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ぼくしのめがね

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最近の風景

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なぜだか、シアトルセンターの二... なぜだか、シアトルセンターの二本の木に、バナナがなっています。。。うーーーーん。なんだろ、これ。。。。 木曜日の子供クラスーーお友達と... 木曜日の子供クラスーーお友達と遊ぶの楽しいなー かわいいちゃん、すっかりお姉ち... かわいいちゃん、すっかりお姉ちゃんになって、ほっそり。。。 日曜日の礼拝後、いつまでも遊ん... 日曜日の礼拝後、いつまでも遊んでいたい、女子たち。。。。 12/3 は、ケビンさんの誕生... 12/3 は、ケビンさんの誕生日。いつも、美味しいランチを教会のために作ってくれます! ありがとうー 最近の風景 子供たちも、楽しくランチをして... 子供たちも、楽しくランチをしています。。。毎週12:30pm からランチですーーみなさんも来てくださいー
今日は、エリックがメッセージをしました。

たくさん個人の経験を交えてのお話しで分かりやすかったと思います。

良かったわーー。

シアトルは、雪が降りそうです。

山に近い地域ではすでに降っているそうで、
明日の学校がどうなるか気になっている方もちらほら。。。

どうりで寒いはずです。

日本も、東京で雪が積もっていましたね。

もう、気温はいつも通りにもだったのでしょうか。

師走、忙しいですが、
みなさんの健康が守られますように。

#キリスト教 #ブログ #子供たち #教会

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ローマ九章  神の選びの不思議

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私のメンターのキャリー牧師の礼... 私のメンターのキャリー牧師の礼拝している姿。麗しいです。先週は、入院されて、とても心配しました。いつまでもお元気でいてほしいです。。。。
2016年11月26日日曜日礼拝音声は、下をクリックしてくださいー


前回は、八章で、御霊に生きるという素晴らしい、何にも勝利できる道があるのだということをパウロは話しました。今週は、九章で、それにあずかっていない、同胞イスラエル人について、パウロは語っています。

★ パウロの心の苦しみ

ローマ9:1-3
私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。I tell the truth in Christ, I am not lying, my conscience also bearing me witness in the Holy Spirit, 2 that I have great sorrow and continual grief in my heart. 3 For I could wish that I myself were accursed from Christ for my brethren, my countrymen according to the flesh,

○エンパシー共感について

sympathy = syn (共に) + pathos (苦しみ) [感情共鳴]
empathy = en (内部へ)+ pathos (苦しみ) [感情移入]

sympathy はその人と一緒に悲しむことですが、empathy は、その人の心の内部へ入って、その人の苦しみを自分の苦しみとして悲しむことです。

ちょうど、イエス様が「この小さい一人にしたことは、わたしにしたのです。」と例え話中でされてますが、(マタイ25)イエス様は、私たちの日ごろの状態を自分のこととして、飢え渇き、憂い、とりなして祈っていてくださる方なのです。
パウロもまた、自分の同胞に対して、大きな悲しみ、絶えない痛みがある。自分が代わりに地獄に行ってもいいほどに、その同胞の救いのための願いと祈りが溢れています。

私たちが、共に感じる、伝道したい相手の痛みと一体化するところに、何かブレイクスルーがあるように感じてなりません。それが、イエス様のしてくださったことだからです。私たちは、日ごろ祈っている人のことに対して、どれほどその人と一体化しているでしょうか。この章のはじめに、パウロが大きなチャレンジをくれたと思います。

v4,5 栄光も、律法も、礼拝も約束も彼らのものです。先祖たちも、キリストさえイスラエルから出てるのに、それなのに、なぜ、イスラエル人がみな救われないのか。。。。。

★ イスラエルとは

ロマ9:6-7
しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
But it is not that the word of God has taken no effect. For they are not all Israel who are of Israel, 7 nor are they all children because they are the seed of Abraham; but, “In Isaac your seed shall be called.”

パウロは、しかし、同胞イスラエル人が救われていないからと言って、神の言葉が無効になったのでも、意味がなかったのでもない。。。と主張しています。
信仰によってそもそもイスラエル人となるのであって、血統ではない。肉の子供ではなく約束の子供でなければならない。自動的にはなれない。というのです。

○約束の子と肉の働きの子

アブラハムの例では、アブラハムは、神様から子孫の約束を受けたけれども、待ちきれなくて、セラとの間ではなくと他の人との間に子供をもうけました。しかし、それは、肉の働き、自分の働きであって、神の約束の子ではありませんでした。私たちは、自分の肉の力によって、神の計画を実現しようとしていまう、肉の強い働きを宿して生きています。

また、その態度がイスラエル自身の態度でもあります。一生懸命、自分で義を達成していこうとする、律法を肉の行いで満たそうと必死になってる。そこには救いがないのです。

約束を待ち望み、約束のものに気が付き、それを受け取らなければならないのです。

★ 事は憐れんでくださる神による

では、約束ってなんなの? ということになります。みんながみんな受け取れる約束ではないのか? という質問が出てきました。

ロマ9:16-17
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy. 17 For the Scripture says to the Pharaoh, “For this very purpose I have raised you up, that I may show My power in you, and that My name may be declared in all the earth.”

神は、私たちの知恵を越えた知恵で、選びをもっていらっしゃる。ちょうど、陶器師が器をいろいろな用途のために作り分けるようだという。そんなのフェアじゃない。とあなたが言おうが、造られたものが造り主にたいして偉そうに言えることではない。。。とあります。(v19-22)

「親分は、イエス様」という本や、映画が日本にはありますが、本当のお話しで、やくざがイエス様に出会って変えられてく。という話しです。また、クリスチャンの家に生まれていても、イエス様に出会わない人もいます。また、ユダも、もしかして、死ぬときにはイエス様に悔い改めて救われていたかもれませんが、彼もイエス様に選ばれておきながら裏切りました。そして、彼がいたからこそ、イエス様は十字架にかかりました。エジプトの王パロも神様がその心をかたくなにしたので、10の奇跡合戦をモーセとし、その神の名が高らかに世界中に証しされました。

すべて造り主のためです。たとえそこに、悪い器と見えるものがあっても、それを忍耐を持つての神様がゆるしておられるのです。

★ あなたも憐れみの器として召されている

ロマ9:24  
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
23 and that He might make known the riches of His glory on the vessels of mercy, which He had prepared beforehand for glory, 24 even us whom He called, not of the Jews only, but also of the Gentiles?
神様は、選びの民イスラエルを差し置いて、律法も礼拝も知らないような、今や、私たちのような遠い国の民族に届いてくださって。こんな私を憐れみの器として召してくださったのです。

不思議なことです。

あなたに、神の栄光を示し、そして、神の御名を世に知らしめるためにあなたは、召されているに他ならないことを覚えておきましょう。当たり前のように、また、何か自分が達成したかのように思わないようにしましょう。

事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。So then it is not of him who wills, nor of him who runs, but of God who shows mercy.

ですから、選挙のことでも、心を騒がせないようにしましょう。どちらになっても、神の御心がすでにはたらいているのです。

★ イスラエルの躓きの石

ロマ 9:31-33 
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」but Israel, pursuing the law of righteousness, has not attained to the law of righteousness. 32 Why? Because they did not seek it by faith, but as it were, by the works of the law. For they stumbled at that stumbling stone. 33 As it is written: “Behold, I lay in Zion a stumbling stone and rock of offense, And whoever believes on Him will not be put to shame.”

   イスラエルは、イエス様が分かりませんでした。約束を待ち望んでいましたが、約束を見出せませんでした。それは、「行い」すなわち、律法、肉の働きに、とらわれていたからです。イエス様という恵みによって、行いからも解放する、救い主がかえって彼らの躓きの石となってしまったのです。ケニーさんが先週話したように、イスラエル人は、イエス様にすっかり気を悪くしてしまったのです。。

今日三つのこと、覚えてください。
① パウロやイエス様のような、エンパシー共感を持つこと。
② あなたは、神のあわれみの器として選ばれていること。
③ 「行い」にとらわれるのでなくて、約束を信じる信仰に生きること。

来週は、エリックがメッセージですが、その次は、神の選びに対して、私たちの側の選択についてお話ししたいと思います。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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かわいい一コマ

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礼拝中、ワーシップをしていたら... 礼拝中、ワーシップをしていたら、子供たちが前に自然に集合。しずかに一緒にワーシップリードをしました。笑。。。。
子供は、大人の真似をしながら育つんですね。。。
神様の臨在も肌で感じてきたかなー?
礼拝後、今週から、クリスマス会... 礼拝後、今週から、クリスマス会の歌の練習をしています。
みんな上手に振り付けできました。
小さいちゃんは、さすがにすぐうろうろして、写真からいなくなってます。まだ二歳にもなってないですからねーーー。クリスマスが楽しみですーー

今週は、ケニーさんがメッセージをしたので、ノートがありません。

#ブログ #子供 #教会 #日曜日 #礼拝

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ロマ八章 いのちの御霊の原理

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先週は洗礼式がありました。中国... 先週は洗礼式がありました。中国人の方が二名。。中国では、キリスト教信者が急激に増えていて、すでに求めている人が多いです。不思議に教会に引き寄せられてきたこのお二人は、お友達やお母さんもクリスチャンだったそうです。 トレーダージョーズはすでにクリ... トレーダージョーズはすでにクリスマスモード。おいしそうなトリートがたくさん並んでいます。もうすぐ感謝祭。もうすぐクリスマスです。アメリカはホリデーシーズンです!
2016年11月13日日曜日礼拝メッセージ音声は、下

先週は、クリスチャンに対してのパウロのメッセージ律法に対しても死ななければならないことを話しました。今日は、続きで、それよりも素晴らしい道、生き方を神様が用意してくだった。御霊によって生きることをお話ししたいと思います。

ロマ8章

★罪と死の原理から御霊の原理へ

ロマ8:1-2
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus, who do not walk according to the flesh, but according to the Spirit. 2 For the law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death.

先週からの言葉を受けて、私たちは、キリストによって罪に定められることが決してないこと。また、いのちの御霊の原理が私たちを解放したとあります。
どんなにがんばっても、神を喜ばし、律法を全うできない。良い人間に自分の力でなれないこと。。先週見ていきました。

★御霊の中にいる

ロマ8:8-9
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。So then, those who are in the flesh cannot please God. 9 But you are not in the flesh but in the Spirit, if indeed the Spirit of God dwells in you. Now if anyone does not have the Spirit of Christ, he is not His.

肉の働きは、神を喜ばせることができません。肉が生きている限り、何も良いものが出てこないのです。

御霊の原理は、このように説明できます。人間のどんな優れた肉体の能力を使っても走って飛んで、2m45 が最高記録。それだけ飛べたら金メダル。世界一の身体能力の飛び能力。これが、肉の働きの限界。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんでも、飛行機に乗るなら、7620m の高度を肉体の努力なしで飛べます。
あなたの能力、手腕、頑張りはいらないのです。赤ちゃんでも飛行機に乗ったら飛べるんです。あなただって、御霊の中にいれば、高く飛べるのです。どうやって乗るのですか? How? Why? という質問が心にわいたら、いつもこの答えです。信じることです。信仰によってその飛行機に乗るのです。自分で何とか乗ろうとすればするほど乗れません。

★御霊の人の祝福と希望

この章を読んでいるとたくさん希望の言葉が出てきます。とても励まされます。

○神の子とする

ロマ8:14-16
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God,

今までは、罪の奴隷であり、律法の奴隷であり、自分のしたいことができない状態でした。しかし、御霊の人は、神の子だというのです。そして、御霊ご自身が証ししてくださるというのです! 自分で頑張ってそれを証明しなくてもいいのです。先週の話しではありませんが、クリスチャンらしく、聖霊の九つの実を結ぼう結ぼうとしても結べるものではないのです。むしろ、あきらめて肉が死んだ方がいいのです。

○被造物も待ち望んでいる

ロマ8:18-19
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 For I consider that the sufferings of this present time are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed in us. 19 For the earnest expectation of the creation eagerly waits for the revealing of the sons of God.

私たちのこの天地は、やがてその時が来るとき、神様によって新たにされます。完全な回復がこの地にやってきます。これも、すべて、神の子たちの現れにかかっているのです。御霊の人が満ちることを被造物も待ち望んでいるのです。待ち望むというのは、希望を持っていると訳してもいいでしょう。希望は、将来の夢を描いてそこに日々向かうことであります。私たちは、希望のトラックを今走っているのです。苦しみについてパウロは言及していますが、人生世の中苦しみはつきものであるし、キリスト者として苦しみも未信者の時よりも多いのは事実です。しかし、苦しみと希望がいつも背中合わせであることをパウロは指示しているのではないでしょうか。

○御霊のとりなし

ロマ8:26-27
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。Likewise the Spirit also helps in our weaknesses. For we do not know what we should pray for as we ought, but the Spirit Himself makes intercession for us[b] with groanings which cannot be uttered. 27 Now He who searches the hearts knows what the mind of the Spirit is, because He makes intercession for the saints according to the will of God.

私たちは、苦しみの中で、もう自分の力も限界だ。力も根気も尽きた。祈って神様にすがる気力さえないという時があります。そんな時であっても、内にいらっしゃる御霊が私たちのいいようのない祈りをよく知り、とりなしてくれているというのです。しかも、みこころに従ってとあります。なんということでしょうか。

○すべてが益とされる

ですから、例えあなたが祈る気力さえ失っても、御霊様は必ずあなたの苦しみをも益に変えてくださるというのです。

ロマ8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。And we know that all things work together for good to those who love God, to those who are the called according to His purpose

また、誰も御霊の中にあるならば、誰も私たちに敵対できるものはいないとあります。

○誰も敵対できない

ロマ8:31
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。What then shall we say to these things? If God is for us, who can be against us?

また、すべて私たちに必要なことは与えられると書いてあります。御霊の中にあると信じられるなら、私たちは、7000メートル以上上空を飛べると信じれますよね。それなら、続くみ言葉もしっかりと心に受け止められるでしょう。

○すべての恵みがある

ロマ8: 32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。He who did not spare His own Son, but delivered Him up for us all, how shall He not with Him also freely give us all things?

○神の愛から離すものは何もない

ロマ8:37-39 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。37 Yet in all these things we are more than conquerors through Him who loved us. 38 For I am persuaded that neither death nor life, nor angels nor principalities nor powers, nor things present nor things to come, 39 nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.

何とかして神を喜ばせなければという肉の思いから、もうすでに神にとらえられ。愛の中に守られているという飛行機に私たちは、乗らなければなりません。ジャンプして到達しようという肉に死ななければなりません。いつも聖書の答えは一つです。How? Why? と心に浮かぶときは? 何ですか? 信じることです。今日、イエス様を信じて、この素晴らしい御霊の中に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ロマ七章 絶望的な自分を知ること

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新しくできた、サウスレイクユニ... 新しくできた、サウスレイクユニオンのCafe Zoka の中。。。コーヒーは、相変わらず美味しかったです。中は、すごく意外でした。他のZoka はなんだか落ち着く木の家具や大きなカウチがあるんですが。。。アマゾンのビルの中にあるからからなー? イメージが少し違ってました。
2016年11月6日日曜日礼拝メッセージ




先週、ローマ書六章では、罪に対して死ぬこと、キリストに継ぎ合わさせて恵みの支配下に行くことを話しました。今週は、有名なローマ書七章です。ある人は、どうしてこの順番にこの章が来るのか。。。と思うそうです。五章と六書の間に来ればいいのに。。。と思うわけです。どうしてでしょうか。。。。

ロマ7: 1

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか—私は律法を知っている人々に言っているのです。—Or do you not know, brethren (for I speak to those who know the law), that the law has dominion over a man as long as he lives?

★律法と私の関係

先週は罪と死のことでしたが、今週は律法です。パウロは、初めに、これは、律法を知っている人に対して言っているのですよ。と但し書きしています。そうです。これは、未信者ではなく、むしろキリストの死に継ぎ合わされたクリスチャンの葛藤のことを言っているのです。

続く二節からは、結婚関係に例えて話しています。
完璧な清い夫が重箱の隅をつつく。夫は完璧だが、私がついて行けない。。ちくちくつつかれることから解放されるには、夫が死ぬか、私が死ぬかしかない。。。という、結婚関係にたとえています。しかし、死を経験するなら、律法と別れて、新しい恵み・御霊という夫と結婚し幸せになれるというのです。

律法と私たちの関係もそうです。「天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」For assuredly, I say to you, till heaven and earth pass away, one jot or one tittle will by no means pass from the law till all is fulfilled. (マタイ5:18)と聖書に書いてある。切っても切り離せないのです。人間のために与えられた律法は、天地の終わりまで堅くたつのです。

★律法の役割

ロマ7:7-8 

7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさごりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。What shall we say then? Is the law sin? Certainly not! On the contrary, I would not have known sin except through the law. For I would not have known covetousness unless the law had said, “You shall not covet.” 8 But sin, taking opportunity by the commandment, produced in me all manner of evil desire. For apart from the law sin was dead.

これは、未信者の葛藤ではない。むしろクリスチャンの葛藤である。私たちは、クリスチャンになる前よりも、なった後の方が罪に対して敏感であり、律法に対して注意深い。クリスチャンになった後の方が、どれだけ自分が罪深いかよく理解できるのである。
律法に照らし合わされなければ罪は分からない。律法に従おうとし、聖くなろうとするから、罪が分かり、自我に死がもたらされるのです。ですから、律法は、罪ではなく、律法は、私たちを成長させる養育かかりであり、良いものです。善人の良い夫なのです。

★内なる葛藤

キリスト者の純粋な願いは、聖くなることではないでしょうか。私は、キリストによつて救われた、だから、キリストに従っていきたいと思うのは、当然であり、自分から罪を犯そうとは、先週のお話の通り、思わないのです。
もっと、キリストのように、もっと神様に喜ばれる子になりたいと思うのです。
律法は、正しくて良いことをすることであるから、大いにしたい。自分を殺すことなく、生きたまま、律法を行い、聖なる神様の基準に合う生き方をしようと頑張るわけです。

ロマ7:15 
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。For what I am doing, I do not understand. For what I will to do, that I do not practice; but what I hate, that I do.

ロマ7:18 
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 For I know that in me (that is, in my flesh) nothing good dwells; for to will is present with me, but how to perform what is good I do not find.

ロマ7:22-23 
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。For I delight in the law of God according to the inward man. 23 But I see another law in my members, warring against the law of my mind, and bringing me into captivity to the law of sin which is in my members.

しかし、やろうとすればするほど、できないとパウロは、その苦しみをあらわにしています。律法を愛し、書かれている通りにしたいが、自分の内なるところに違う律法が働いていて、何をしても空回り。。。と。

私も、若いクリスチャンのころ、頑張りました。自分の理解の限り、人を愛そうとしました。やればやるほど、裏目に出ました。自分が浮き彫りとなりました。愛することと、人を甘やかすことを混同しました。従順になることと、人を恐れることと混同しました。律法に従おうとすればするほど、自分の中にある律法が反応し、神様の意図している働きができないのです。どうしたら、神様に完璧にしたがえるのか。完全に律法を守れるのかと、ああでもない、こうでもないと祈り、試し、真剣に取り組みました。断食もし、聖書も読み、伝道も熱心にし、たくさんの信仰書も読みました。

私は、川で溺れかけたことがありますが、まるで、それは溺れる人のようです。もがけばもがくほど助からないものです。川と海は怖いです。。。海でも、去年も今年もバケーションで、エリックと私ともども、溺れかけました。怖かったです。。。まるでこの苦しみは溺れている人のようです

★絶望と死

パウロは次のような結論に行きつきます。

ロマ7:24-25

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
O wretched man that I am! Who will deliver me from this body of death? 25 I thank God—through Jesus Christ our Lord! So then, with the mind I myself serve the law of God, but with the flesh the law of sin.

結局この罪の体から。。。。に行きつく。絶望に至る。一体私の内に何の良いものがあるというのだろうか。。。と

その境地に至らなければ、分からない自由がある。

溺れている人を元気な人が助けに行っては、いけません。溺れている人が元気なので、必死でしがみつかれ、もがかれ、助けに行った人ともども溺れてしまいます。溺れている人が力つきなければ、その人を水に浮かせながらスムーズにレスキューできないのです。

私たちは、罪に対してでだけでなく、律法に対しても死ななければならないのです。良いことのためにさえ、自分の力で生きることができない自分についてよく知らなければならないのです。

私の恩師がよく言いまた。「働き人は、情熱ばかりのものは、使い物にならん。情熱有り余って、わーっと走り、壁にばしーんとぶち当たり、ばたんと倒れる。その倒れた地点が一番いい塩梅なんだ。」と。

★新しい御霊によって仕える

ロマ7:6 

しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。But now we have been delivered from the law, having died to what we were held by, so that we should serve in the newness of the Spirit and not in the oldness of the letter.

パウロは、律法に対しても死んだ人についての、ヒントを少し、七章のはじめの方で話していました。新しい御霊によって仕える道があるのです。罪にも、律法にも死んで、御霊に生きるみち。来週はそのことをお話ししましょう。


クリスチャンに時々足りないのは、自分の罪・弱さを認めることかもしれないですね。自分を知ること。自分がどれくらい罪深いものであるかということ、それは、真剣に神様に従ってみないと分からないことでしょう。真剣にやってみて、失敗し、そして、自分に絶望する。自分に愛想が付かさなければ、本当の意味で自分を愛し、神を愛することはできません。

とりあえず、今日。おきざりにしている課題に取り組みませんか。家族の救いですか? 誰かと仲直りすることですか? 毎日聖書を読むことですか? 祈ることですか? 一日一善することでしょうか?  なんでもいい、神の聖さのために、従順してみましょう。思い切りやって絶望しましょう。

#キリスト教 #クリスチャン #教会 #聖書

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ロマ書六章 キリストに継ぎ合わされて

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今日は、かわいいちゃんのおじい... 今日は、かわいいちゃんのおじいちゃんが日本から訪問されていて、教会にも来てくれましたーー。しかし、お若い!!
今日は、子供たちは、帰国中や風邪で、かわいいちゃん姉妹たちだけでした。。。寂しそうでしたーー。また、早くみんな元気になって教会で会いたいね!
2016年10月30日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Kf4IqxH_bP0

聖書箇所 ロマ6:1-14, 23

五章では、信仰によってもたらされる義、そして、義がもたらす平和、喜び、栄光について話しました。今日は、続いて六章を見ていきましょう。

★ 恵みのためにもっと罪を犯すべき?

V1-2  1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。What shall we say then? Shall we continue in sin that grace may abound? 2 Certainly not! How shall we who died to sin live any longer in it?

五章の終わりの方に、罪が増し加わるところに、恵みも増し加わるのなら、もっと罪を犯しましょうという人たちがいるのに対して、そんなことは絶対にありえない。とパウロが言っています。

この章後でパウロが、罪の奴隷と神の奴隷という表現を使っていますが、どちらかに属する道しか私たちにはないのです。ですから、恵みのために罪を犯そうという論理は存在しないのです。なぜなら、そもそも、キリストを信じることとはどういうことでしょうか。またどんな変化をもたらせたのでしょうか。

★ バプテスマ・洗礼とは?

V3- 6 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています
バプテスマ、洗礼式を見たことがありますか? バプテスマとは、浸されること。実際に水の中に全身を浸します。イエス・キリストを信じて生きていきますという、人の前にも神の前にも宣言する式。入学式であり、お葬式でもある。4節にあるように、バプテスマは、水の中に完全に入っている時を死とみなし、水から上がるときを復活、新しい命で生きることを表しています。

キリストの死と葬りと復活を水を通して体験し、信仰を公にします。
ここで大切なのは、5節にあるように、キリストに継ぎ合わされることです。継ぎ合わされるとは、どういうことでしょうか。
○ 継ぎ合わされる, planted together; スンフートスsoom'-foo-tos (ギ) …born together with, of joint origin, connate

一つとされることです。接ぎ木をされているようなものですね。根っこが同じ。同じものとされることです。

キリストの死と継ぎ合わされ、キリストの復活と継ぎ合わされることで、新しく生きられるというのです。

○ V6 罪の奴隷でなくなるため。

奴隷とは、鎖につながれて、自分の自由がありません。自分の意思に関わらず、働かなければなりません。罪人というのは、調度そのようです。頭では、してはいけないことと分かっているのにも関わらず、やってしまうのが罪ではないでしょうか。まるで奴隷のようです。

★ 死ななきゃ治らない?   
   鍵は信仰 信じること。人は信じていることしか行動に移せない

V7-10 7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

「馬鹿は死ななきゃ治らない」ということわざが日本にありますが。英語では、the only cure for a fool is death; once a fool, always a food と言えますが。罪を犯す性質というのは、人間が生きている限り無くなることはないのです。それこそ、死ななきゃ治らないものであります。

罪をやめるということは、人間をやめるしか道がないのです。神様の標準を満たす清さというのは、人間では到達できないのです。先日その暴言が取り上げられた尼さんがいましたが、どんなに修行しても死ななきゃ治らない性質っていうものがあるのです。

私たちは、死ななきゃいけないのです。しかし、私たちがしなくてもいいように、キリストが私の身代わりに十字架で死んでくださったのです。私は、どうやって死んだらいいのでしょうか。それは、自分の罪がキリストの十字架で一緒に死んだことを信じることです。

古い人…生きている自我・キリストとともに死んでない内なる人  これが私たちに葛藤を与え、他人に不快を与えます。

信仰による死がもたらす利益

○ 復活がある … みなさん、死ななければ、復活がないのです。あなたの自我、決断、判断、ジャッジをするところが、生きていては、復活がないのです。あなたは、自分に死んでいますか?

○ 感じなくなる … 生きている人は、痛みがあります、いらいらします。いろいろと思い悩みます。しかし、死んだ人には、そんなことがありません。何も感じなくなるのです。例えば、あなたをいらいらさせる人がいるとします。あなたは、相手のここが悪いあそこが悪いと、自我を用いて相手を裁き、余計にイライラします。死んでいないのです。死ぬことは、自分の自我がキリストの十字架の上にあることを認めることです。
そんな、馬鹿な。。。どうやって。このイライラがなくなるの? と思うかもしれません。
聖書のHow? は、いつでも、信仰です。信じることです。
あなたの古い罪の性質が十字架で死んだことを信じることです。

人は、自分の信じている通りにしか行動しません。あなたが、自分が生きていると信じているのに、キリストとともに生きることはできないのです。
死が無ければ復活がないからです。

★ 律法の下ではなく、恵みの下に! 鍵は信仰

V11-14 11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。.

キリストの十字架の死と葬りと復活と継ぎ合わされた人は、自分から好んで罪を犯そうという発想がなくなります。罪を犯す、古い人・生きている自我に対して気が付いていて、罪に対しても死んでいるのです。また、罪を自ら犯すことを信じてないからです。そして、今までは、罪の支配の中にいて、律法の支配の下にいたのが、恵みの下に移されていると14節にあります。

律法の下というのは、あなたがすることなすこと、律法に照らし合わされて、裁かれる世界です。これもできてない、あれもできてない、できるようにならなければと私たちを急き立てるものです。しかし、恵みの支配とはなんでしょうか。

恵みとは、私たちに必要な力を与えて、神のために生き、神の御心に沿って生きることができるすべての能力が与えられることです。超自然的な力が与えられることです。罪の奴隷から解放された人は、恵の支配が約束されています。

今日、どれくらいの人が、この恵みをあてにして生きているでしょうか。ここに期待して、かけて生きているでしょうか。
もう一度いいます、死んでいる人でないと、恵みの支配下にいないのです。両方に足を突っ込んで生きる道は存在しないのです。

★ 神の下さる賜物

V23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.

続いて、罪の支配の至る道は、死であり、キリストに継ぎ合わされた人の道は、永遠のいのちに至ると続きます。

ここに、「神の下さる賜物」は、とあります。いのちに至る道の生き方は、神様からのプレゼント、贈り物であって、あなたが労苦して稼ぐものではありません。このプレゼントは、信じることから始まります。そして、死ぬことを通して、復活の命にあふれさせます。死ぬことを通して恵みに満ち溢れさせます。

あなたの自我は、今日どこにありますか? 悩み、もがきがありますか。キリストの死と復活に継ぎ合わされましょう。恵みの支配に入りましょう。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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パンプキンパーティ!!! Fun, Life and Light!

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パンプキンカービングをしました... パンプキンカービングをしました。みなさんの完成品。なかなか凝った方もおられました。今年は、人数に比べてカボチャの数が少なかったなぁー こちらは、キティちゃん! こちらは、キティちゃん! キティちゃんを作ったアリエル姫... キティちゃんを作ったアリエル姫とみなさんの作品。。。。 Shine, Jesus, S... Shine, Jesus, Shine を歌いながら、火のともったかぼちゃを暗いなかで楽しみました。綺麗だったですー いつも、パンプキンくんのお話し... いつも、パンプキンくんのお話しをしながら、カボチャの掘り方の説明をします。このストーリーが結構ハートウォーミングなんですよねぇ。。。。キリストの福音が盛り込まれていますーーーー フレンチセーラーふんするご主人... フレンチセーラーふんするご主人と子供さんは、なんだっけ。もぐら? めちゃかわいい赤ちゃんでした。ご機嫌ですーーお昼寝も忘れちゃって楽しみましたよー おお。小さいかぼちゃをレースの... おお。小さいかぼちゃをレースのように彫ってとても美しいアートを作ったグループ! 子供たちも頑張ったーー この小さな姉妹は、去年のかぼち... この小さな姉妹は、去年のかぼちゃコンテストの優勝者と準優勝者です。とってもクリエイティブな二人です。大きくなったなー 夫婦で真剣に取り組む絵。いいで... 夫婦で真剣に取り組む絵。いいですね。無心になって何かをすることは! 見てください、この真剣な顔。い... 見てください、この真剣な顔。いいですねーー 赤ずきんちゃんと赤ちゃんの対面... 赤ずきんちゃんと赤ちゃんの対面。。。ママたちも少し、社交と憩いのばにホッとしていただけたかな?
先週の土曜日、毎年恒例の秋のパーティを催しました。

43名の方々が集われ、大変楽しく過ごしました。

教会では、ハロウィンはやりません。
悪魔的なので。。。

でも、その代わりに秋を楽しみ、明るい会となりました!

子供たちも大人も真剣にかぼちゃに取り組み、素晴らしい作品ができましたーー

また来年も持ちますので、ぜひお越しください!

#キリスト教 #ハロウィン #ブログ #子供たち #教会 #秋

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Speaking in Tongues 異言の祈りについて

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日曜日は、ゆきくんの18才の御... 日曜日は、ゆきくんの18才の御誕生日をお祝いしました。
教会にきだしたころは、8歳か、9歳くらいだったかなぁ。。。。可愛かったことを覚えていますが、こんなに立派な大人になりました。ハレルヤ。神様感謝します! 教会のみなさんで祝福のお祈りができました。これからも、素敵な男性に育っていきますように。。。。
この日曜日は、初めて、エリックがメッセージをしました。

23 Oct 2016日曜日礼拝メッセージ

Eric’s Story of Speaking in Tongues. エリックの体験談
Holy Spirit gives us the ability to speak in other tongues: 
聖霊様が私たちに異言で話す能力を下さる

Acts使徒 2:1-4
“And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place. 2 And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sittng. 3 And there appeared to them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them. 4 And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.” 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

① Unity 一致について

I also love the encouraging words of the Apostle Paul on the subject.パウロはまた言いました

1 Cor.コリント 14:18
“I thank my God, I speak with tongues more than ye all.” 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、

② Don’t strive 自分の努力によらない

Ps. 詩編46:10 “Be still, and know that I am God…” 
“let go and let God” あきらめて、神様にしてもらうこと


③ Edifying yourself 自分の徳を高める

1 Cor. コリント14:4 “He that speaketh in an unknown tongue edifieth himself…” 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

④ Intercession とりなし

Rom.ロマ8:26
“Likewise the Spirit also helpeth our infirmities: for we know not what we should pray for as we ought: for the Spirit itself maketh intercession for us with groaning which cannot be uttered.”  御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

It is a supernatural solution to natural problems. 自然界の問題に対する超自然的な解決が与えられる。

⑤ Mind doesn’t bear fruit; 知性は実を結ばない

1 Cor.コリント14:2
“For he that speaketh in an unknown tongue speaketh not unto men, but unto God: for no man understandeth him; howbeit in the spirit he speaketh mysteries.”もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。

“Could you not spare one Hour?” 一時間もできないのか?
という、ムーブメントが昔ありましたが、
異言の祈りなら、いつでもどこでも、いくらでも祈ることができます。




#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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イエス様からの招き デレック・ブラウン

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すっかり秋のシアトルです。お友... すっかり秋のシアトルです。お友達が朝とった写真です。
美しいシアトル。。。。
先週来週は、ずっと雨ですが、これもシアトルらしい。
木の葉もすっかり紅葉して、雨と風で道は絨毯のようになっています。。。
ヨハネ21章1-14節

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

今日は、イギリスから、デレック・ブラウン先生をお迎えしての合同礼拝でした。ですから、今日は、日本人教会はありませんでした。ブラウン先生のメッセージは、次の通り

I am.

旧約聖書で神様がご自分の名前を、「わたしは、ある」と紹介されましたが、神様は、I am. であると今朝協調しておられる。

イエス様は、昨日も今日も明日も同じ。しかし、昨日の油注ぎは、昨日のものであり、今日は今日でI am. と言うお方がともにおられるのです。

今朝、ここにイエス様が来られたらどんなだろう。。。。本来イエス様中心の教会であるはずなのに、教会は宗教的になりすぎて、I am. であるお方を見逃している。

ヨハネ21章の一節に、英語では、the morning comes there stood Jesus. その後、朝が来て、イエスがそこに立っておられた。とある。

今日皆さん、朝ここに来られて、どんな気持ちでここに来たかしりませんが、いろんなことがあり、いろんな思いを引きずりながら来たことでしょう。しかし、それでも、朝がくる。そして、聖書は、そこにイエスがおられたと書いてあるのです。

聖書は、「夜に涙を流しても、朝には喜びがある」とあります。また、「神の恵みは朝毎に新しい。」とあります。ヨハネ21章も、いろいろなことの後に、この朝が来ました。キリストの癒し、みわざ、弟子たちの召し、ペテロの裏切り、イエス様の十字架の死、イエス様は、自分が生きていることを四十日間人々に現され、示されました。復活を信じない人たちに現れました。

ルカの15章で、何もかも捨ててきたという弟子たちに、これからは人をとる漁師になると約束されました。

あなたも、そうだ、そんな約束もあったものだ。あんな夢ももったものだと思うことがあるかもしれない。。。

ペテロは、どうしていいかわらなかったので、昔なじみの漁に出ることにした。そして、他の友たちもついてきた。

皆さん、いいですか、この朝、イエス様はご自分を表されたのです。すべては、イエス・キリストなのです。
いいワーシップでも、教会でも、いいメッセージを聞くことでもないのです、イエス・キリストです。キリストに関することであります。

ペテロは、漁にでました。彼は、自分の召命に対して、迂回をするようにして漁にでました。そこには、絶望と、自分に対する失望があったからです。
そして、漁に出てても、昔からなじんだ仕事であっても、何もとれなかったのです。一匹もです。
私たちも、よくなれている仕事があるでしょう、癒しのミニストリーでも、預言でも、牧会でも慣れ親しんできた仕事でも、うまくいかない、一匹もとれないようなことがある。

イエス・キリストの臨在こそが、魚を引き寄せる一番の要因であるのです。

イエスがそこにおられるかどうか、が重要なのです。

学校に行こうが、何をしようが、そこにイエスがいるかどうかで、全ては違ってくるのです。

There stood Jesus
イエスはそこに立っておられた。

しかし、弟子たちは、イエスが分からなかったのです。

「こどもたちよ、魚がとれましたか?」 ときかれても、分からなかった。イエス様は、あなた方に今、この季節、「イエスがいる」ことを知ってほしいのです。イエス・キリストがすべてであることを。

「右に網をおろしてみなさい」と言われました。そう言われてもイエスと気が付かなかったでしたち。
右側というのは、なぜ右側なのか。ここには、深遠な意味がある。

右は、権威という意味がある。弟子たちが、権威をそこに招いたときに、大量の魚がとれた。いくら働いても、キリストの権威なしに働いても何もとれないのです。

また、有名な放蕩息子の絵画を見たことがあるだろうか。放蕩息子を抱く父の手であるが、右は、女性の手をしており、左は男の手をしている。右は、母のやさしさを表す。母のやさしさは、我々は、ただ受け入れるということであるが、我々は、しばしば、それをしようとはしない。

また、この朝に、岸辺からイエスの声がするとはだれが想像しただろう。キリストは、私たちが今まで予想したことのないところから語り掛けるというしるしである。

イエス・キリストが我々の中心である。

ヨハネは、言った。「主です!」

いくら熱心に主の仕事をしていようと、どんな立派な仕事をしようが、キリストと関係を持っていなければ、分からない。ヨハネは、キリストとの親しい関係にあって、それが主であると分かったのです。

ペテロは、それと聞いて、裸であったが、そこにある、漁師の服をまとってから水に飛び込んだ。何を示しているのだろう。一度、キリストから、人を取る漁師にしてあげようと召された。

その召命の象徴として服をまとい、思い切って水に飛び込んでイエス様のもとに急いだのであった。再献身の始まりであった。

今日一日のためイエスを求めよう。今日一日のみことばを求めよう。あなたの召命の服を着て水に飛び込もう。あなたには、フレッシュな信仰が必要です。今日、再献身して、召しに生きるためには、新しく神を信頼する必要があります。今日一日の信仰でいいのです。

イエスは、パンと魚を用意して待っていた。キリストご自身は、いのちのパンと言われるおかたである。これは、キリストからの個人的なあなたへの招きであります。

朝食は、英語で、Breakfast といいます。つまり、Break the fast 断食をやめる。食べない、不足していることを破ることです。
あなたの過去の失敗、成功しない道、なかなか取れない漁、家族の問題、何も開かれないそういう 不足の気持ちを破ることです。
イエスがともにいて、食事をさせてくださり、そして、その断食を破らせてくださいます。

イエスは、来なさいと招いています。これは、新しい献身の第一歩であり、始まりです。昨日のことは、終わりました。今日から、あなたは新たにまた力を得るのです。


#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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ローマ書五章1-11 節 義がもたらした変化

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ご近所に、水曜日に新しいスタバ... ご近所に、水曜日に新しいスタバができましたー。ここにスタバがあったなーーと思っていた調度そこにできました。
マーサーストリートにあります。
店内には、これでもか、とコンセ... 店内には、これでもか、とコンセントの数。椅子のないところにも。。。ここも、アマゾニアンで朝は、ごった返しています。 そのお向かいのビルですが、大き... そのお向かいのビルですが、大きなガラス窓がびりびりに、、レースのように、細かくひびが入っています。光に反射して、とても美しいです。壊れたものなのに、こんなに美しいなんて、なんとなく、誌的だなーーと思って思わず写真をパチリ。。。ここは、お散歩コースです。こちらもマーサーストリートです。
2016年10月9日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/NQcxDlaaH4w

先週は、義をもたらす信仰について話しましたね。さて、信仰を持った私たちに、一体どのような変化が起こるのでしょうか。ということを五章を通して学んで行きましょう。

★シャロームの中に招き入れられた

V1,2 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。Therefore, having been justified by faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ, 2 through whom also we have access by faith into this grace in which we stand, and rejoice in hope of the glory of God.

パウロは、この恵みに入れてくださった神の栄光を大いに喜んでいると語ります。信仰によって義とされた私たちは、神の平安に招き入れられた。キリストによって平安が与えられたとあります。

平安というのは、旧約聖書の神の名でも同じみ、ジェホバ・シャロームに代表する、神のご性質でもあり、私たちにとって大きな意味のあることです。

シャロームとは、ただ何もない静けさ安らかさではなく、混沌とした状態から神によって回復された状態をさします。戦いの中でも与えられる平安。。。もちろん新約聖書では、ギリシャ語を使いますから、ここでは、エイレーネという言葉、同じく平安が使われていますが、これもまた似たような意味が込められています。エイレーネの語源は、つなぐ、加わるという言葉です。二つのものを一つにしたうえでの平安です。なかなか、奥が深いですね。

すなわち、罪の混沌、暗闇を通り抜け、今や、キリストによって、神の回復に加えられている。そして、キリストとの親しい交わりの中で安らぎを得ている、そんな場所に私たちは入れられているのですよ。ということです。

Shalom / Eirene  Restored / to join to connect の語源…神との親しい交わりに加わっている

★患難の意味の変化

続く聖句が、

V3-5 3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。3 And not only that, but we also glory in tribulations, knowing that tribulation produces perseverance; 4 and perseverance, character; and character, hope. 5 Now hope does not disappoint, because the love of God has been poured out in our hearts by the Holy Spirit who was given to us.

なぜ、患難の話しがこの場面で出てくるのでしょう。やはり、当時迫害があったからでしょう。信仰ゆえの苦しみというのは、義、信仰、そしてキリストのことを話す時には切り離せなかったことがらだったのでしょう。

信仰によって義とされたキリスト者は、患難に対するものの見方が変化する。患難を喜ぶのはキリスト教の特徴でもある。(中国宣教の証し:音声でお聞きください)
自分自身が平安の中に入れられていることを軸にしているからです。すなわち、どういうとでしょうか。神のGOODNESS を軸にしているのです。そこに根差して生きているのがキリスト者なわけです。

キリストを信じる前は、患難、苦しみは、私にとっては、苦しむためだけのもの、それを通して強くなるとしても、ディフェンスメカニズムを作って、内面的に不健康な人になってしまいました。主を信じて通る患難とは、パウロは次のように語っています。
「患難さえも喜んでいます。」と。喜び…誇りに思うの意も含む

○忍耐が練られた品性をうみ

 忍耐…hypomoneヒポモネーギリシャ語の言葉の意味は、「下に続く」前向きに継続的に待ち望むことです。すなわち、神の良さに信頼して、前向きに、従っていくことです。そして、それが練られた品性を産みだします。

 品性とは、人格ですね。練られるというのは、試験されて、試されて、やっぱり本物であると、確認されることです。安全な車でも、ちゃんと試験を通って、この車は安全です、衝撃テストなどを受けて、ここまでは大丈夫ですと証明されます。それと同じように、この人の人格は間違いないと神様からお墨付きをもらうのです。

○希望に導く品性

 品性は、もちろん一晩で出来上がったりしません。悩みながら神様に聞きながらできていきます。まるで、炉にいられて火で精錬される金のように、たくさんの金粕がでてくるでしょう。それらを取り除きながら、純粋なものになってくのです。
品性の作りの作業において、神様の関係は切り離せません。もちろん、忍耐とは、神様の素晴らしさに信頼しての忍耐ですから。自分を知り、神を知る機会となります。この過程の中で、希望が生まれます。また、逆に言えば、品性なくしては、希望はないといえます。

希望とは、将来の記憶。将来のこと、まだ実際に起きてないことが、良いことと信じること。

絶望をとおらなけば希望もない。本当に希望をはっきりと持っている人は、苦労していない人ではなく、実は、苦労している人であります。

キリストは、希望をもって、目の前の十字架をもろともせずに、従ったとへブル書に書いてあります。

へブル12:2 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。looking unto Jesus, the author and finisher of our faith, who for the joy that was set before Him endured the cross, despising the shame, and has sat down at the right hand of the throne of God.

○聖霊によって

神の霊は、ギャップを埋める。こないだ聞いたレクチャーのなかでの話です。脳の神経、シナプスとシナプスはくっついていない。間が空いている。そのあいだがあるにも関わらず、感情、記憶、ホルモンの分泌など、必要な情報が伝わっていく。その学者は言いました。神は、初めからおられた。神は、そのギャップを埋める方だと。

私たちは、神様の働き方について分からない。

頭でわからないこと。霊によって感じながら試練の中をすごす。神様は、私たちが見えていない、ギャップの中ですでに、いつも働いておられるのです。

証し; キリストを信じているからということで、難しい状況に直面することが多かった。どうしていいか、分からなかった。言い返すのも違うし。心の中で一呼吸して、神様を呼んだ。ただ、祈った。その時、腹の底に熱いものがこみあげてきた。「私は神に愛されている」という強い確信がこみあげた。そして、二年後にすべてが益にされた。詳細は、音声にてお聞きください。

★神を喜ぶ生活へ shalom の確認

信仰ゆえの患難についての話からまた、シャロームに戻ります。いかに、キリストが私たちのシャロームを作ってくださったか、また、私たちは、どれだけ、神を喜んで生きているのかということの確認になっています。

V6-11
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。For when we were still without strength, in due time Christ died for the ungodly. 7 For scarcely for a righteous man will one die; yet perhaps for a good man someone would even dare to die. 8 But God demonstrates His own love toward us, in that while we were still sinners, Christ died for us. 9 Much more then, having now been justified by His blood, we shall be saved from wrath through Him. 10 For if when we were enemies we were reconciled to God through the death of His Son, much more, having been reconciled, we shall be saved by His life. 11 And not only that, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received the reconciliation.

今日は、パウロが、平安と喜びに挟まれた、患難のお話しをしてくれたと思います。すでに平安、シャロームに入れられた私たちですから、私たちがどんな、試練に会おうとも、神様とともに、耐え抜くときに、そこにまた、回復をもたらす力が働き、私たちを喜びから喜びに導いてくださる。

神様は、今日私たちにそのように語っておられるのではないでしようか。

#キリスト教 #クリスチャン #信仰 #教会 #礼拝 #聖書

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