
Posted at 2014-07-29 12:03

Mr. 職人さま

そうですねぇ。自分・自我に死なない限り、啓示、悟りに到達するのは難しいのかも知れません。自分を第一にしているかぎり見えてこない世界があるのですよね。

悟りについても、仏教ベースの日本人の頭では分からないことがあります。
悟りの定義が違うのかもしません。
仏陀は、修行、苦行の末、悟ったことは、「救いがない」という事でした。

けれども、キリスト教では、「信じるものはみな救われる」という真理の上から始まる悟りなんですね。

自分の力でかんばって悟りに到達するという世界と、神の不変的な真理を軸に物事を悟るという違いがあります。

難しいですね。。。。

とにかく、瞑想の時間をもつのは、身体の健康にも脳にも精神にもとても良いそうです。もちろん霊的にも。神様が語られます。
私も続けたいと思います。

真理に出会うには自分を知ることからだと私は思います。
黙想しながら、己をしり、神を知り、真理を悟ることができるようにと思います。

ぼ

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