幸いな人 The Blessed
Sep
9
詩篇 1篇
1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は正しい者のつどいに立てない。6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者は滅びうせる。
★幸いであること
「幸い」は、原語へプル語では、"esher," エシャー>
語源は、"to be straight" or "to be right." まっすぐ、正しいという意味。この言葉は、複数形で使われており、最上級の幸せの表現であり、完全な満たしを表現している。
そして、この幸せの質というものは、魂、霊的レベルのものであり、自分の手で何かを成し遂げた、達成したレベルのものではない。例えば、医者になることでも、地位の高い人になることでもなく、権力をもったり、お金を持つことでもない。本当の魂の充足なのだ。
ですから、この「幸せ」というものは、全世界共通、ユニバーサルなものであります。人は全世界を手に入れても、いのちを失ったら何になりましょう。と聖書が言っているとおりです。
この幸せは、お金持ちで、外見上何も問題なく生きている人にも幸せであり、また、落ちぶれて、悪いことばかりをして、その結果、ホームレスになってしまった中毒患者にとっても幸せなのです。
そして、聖書は、あなたが、どんな過去を持っていようが、今までどんなチョイスをしようが、または、どんなに立派な肩書があろうが、神様が差し出してくださる幸いがあるのだと、皆さんを今日招いているのです。
★人には二つの歩み方がある
その道は、歩みであり、生き方である、両方進行形である。Both progressive. すぐさま、目には見えにくいかもしれない。もしかしたら、正しい者の方が、苦労しているかのように人には映るかもしれない。また、悪い者の方がいかにも、美しく見えるかもしれない。しかし、みなさん、霊的なものは肉の目、世の目には見えないのです。進行形であること、がこれは霊の世界のことであることを指し示しています。私たちは、見えない神を、信じていて、心に否むことのできない確信をもって生きています。見えない世界は、リアルなのです。
① 悪者の道
V1 悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着く
始めは点であっても、最後には道になり、その後は、住み家となる。
thinking, behaving, and belonging
みなさん、私たちのクリエイティビティは、私たちの頭の中にあります。これは、神様のデザインであり、神様と協同作業をするためにそう造られているのです。ですからこそ、神は、信仰を強調されるのです。目に見えないものを信じることが信仰ですから。。。そこから、創造が始まるのです。
悪者のはかりごとも正に私たちの考えから生まれてきます。気をつけていただきたいのは、それが、私たちの願いに基づいていることが多いのです。
前にも話しましたが、願いは聖なる場所です。聖なる能力です。それをどう行動に移すのかが問題となって来ます。
また、ある人は、それを行動に移し、罪人の道に立ちます。そして、行動に移した後には、そこを住み家とし、そこに属するようになります。あざけるものとは、自分が一番偉い人になっている状態です。自分がまさに神になったように、王座に座り、そして、全てを自分の清くない考えで裁いていきます。。。自分が義だと思っている人のことです。
これが、聖書で悪者のと言われる人の生き方です。
② 幸いな人の道
v2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。v3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
- 自分の義ではなく、神のことばによって生きるという人。
- 神から受け取るという謙遜さ。
- 神の言葉を黙想し、思いを巡らすことの祝福。
- 私たちは、教会に行っているだけ、または、メッセージを聞いているだけ、み言葉を読んでいるだけでは、私たちの心は変わらない。神様に出会わなければ。。。
- 神様に出会った人は、自分の義を手放す。そして、神の義に従う。
- また、水路のそばに…表面上では、厳しい環境に見えたりするかも知れない。しかし、根っこで、水源に繋がっているならば、葉が枯れることがないばかりか、たくさんの身を結ぶ。
- 水路は、まさにイエス様です。また、キリストの身体である教会です。個人的に、イエス様に繋がっているか。今日、あなたの心の思いをイエス様と分かち合って、目と目とが合ったか。声をかけてもらったか。個人的にみ言葉が響いたか。。。
- Planted 植えられる---- 神様の摂理を受け入れること。この世は、自分中心。イエス様の弟子さえ、イエス様に選ばれたのであって、自分で選んだのではない。また、場所を示している。毎日、神様と出会う場所、スペースあるでしょうか。神様のことを話す仲間の場の中に植えられているでしょうか?
- 黙想をするには、私たちが鈍いからというのも一つの理由です。しかし、同じみ言葉を何度も何度も読んで、思いを巡らすうちに、神様の語りかけが、気づきが後から後から来るのです。ぱっとみ言葉を読むだけではなく、羊や牛のように反芻するのです。
- また、キリストの身体に植えられて、周りの人の証しや、みなさんが体験した神様のみ言葉を分かち合っていただき、それを聞くことも私たちには、霊の肥やしなのです。決して軽くみることができない。
- そういう人は、時が来ると実がなる。。。これも、霊的なことです。実は、いつ、なり、いつ育つか人には分からないのです。。。夜、皆が寝静まっている時に、いつの間にか育つのです。肉の目で見定めることのできない、霊の出来事です。
★ 今日子供たちの進級式でしたが、子供たちは、毎週きちんとみ言葉を暗唱してきました。大変な霊の賜物をいただきました。若いうちに、心に入れたみ言葉が、物事を考えるときに、きっと、出て来て、彼らの人生を助けることでしょう。大人も、見習って、9月から、み言葉を黙想することを大切にしていきましょう。そして、毎日必ず、今日、イエス様と目があったかな。イエス様に私を見ていただけたかな。イエス様の義で、毎日、まっすぐに、そして、正しいものとされ、私たちの心の王座にいつもイエス様に座っていただきましょう。