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逆説の中に神の恵みGod’s grace in paradox
シアトル。曇りも雨も晴れも美しい町です。
2018年10月7日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、
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2コリント2 Corinthians 12:6-10
6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
★ 神は苦しみの神 Suffering God
今週のバイブルスタディはマルコ12章のブドウ園で主人のしもべたちが農夫に殺され、ついに息子まで殺されましたという箇所を読みました。どうして、ここまで神様は苦しみながら待ったのか。という疑問が出ました。ブドウ園はイスラエルをさし、またブドウ園はぶどう酒を作るためにあります。ぶどう酒は喜び、を表します。神は、喜びの収穫を留めることをされたくなく、少しでも多くの喜びを得るために苦しみの時間を延ばされたのです。
苦しみと喜びは紙一重なのです。
私たちの神は逆説的なメッセージを私たちに下さり、また私たちに逆説的な状況下に置かれます。
イエス様も、黄泉にまで下ってくださったからこそ、高く高く上げられ、イエス様の名に勝ものはない。
貧しいものは幸いと言われた。持っているものは持たないものよりさらに与えられ。
死んでも生きるのです。パウロも、朽ちる物、朽ちないもの。私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。弱い時にこそ強い。
◎ 今日は、この逆説に力があることを覚えていただきたく思います。
★ パウロの誇り Paul’s boast?
さて、Ⅱコリントの話しに戻りましょう。パウロのクリスチャン人生は逆説の中から始まりました。彼は、もともとクリスチャンを迫害している人でしたが、イエス様に出会って劇的に変わるのです。クリスチャンを殺す立場だったが、人々をクリスチャンにする人になったのです。それからの人生は逆説ばかり。そんな彼だからこそ、何を誇るかよく知っていたのです。
誇ることで言えば、彼にはいくらでも誇るべきことがありました。しかも、言うならば、彼はパラダイスに行くという経験までしました。その啓示について経験について、周りが彼を誇らせるようにしたようです。周りが過大評価するといいます。
◎ 人というのは、自分から高慢にならなくても、周りが過大評価をして高慢になるように仕向けられることがある。パウロは真実だけを語るというが、ありのままの真実、神様に与えらている分ということを忘れてはいけなす。
◎ 誇る--- to glory 人々は、あなたのすばらしさを持ち上げて、あなたの栄光を礼拝するようになる。あなたはいつの間にか誇るようになる。これが怖い。あなたは、ワーシップリードでもなんでも他の奉仕でも人があなたによってもたらす栄光をあがめるようになったら、これは危険です。
★ パウロの逆説的生き方を説明している
Paradoxical life style in athorn in my flesh肉体のとげの話し
パウロは、高慢にならないように、神様に与えられたサタンの使者肉体的なとげが与えられたという。病気など、サタンの使者とも旧約から文化的に理解されている。それは、私たちの益にもなるという考えがある。
◎ とげ --- いろいろな説がある、目の病気か、肉体の誘惑か、てんかんか、霊的誘惑か、また、外見的な容姿だという説もある。とにかく、これが無ければ、スムーズに奉仕ができるのに。いつも煩わされている問題を彼は体の中に抱えていたのです。
◎ そして、三度神にお祈りしてお願いしたと言いいます。とげがなかなか取り去られない葛藤。主への奉仕の栄光、このとげの逆説の中で日々葛藤したのです。
◎ 彼は、人のために癒しを祈ったり、いろいろな奇跡を体験し、瀕死の状態を幾度と経験しても死なないでいるのに、これだけはなくならないのです。どうして。ともどかしくなったことでしょう。
◎ 皆さん方も、そんな逆説の中にいませんか。
◎ 逆説から逃げることもできます。私の知り合いで絶対皿洗いをしない人がしました。自分は、そのような賜物ではない。と。私にとっては、皿洗いは、ハウスチョアであって、霊的なこと関係ない。みんなで仕事を手伝ってすれば早く終わるのに。と思いました。しかし、その人が神学校に言ったら、みなと同じよう皿洗いをさせられ、すっかり人に尊敬されるようになりました。小さいことですが、逆説の中を通ることを選んだからです。パウロが、とげがなくならないから、ミニストリーやめます。という苦しみのない世界を選んだら、きっと信じる人は減っていたでしょう。神のブドウ園に喜びの実は少なくなっていたことです。
◎ 苦しみと喜びは紙一重 Suffering and joy at only a fine line
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore, I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me.
人の弱さは、聖なる力なのです。すなわち、あまり神の力が働くのに、あなたの有能無能、持てる持ってない、あるいは、あなた自身の栄光は全く関係ないのです。弘法筆を選ばす。ということわざがありますが、神が働かれるには、弱さのあるあなたが必要なのです。弱いからいいのです。私たちは、弱いところにこそ、神の力を招き入れるからです。
誇る- to glory
★私の証し: 何週間か前に、私の学校の創設者と個人的に時間をとって話していただくことがありました。彼は、まるで私のことをなんでも分かっているかのようでした。私のことをたくさん励ましてくれました。そんな中で一つ心に残った言葉がありました。彼は、私のことを「勇敢な女性だ」と褒めました。私は、「ありがとう、でもいつもそうではないし、実は、誰よりも弱虫です」と言いました。実際、私は、大学院二年目で試練にあって、自分の弱さと能力の無さに嫌気がさしていたのです。そこで彼は言いました。「弱いから勇敢なんだよ。逆説にこそ力があるんだ。弱虫でない人の勇敢さなんて、無謀なだけだ。君は、逆説を乗り越えて勇敢なんだ。それが力なんだ。」と。私は、その言葉に勇気づけられまた。またやってみよう。神さまに与えられた夢を続けて追いかけてみようと思えました。
◎ 皆さん、考えてみてください。人生の中には、逆風もあります。困難もあります。信じやすい時もある、信じられない時もある、自分の身体が弱ることもある、能力がなくなる時もある、神様に対してわがままになる時もある。反抗期の時もあるでしょう。ただ怠けたいときも。全てが前向きで肯定的であることの方がないのではないでしょうか。
今日の逆説の中で、神様をそれでも選びませんか。あなたのとげ、弱さの中に、神様の力を招き入れて、それでも、神様に仕えてみませんか。きっと大きな喜びを経験できることでしょう。
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