この1年余り、新型コロナウイルス感染拡大に世界中が混迷している。
発症拡大の原点は、中国・武漢であることが明白になってきた。
日本の政治家の中には、中国に遠慮して多くを語らない人々が多い。
日中国交締結をした後にその感覚が増大してきた、と個人的には感じている。
“基本的人権”“民主主義”に乖離する事柄が、日本国内にも見られ憂える所だ。
“人権”“民主主義”この2点とは、なんぞや?? 長いこと思考哲理してきた。
物事にして“画一的貧化”は、論理を滅ぼす。”余地を残す事”が大切と確信。
この1年余りを思うと、中華思想(中国政府見解)の論理破綻が見えてきた。
我が国の周りには、儒教的感覚が蔓延している様に見える(私的にだが)。
世界中の場所場所でウイルス感染が拡大、ワクチン接種で予防措置を講じている。
我が国ではワクチン接種が遅れている。でも感染拡大は、比較的小さい??
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我が国の政治世界(国会等)でよく耳にする表現に“国民は・・・”というのがある。
この表現には、誰かの印象操作を感じる。隠れた国民の意見が感じられない。
世論調査の手法は、調査者の意向が色濃くでてくる。
騒ぐだけ騒いで、その後の結果は、無視だ。つまりは、誘導尋問的と映る。
ごく一部からの情報に惑わされてはいけない、と思うようになった。
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国民性って何だろう?? 潜在的感覚ってなんだろうと考えてきた。
的外れかも知れないが、禅宗等の修行の一つ“托鉢”を思うのだ。
仏教伝来経路の過程で今の中国の前身一部だった、宋から伝来した禅修行。
パーリ語のピンダパータ(piapāta・托鉢)、インドの修行者は托鉢によって食物を得た。
最初期仏教の比丘(びく)たちは、もっぱら托鉢によって食を得た。
が、のちに仏教信者からの「招待食(しょうたいじき)」も受けるようになった。
頭陀行者(ずだぎょうじゃ)たちは、あえて招待食を拒否し、托鉢食のみによった。
現在の日本でも托鉢は、雲水(うんすい・修行僧)たちにとって重要な修行の一つである。
托鉢(たくはつ)・・修行僧が街を無心に歩き布施(ふせ)喜捨(きしゃ)を受ける行為。
托鉢は、雲水の修行にとどまらず布施を呈する者に取っても修行とするものだ。
施を受けた時に唱える偈文に『施(せ)財(ざい)の偈』というものがある。
偈の中に「財法二施(ざいほうにせ)」がある。「財施(ざいせ)」と「法施(ほうせ)」とある。
財施者(檀信徒・一般人)にとって、自分の財産・金品・持ち物、所謂「浄財(じょうざい)」、
それらを手放す事、すなわち、執着(しゅうじゃく)を断つことも修行とされる。
「布施」の事を「喜捨」とも言う。見返りを求めず喜んで捨てる、功徳を積むことである。
法施をする僧侶にとっては「教え(法)を施す」布教の実践の場である。
托鉢は、衣食住に対する執着を捨て、生きて行くということを他人に委ねる修行でもある。
自分と相手、相乗効果を以っての行為、その思考の上に「和の精神」があるのか。。。!
道元禅師が示した坐禅、「無」の境地。更には、神仏混淆(神仏習合)なる宗教哲理。
現代社会にあって個人の家屋内に神仏混淆の様式が残っている。
「令和参年(皇紀2681年)6月21日、記」