裁きの現場で
Aug
20
ヨハネ8:2-12
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」
12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
先日、久しぶりに散歩に行くことができました、8th Ave のホールフーズに行くと、店の前に、見るからにホームレスの日に焼けて髪の毛をとかしてない女性が、二人の男性に囲まれていました。一人は、店の店員さん、一人はセキュリティの人。女性は上目づかいでセキュリティの顔を見上げて突っ立っていました。セキュリティの人の手には彼女が盗んだデリの箱が。何やら怒られてる様子。私は、それを見て、胸を締め付けられるような思いがしました。お腹が空いててやっちゃったのかな。。と。みんな、憐れみのあの字もなく、軽蔑と無関心の様子で人々は通り過ぎていきます。彼女にとっては、人の軽蔑と恥をかくことは慣れっこのように見えました。どうしても、帰り道その姿が忘れられなくて、思いめぐらしている時に、姦淫の現場でつかまり、イエス様に連れてこられた女の話しを思い出しました。この話は、律法学者とパリサイ人がイエス様を貶めようと図ったできごとですが、イエス様のされたことからたくさんのことを私たちは学ぶことができます。
●この話の中で、女性は引き連れられてきて、人前に出されます。本来なら、男性もいたはずですが、男性は連れてこられませんでした。いかにも、この女性は、尊厳なしにこんな風に扱われるほどさげすまれていたのでした。
彼女はみんなが知っている売春婦だったのでしょう。みんなに、ぞんざいに扱われてもいいと思われていた。。。。私たちも、明らかに罪を犯している人をそのように見るのではないでしょうか。イエス様を試しはしなくても。。。
v5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
とイエス様は聞かれ、何をされたかというと。。。
★ V6しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
どうしてイエス様は、身をかがめたんだろう、字を地面に書いたのか。。。などと、いつも疑問に思っていた箇所でありました。
先日見た事件で、セキュリティの人が身をかがめたらどうだったろうと想像してみると分かりやすくなりました。セキュリティの方は、彼女を叱ってるようでしたから、上からで、彼女は見上げている格好でした。
① 身をかがめた。----- 罪を犯して責められている人と同じ高さになられた。
その動きで、人々の目は、ふしだらな女からイエス様に集中する。
② 地面に文字を書いた。
人々は、手もとのイエス様の言葉に、黙って集中するしかなかった。
口の言葉だったら問答になっただろう。また、上目づかいであたりを見回している女性にも気を取られて、人々の心は集中しなかったろう。
ここで書かれたのは、いろいろな説があるが、一度目は、女へのメッセージだったともいわれ、二回目はパリサイ人たちへの言葉だったとも。また、一人一人の犯した罪に関してのことであったとも、また、赦しの言葉であったとも、また、愛について書かれたとも、諸説ある。。。。
しかし、確かなことは、
罪を人に明るみに出されて、人前に連れてこられた女も、連れてきた者たちも、見物人も、みな、イエス様の「言葉」に直面し、取り組まなければならなかったということです。ここで、私たちに何を教えるでしょうか。
私たちは、罪にまみれた人を見るときに、また、そんな現象を見るときに、それに集中します。そして、自分の心を裁いたり判断したりして、いろいろと考えるのです。でも、もしも、そんな中で、私たちの目がイエス様に集中することができたら。。。この場面のように、事情がかわったのかも知れません。
●イエス様が何を言われるか。また、人を裁く前に、イエス様の言葉に向き合うことを私たちに教えているのではないでしょうか。
●この後、全ての人がイエス様に出会います。
★罪のないものが、石を投げなさい V7
み言葉に取り組んでも、なかなか自我と自分のやりたいことを諦められないパリサイ人たちは、イエス様にさらに詰め寄ります。すると、罪のない者からでは、石を投げなさいと言われました。
しかし、誰も、石を投げれるものはいませんでした。
そこにいた全員が、イエス様の文字と言葉の力に降伏したのです。
◎ 石を投げる権利のあったのは、イエス様だけでした。
女とイエス様だけがそこに残りました。
①イエス様のフォーカスは、裁きではなく、赦しと新しい命
Sin no more
②最後まで罪人と寄り添う。
★ 12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様のフォーカスは、私たちがまず、光の中に出て、そして、光の中を歩む。いのちの光を持つことです。それには、イエス様の出会いと、赦しが必要不可欠。
ですから、イエス様は、赦されたのです。
★私たちも裁きの座に着かずに、人を裁くようなことがあるときには、まず、上の立場、裁きの座から降り、イエス様に注目し、またイエス様の言葉に取り組みましょう。きっといつもと違う判断に導かれることでしょう。