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子供たちプラス、一人大人のアート。テーマは犬です。みんな上手ですし、みんな絵とともに、ストーリーを持っています。とてもクリエイティブ。また、どんな人も、インスピレーションを感じたときには、それにともなうストーリーを持っているんだと思い。。感動しました。
この犬は、おうちの中にいて、お客さんが来たので、うおーーんと言っているそうです。家は自宅で、犬は、お友達の犬らしいです。
2017年12月3日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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★剪定のないぶどうの木、テストのない人生
ホセア10:1-1
イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。
良く茂った。。。。誰も剪定をすることのないぶどうの木。生い茂り、伸び広がり、実はもしかしたら短い間だけ、初めの年は、小さくてもたくさんつけれるのかもしれない。リサーチしてみたら、剪定してない木はろくなブドウができないと書いていました。また、伸びっぱなしのぶどうの木は病気にもなるそうで、どっちにしろ剪定なしでは木はだめになってしまうようです。
神は、愛しているものを懲らしめる。
へブル12:5-6
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
ダビデも、試練を通して学んだという。
詩篇119篇71節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。It is good for me that I have been afflicted, That I may learn Your statutes.
イスラエルは、あまりのわがままさに、剪定されることもなくなり、ついに裁きがイスラエルに下っているということになります。。。。みなさん、神様の保護の中、剪定されるぐらい、なんですか。剪定の痛みは、裁きの痛みに比べたら小さなものです。
★二心
ホセア10:2-5
彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。3 今、彼らは言う。「私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう」と。4 彼らはむだ口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。だから、さばきは畑のうねの毒草のように生いでる。5 サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく。その民はこのために喪に服し、偶像に仕える祭司たちもこのために喪に服する。彼らは、その栄光のために悲しもう。栄光が子牛から去ったからだ。
〇二心になってしまったイスラエル。。。
信仰は聞くことから始まる。。イスラエルは神の言葉を聞くことをやめてしまった。すなわち、他の神々のいうことを聞くようになってしまった。
最初の人、アダムとエバの堕落は、どこから入ったか。それは、神の声を聞くことよりも、サタンの声に聞いた、そしてその声に従った。=自分の人生を支配する権利はあなたにありますというもの。
人は、同時に二人の神に仕えられないとある。
マタイの福音書6章24節
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
両方の声を同時に聞いて従うということはあり得ない。
★王が取り去られ、偶像が取り去られる
王がいない…イスラエルの王は、次々に内部からの反抗で変わっていきます。人は、王がいないと嘆きますが、もともと心が分かれ悪魔に聞き従っている人には、恋焦がれている完璧に王に見えても、すぐにその王も取って変えられるようになります。私たちも、神にそぐわない、偶像化した自分の利益のための王を求めるなら、それは、やってきてはまた去り、落ち着くことがないでしょう。
子牛の栄光は消えてなくなる。…イスラエルは、ベン・エベン= 悪の家の子牛と書いてありますが、これは、有名なヤコブが天への架け橋を見た、べテル=神の家のことです。イスラエルが神に出会ったその場所を、彼らは、偶像の祭壇にしてしまっていたのです。なんということでしょうか。そして、その姦淫の罪のために、もう敵がやってきて、いくら子牛にすがっても、無駄である。栄光は取り去られた。裁きが来るということを、言っているのです。
偶像の栄光は、一時的なものであり、永遠ではありません。また、それが幻想であることを私たちは覚えておきましょう。
★今は、誠実を養う時
ホセア10:12-13
12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。13 あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。
神様は、真の天の父です。イスラエルのしてしまった罪と悔い改めない心の結果として裁きは来ますが、神様は、まだ、道を示していらっしゃいます。それは、人生心を入れ替えてやり直すことです。一つ一つ、神の前に正しいことをし、誠実に生きる。神の言葉を聞き、神の言葉に従って行動すること。これを勧めておられます。
一からこつこつ誠実の種を蒔いていくこと。これが、何よりの近道です。。毎日、神の言葉を頼りに生きること。神のみ言葉に従うことを私たちもしていきましょう。
Facebook AZAMI さんの写真をお借りしました。うちの近所からみえる風景です。シアトルは、寒いですーー
2017年11月12日日曜日礼拝メッセージ音声は、こちらから
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ホセア8:1-14 誰に信頼するのか?
引き続き、ホセア書を読んでいます。毎週毎週ここのところは、神の裁きの言葉と憂いの言葉ばかりで、なんだかうんざりしてきます。みなさんもそうでしょうか。そう思うときに、それでも、まだ神は、忍耐して、イスラエルの民が立ち帰ることを待っている。裁きはあるが、それは、立ち直るための懲らしめであることも見ることができます。私たちならば、すぐに立ち去る、あきらめるようなことでも、神様は忍耐強く待つて下さっているということが分かります。
1. 角笛を口に当てよ Trumpet; Calling for War
v1-6
1 角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。2 彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている」と叫ぶが、3 イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。4 彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。5 サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。6 彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。
〇角笛は、戦いのための Trumpet; Calling for War
神は、戦いのための招集を呼び掛けています。角笛は、戦いのために人々に喚起を呼び掛けるものです。とうとう、アッシリヤが鷹のように襲ってくるというのです。
主の宮というのは、イスラエルのことであり、今や金の子牛のヤロブアムの宗教の宮と化した宮です。
民は、勝手に王を自分たちのために立てていました。しかし、王も助けることはできず、敵が来るというので、民は、「私の主、私は主を知っている」というというのです。。。
しかし金の子牛、イスラエルが拝んでいるにせの神は、粉々に壊されるというのです。
〇ファンタシーと自分の思い Fantasy & Your desire
想像力はイマジネーションは神様からの賜物。人は、心に思うことを行動に移すものです。
人は、窮地に追い込まれると、必ずファンタシーを持ちます。辛さに直面し続けることが成因的に耐えられないからです。空想の世界に休みを見出すことは、自然なことです。しかし、本当の休みがファンタシーの中にはないのです。人は、自分の思いと願いと人間的な知恵によって実現しようと必死になります。イスラエルの民は、金の子牛にその思いを託したわけですが、人は、自分の神を作り出す。また、ここで神に指摘されているように、自分にとって神に導かれていない人間・リーダーについていく。神様に選ばれていない人についていく。神の導きでなく、自分が良かれと思う人についていく。。。ということが起きます。すべての根っこは、偶像礼拝です。
〇偶像礼拝は、恐れからくるマニピュレーションであります。恐れは信仰の反対。
偶像礼拝の反対は、信頼です。苦しみの中にあるとき、祈りの課題があるときに、何に信頼するのか、空想を持つとき、ビジョンを持つとき、願いを持つとき、計画を持つときに、その都度神を信頼しましょう。神に導かれていくことを選びましょう。前回話したように、神に導かれて行くことは、時には、全てを壊されることかもしれない。しかし、信頼しているならば、必ず勝利を見ることになるでしょう。
神は、本物ではないもの、神から来ていないもは、粉々にすると、ここでも語られていますね。
2. 裁きを受けるイスラエル Judgment on Israel
v7-10
7 彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。8 イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ。9 彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした。10 彼らが諸国の民の間で物を贈っても、今、わたしは彼らを寄せ集める。しばらくすれば、彼らは王や首長たちの重荷を負わなくなるであろう。
〇風をまくようなもの、
すなわち、種をまいたら刈り取りができるが、彼らは、神にあって何も種をまかず、風を撒くようなものであった。すると、つむじ風が来て、全部滅ぼしてしまう。アッシリアのことを言っている。
〇誰にも喜ばれない器、ひとりぼっちの野ロバ。――
器もロバも、用いられるためにあります。誰にも喜ばれない器とは、何も入れることができない、使うことができない壊れた器のこと。器が伝えなければ、器の意味がない。ロバも、交通や労働の大切な人間のパートナー。一人ぼっちの野ロバとは、労働のための人の役に立つものではない。ということ。
本来イスラエルとは、神に選ばれた民であるから、世界中の国々、人々に神を指し示す、神を紹介する役目を持っていたはず。。。
私たちも「用いられる」とは、ということを考えてみると分かる。自己実現の道ではないのです。弘法筆を選ばず、という言葉がありますが、弘法さんはどんな筆を使っても素晴らしい作品を書かれる。あなたがどんな立派な筆か知らないが、書く人がへたっびなら、いい作品はできない。私たちを用いられるのは、神です。
神に用いていただかないのなら、いい実はならない、いい作品は出てこないのです。
自分という器を、神に差し出すことがなければ、いいものができないのです。
イスラエルは、自分のわがままと、繁栄を求め、偶像と人によりたのんだので、いいものができなかったのです。ここにも、誰に信頼するのか。。。と神さまに問われているようです。
3. 神はイスラエルの捧げものを受け取られない Unaccepted Sacrifice
v11-14
11 エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。13 彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう。14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。
〇祭壇は、神に捧げているようで、金の子牛に捧げていた。
多くの祭壇を作ったが。。。真の神へのものではなかった。。。
〇神の言葉をないがしろにしている。――神の教えを持っていることは、イスラエル人の誇りであり特権であったのに、自分の心の赴くままに行動し、神の言葉を無視することとなった。
〇いけにえ、宗教行事は、いけにえの肉を食べる会と変化し、いけにえの意味は踏みにじられてしまった。
〇神の存在を忘れているイスラエルに安息はない。
神の存在を全てにおいて認める。信頼する。
箴言Proverbs 3:5, 6
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。rust in the Lord with all your heart, And lean not on your own understanding; 6 In all your ways acknowledge Him, And He shall direct your paths.
ぼ
10月のお誕生日祝い、三人でふーー。みんな大人なので、すぐにろうそくは消えました。。。お誕生日おめでとうございますーーー
2017年10月22日日曜日礼拝メッセージ音声はこちらから、
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ホセア6:1-11
1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
★民の悔い改めの呼びかけ v1-2
この箇所は、ついに民が、「神を知ることを求めよう」と、悔い改めを呼び掛ける声から始まります。状況は。。。。四章、五章であったとおりに、時は、アッシリヤ、エフライム戦争、神に頼ればいいのに、神の民は外国に頼った。前回五章で話しました通りです。そして、民は、「悔い改めよう。」を始めます。主は、私たちを打ったけど、立ち返ったら、きっと赦してくれる。。。と。
いよいよ、神様に心が向いたのだろうか。。。と、読み手の私たちの心は期待します。
★何事もイエスのよみがえりの力頼み? V2
主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。After two days He will revive us; On the third day He will raise us up, That we may live in His sight.
仏教の中でも、日本に来て他力本願という考え方・言葉がありますが、これは、お経を唱えるだけで、とか、観音様によって。。。とかいうことですが、キリスト教で言えば、救いは他力本願以外の何物でもありません。しかし、一つ、日本仏教との違いがあります。それは、心根が変わることが要求されるところです。
〇心根が変わるのは、悔い改めから来るわけですが。悔い改めとは、180度生き方が変わること。
悔い改めは、真の神との個人的な出会いによってはじめて起こるものでもあります。頭で、いけないことだと認識して、悔い改めます。というのも、いいことですし、スタートラインとして素晴らしいことです。でも、遅かれ早かれ、もしその心が本気なら、神様とばちっと目が合う体験をするのです。もうそうなったら、古い生き方でいられないのです。自分が神に見られる=自分がどういう人間かはっきりわかる。神の瞳に映る自分を見る。自分を知って初めて神の偉大さが分かる。。。
〇この箇所は、諸説あります。キリストの十字架の死と葬りと復活の三日間のよみがえりを預言的に暗示していて、神の赦しを強調しているのではとも取れますし、また、民が、早く私たちの現状を変えてください。神様なら、一瞬で私たちを赦して何とかしてくれるはずだという何ともお気軽な、他力本願で言っているも取れるわけです。
私たち、クリスチャン生活もこの二つの狭間を行ったり来たりすることもあるのではないでしょうか。
神様の赦しとそこからくる回復を当たり前のように、くださいくださいと叫んでいる。神様には確かに、なんでもおできになります。祈りはどんな祈りでも必ず聞かれます。クリスチャンの祈りでなくても、神様に祈るなら、聞かれます。神様は、そのようにとっても忠実、誠実な方です。
その神様が求めているのは、私たちの心です。
★エフライムの朝もやのような誠実 v4-6
4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
神の誠実さにマッチする誠実さは、この民にはなかったようですね。朝もやのようだとあります。朝湧き上がるけど、すぐに消えてなくなってしまようなものだというのです。口先だけの悔い改めとはそのようなものです。
何か、かなえて欲しい願い事があるときに、妙に熱心に教会に足を運んだり断食祈祷院に行ったりすることがあります。私も、その経験はあります。道が閉ざされている時、道が見えない時、よく断食祈祷院に行きました。一週間、祈り詰めました。しかし、いつもいつも教えられることがありました。それは、形ではなく、心だということでした。そして、その心があるなら、何がなくても大丈夫だということでした。
〇神の誠実Mercy -- ヘブル語の「ヘセッド」checedの本来の用法は、「契約の両当事者が互いに他方に対して守るべき忠誠と誠実の態度をあらわすこと」にあります。
日本語では、憐れみとありますが、契約に基づく誠実さというのが、本当の意味でした。私たちも結婚の時に誓いの言葉を交わし、結婚関係に入ります、毎日、その時の言葉通りに行うことで、約束を互いに果たしています。ちょうどそのような誠実さを神様は、私たちに求めているのであって、宗教儀式を求めていないというのです。約束は、行動がなければ、意味がない。。。のです。
〇信仰のなさ…神は、契約を必ず守られる誠実な方であるということを信じること、ここに私たちの力があります。たとえ、道が見えなくても、例え、道が閉ざされていても、神は生きていて、神は信じる者には必ず答えてくださる方だと揺るがない信仰を持つこと、これが、いけにえにまさる、私たちの誠実なのです。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。For I desire mercy and not sacrifice, And the knowledge of God more than burnt offerings.
宗教的になることでも、善行を積むことでも、なく、私たちの神の契約に基づく信仰が神を何よりも喜ばせるのです。
★悔い改めの実のない民 v7-11 忍耐のなさ
7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
神ご自身を信じないで、「一瞬で神によって状況が変わることを信じて」いた民は、口の根の乾かないうちに、もう、契約をやぶり、うらぎり、人殺し、姦淫をし、身を汚しているというのです。
口先だけきれいなことを言って、行動が伴っていない民。みなさん、私たちの信仰には、必ず行動が伴います。信仰と誠実は行いに現れることを私たちは忘れてはいけない。私たちは、心で信じているとおりに行動をするのです。
〇忍耐のなさ
イエスラエルの民は、神の手の下でしつけられる忍耐がありませんでした。みなさん、人は変わるには、体に染みついた癖と自分が戦ってその都度、神を選んでいくというプロセスが必要ではありませんか。この民は、そのプロセスの元で、じっと自分の罪深い心根に忍耐することができなかったのです。自分の汚さとエンゲージして押し問答して、毎回神に勝利していただく、という忍耐がなかったのです。「一瞬で神によって楽な状態にしていただけることを信じていた」のですから。
本当に悔い改めた人には、行動が伴います。心根が変わるので行動が変わるのです。しかし、行動を通して周りに分かってもらえるには、時間がかかるものです。みなさん、このプロセスを大切にしましょう。家族や、友人、親しい人に神様のすばらしさが伝わるのは、悔い改めの実を通してです。時間がかかろうと、神様を信じて、実を結ぶことを目指しましょう。
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