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- 罪から来る結果 The consequences of a sin
2014年6月1日日曜日礼拝
音声はyoutubeから、 http://youtu.be/c8DHIskr1NE
Ⅱサムエル13-16章
テーマ聖句 Ⅱサムエル15:30
ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。So David went up by the Ascent of the Mount of Olives, and wept as he went up; and he had his head covered and went barefoot. And all the people who were with him covered their heads and went up, weeping as they went up.
先々週は、世代にわたる祝福の話しをダビデの生き方から話しました。今回は、世代にわたる罪の呪い/結果についてお話したいと思います。これもまたダビデの人生からみていきます。
世代にわたる祝福と呪いについては、数々の聖句が旧約聖書にありますが、一つ読みますと、
出エジプト20:5,6
5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。you shall not bow down to them nor serve them. For I, the Lord your God, am a jealous God, visiting the iniquity of the fathers upon the children to the third and fourth generations of those who hate Me, 6 but showing mercy to thousands, to those who love Me and keep My commandments.
罪の結果が、次の世代、また次と四代までわたるということですが、
私たちは、アダムとエバから罪の性質を引き継いできています。二歳の子でも誰にも教えられなくても嘘を付けるようになります。私は、五歳の時に父親と別居しました。妹はその時生まれたばかりでした。妹は、全く父と一緒に暮らしたことがないのですが、妹が一番父に似ています。やさしいところ、人に対して寛容で分け与えるところ、そして、怒りのポイント、枕元に本を積んで寝るところ。本を最後まで読まないところなどなど。人は、一緒にいるから似てくるのかと思いますが、血すじというものは、それ以上のもののようです。
今回の箇所は長いのであらすじを説明します。
13-16章のあらすじ
★ダビデの罪
人妻バテシェバと罪を犯し、その夫を殺す。ダビデは、神の前に悔い改めた。しかし、このことを良く思っていない人たちが多くいた。自分の息子たちも含めて。これが全ての始まりであった。神は、赦されたが、ダビデは、罪からくる結果に付きまとわれることになる。
みなさんも、経験があるのではないでしょうか。人と仲たがいして、神の前に悔い改め、神に赦されますが、相手の人との信頼関係は、また一から立て直すことになりますね。
ダビデの罪の影響で、自分の家庭で事件が起きる。
異母兄弟アムノンがアブシャロムの妹タマルを犯す。ダビデは、激しく怒ったが(13:21)、このことに対して何も対処をしなかった。アブシャロムも何もしなかった。二年後までは。。。二年後に、アブシャロムは、アムノンを殺害する。ダビデは、悲しみ、怒った。(13:30)
Ⅱサム13:39 ダビデ王はアブシャロムに会いに出ることはやめた。アムノンが死んだので、アムノンのために悔やんでいたからである。And King David longed to go to Absalom. For he had been comforted concerning Amnon, because he was dead.
37節では、ダビデはいつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでした。David mourned for his son every day.
ダビデは、バテシェバとの罪、そして、その子の死の後、消極的になっているのがみえる。羊の毛の刈り取りの祝いにも出て行かない。そして、自分からアブシャロムに会うこともやめた。聖書には書かれていないが、「いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた]ということから、かなりの葛藤があったのだろう。自分の罪の結果が、自分の子の死に続き、どんどん広がっていくのをみるため。バテシェバとの第一子の死の時は、子どもの死後、すっきりとして食事をしている。自分の罪の結果と裁きを受け取り、悔い改めもし、前にすすんでいる。しかし、今回は、自分の罪のせいで、子どもに影響が出てしまったそして、子どもの一人が死んだということで、親としてかなりの辛さがあったのだと思われる。
ダビデは、アムノンの罪と、アブシャロムの罪に対して、何も対処しなかったことが伺えるが、一体どんな気持ちで沈黙していたのだろう。
★アブシャロムの罪
アブシャロムは、兄弟を殺した。そして、その後、巧みに人々を騙し、父の王座をのっとることになる。15章、16章。反乱をおこした。
子どもと言うものは、理不尽なことが起きた時、どうしたらいいか、いつも指導、裁きを求めている。理不尽なことが起きた時、親がどう対処しているかを見たい。それが、人生の知恵となる。アブシャロムは、父の裁きを望んでいた。父らしいことをして欲しかった。
ダビデは、自分の罪故に、子どもの失態に繋がったと思っていただろう。バテシェバにしたと同じことを子どもがしたわけだ。裁きにくかったのかもしれない。
父の裁きを見られなかったアブシャロムは、父を恨み、自分が今度は、裁き主となるべく自ら王となった。
アブシャロムについていった人たちは、ダビデ王についてよく思ってない人たちであった。やはり、ここでもバテシェバとの罪がここにも影響していたのだった。
また、ダビデは、15:31 で、ダビデの信頼していた部下アヒトフェルがアブシャロムの謀反に加担していることを知る。ダビデは詩篇にもこの辛さをつづっている。このアヒトフェルは、バテ・シェバの祖父でした。このアヒトフェルAhithophelは、後にアブシャロムに、ダビデのそばめたちのところに入るように助言している。ダビデのしたことに対する復讐だ。
★ダビデは逃げた
Ⅱサムエル15:10-11 -14
ダビデは、バテ・シェバの子どもの死の後、かなり弱腰になっていた。戦いにも出なくなり、人とは距離を置き。アブシャロムの反乱に対しては、自分の町を守らずに、要塞があるにも関わらず、町から逃げた。
どうして、直面対決しなかったんだろう。と思う。これも、自分の罪の結果を悔やんでのことなのだろうか。わが子と戦い血を流すよりは逃げる方を選んだ。
ダビデは、このときにも多くの詩篇を書いている。
詩篇4,11,41,42,55,61,63
神様だけが隠れ場、神様による頼むと詠っている。神様への心の叫びがつづられている。詩編3を読んでみましょう。
そして、ここでテーマ聖句にかえります、 Ⅱサムエル15:30
詩篇三篇の、そのような気持ちでオリーブ山を泣きながら登った。ダビデは、神の前に悔いていた。そして、悔いてあからさまに泣ける心の柔らかい人であった。なりふり構わず、神の前に踊ったダビデは、なりふり構わず、神の前に悔いて泣いている。
私たちは、みな完全な人は一人もいません。人間ダビデの生き方に共感できるのではないでしょうか。
一つ、学べることは、たとえ自分の罪のために苦しんだとしても、神様にしがみついて生きることができるということです。神様を求め、また礼拝し続ける。
★新約の私たちには、どのような恵みがあるかご存知ですか?
★イエス様
イエス様は、ダビデの家系、ダビデへの神様の約束の成就。永遠の王位を持つ方。
この方も、30節のオリーブ山を登られた。
十字架に掛けられる前にゲッセマネで祈るためであった。。
非常な悲しみを持ちながら、この山を登った。
ダビデは、自分の罪の結果を悲しんで泣いた。しかし、イエス様は、私の罪、あなたの罪、全人類の罪の結果を背負って、登られ。その罪の結果を悲しみながら、登られた。
私たちの希望は、最終的な罪の結果は、イエス・キリストが請け負ってくれたということを受け入れるときに与えられる。
ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.
私たちは、どのように世代にわたる罪の結果・呪いから自由になれるのでしょうか。自分の中に、どうしようもない、親のいやな部分とそっくりなところはありませんか。また家系の中に繰り返される問題、罪の傾向はないですか。それを見つけたときが、解放の時です。それにきづくなら、それを先のみことばに適用することができます。
私の家系と私の罪として、罪を告白し、キリストの十字架の業による赦しを受け、その繰り返される罪の呪いは全部イエス様が引き取ってくれたことを信じ、宣言し、金輪際この罪とは無縁であることを宣言し祈るのです。
それだけで本当に変わるのかと思うかもしれませんが、本当に変わります。私たちの神様は超自然的です。そして、真理に従うなら、そのとうりにしてくださいます。キリストの血は、どんな問題にも有効です。
私たちは、大胆に恵みの御座に近づくことができる。赦していただける。また、罪の結果はイエス様が引き受けてくれたから、この罪とは金輪際無縁であると宣言することができる。そして、聖く生きることができる。ここに、私たちの希望と実際的な力があるのです。イエス様を信じましょう。
ぼ
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