四月のお誕生日祝い
とっても美味しい、手作りバースディケーキでした。
2019年4月28日日曜日バイリンガル礼拝音声は、
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ヨハネ21章15-19
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの 小羊を飼いなさい。」16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたの で、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
イエス様は、再びイエス様がペテロを召しだされました。私たちには、みな召しがあります。神様は、一人ひとりを特別な存在として、なすべき仕事、まことの天職を用意しておられます。よく、私は「どうやって自分の召しが分かるのですか。」という質問を受けます。一つは、あなたの特質、あなたのパッションもあるでしょう。そして、神様からの語りかけと導きが無くては、召しとはいえません。そして、いきなり召しが分かって、すぐそのとおりになるとは限りません。時間を掛け、ゆっくりと人の前にも神の前にも召しが明らかにされていくものです。ダビデも二回油注ぎをうけましたし、ペテロも、そのような歩みをとりました。
★ 召しの前提条件
私が選ぶのではない。弟子は師を選ばない、師が弟子を選ぶのです。イエス様の言葉に、
ヨハネ15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
あなたが、心に決めてイエス様を選んだように感じますが、イエス様があなたを選んでくださったのです。
アメリカは、究極の資本主義capitalismだから、教会文化にも、消費者マインドが横行している。私たちも気をつけなければならない。チャーチショッピングという言葉もある。自分にあった完璧な教会というのが、もしかしたら消費者マインドに毒されているかもしれません。
★ ペテロの召し
マタイ16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
★ 自分を知る必要性
自分の言葉さえも守れない私たち。自分の限界を知る、自分を知ることが主に仕えることのスタートです。
ペテロは、とても理解が早く、ずばっとことの本質を見抜く資質がありました。情熱もありました。しかし、彼の発言は、ことごとく失敗に終わります。そして、一番やってはいけない、イエス様を裏切るようなこともしてしまったのです。
◎ペテロの失敗…恐れと恥によって失敗した
他の誰が躓いても、自分だけは躓かないと豪語しておきながら、イエス様が官邸で痛めつけられているときに、人に、あなたもナザレのイエスと一緒にいたひとですねと尋ねられて、三回もそんな人は知らないと言ってイエス様を否定したこと。
イエス様は、どれほど傷ついたことでしょうか。今まで、愛して手塩にかけて育てた弟子です。
◎そして、さらに恥が来た。ペテロは、恥じていたことでしょう。こんな自分が再び、イエス様がよみがえられたとしても、共に神様の働きにあずかるに値しないのではないか。自分が、りっぱなことなど、できるはずはないと、消沈していたに違いありません。
みなさん、この位置が一番いい位置なのです。もし、神の働きの役にたとうと思い、自分は無理だと自覚したなら、そこがよいスタート位置なのです。励まされてください!
★ 自分の生き方との決別
V15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上 に、わたしを愛しますか。」「これらのもの以上に。。。。」, “Simon, son of Jonah, do you love Me more than these?”
日本語では、「この人たち以上に」とありますが、英語では、these と訳されているとおりに、何をさしているのか少しぼんやりしています。言語のギリシャ語では、これらのこと、these matters これらのものthese things, このようなもの such things となっています。イエス様は、きっと、先ほど漁に出たこと、洗った網や、魚をさして話されたのだと思われます。
今日の聖書箇所の前の出来事では、ペテロは、今まで漁師でしたから、みんなと漁に行きました。イエス様の召しに生きることをもうできないと。。。イエス様の言葉に従ったら、153匹もの魚が取れました。プロの漁師として気分が良かったことでしょう。
これがペテロのかつての仕事であり、これで食べていました。捕った魚を売ったのです。
この世のシステムとは、売ったり買ったりすることで成り立っています。すなわち、働いた報酬で人は、生き、商売で社会が成り立っています。一方、神の国とは、与えたり受け取ったりすることで成り立っています。そこには、神に対する信仰というものが中心にあります。しかし、そこにはリスクが伴います。ペテロは、自分の知っている道を歩むことを選ぶこともできました。
イエス様は、これからどうしたらいいか迷いがあったペテロに、この世の働きよりも、わたしを愛しますか? すなわち、イエス様を信頼して、天の働きをしますか? と聞かれたのです。
神の働きと、世の働きとは、全く違ったコンセプトを基にします。愛が無ければ分からないのが天の仕事です。
★ イエス様/自分の恥と直面する
「イエス様をアガペーで愛しますか?」
今日読んだ箇所の通り、イエス様は、ペテロに面と向かって尋ねられました。「ヨハネの子シモン、あなたは、わたしを愛しますか。」フルネームで読んでいますから、イエス様は大変重要な ことを言われようとしています。
ギリシャ語では、「愛」するという言葉に、三つの種類があります。
① エロス、肉体の愛、奪う愛、相手に求める愛。
② フィレオー、友愛、ギブアンドテイクの愛、条件付の愛。そして、
③ アガペー、最高の愛。神の愛。一方通行の愛、無条件の愛。
イエス様は、ペテロに、最高の愛、アガペーの愛でイエス様を愛しますか。と問われています。
イエス様は、続けて三回同じような質問をされます。そして、日本語では、全て愛しますか。となっていますが、言語では、一回目と二回目がアガペーとなっています。無条件の愛、捧げつくす愛で愛しますか?と聞かれました。
しかし、ペテロは、二回とも、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」“Yes, Lord; You know that I love You.” アガペーでなく、フィレオーの愛で愛することは、イエス様、あなたがよくご存知です。フィレオーでなら愛せます。。。といいました。ペテロは、イエス様を裏切ったことで、自分のありようが良く分かったのです。何と、恥ずかしい会話だったでしょう。自分の恥をオープンにして質問に答えなければなりませんでした。気軽に、できるなんて言えるものではないと。。。
イエス様は、三度目には、レベルを落として、ペテロに「フィレオーで愛しますか?」と聞かれました。そして、その上で、もう一度、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。
みなさん、私たちは、時々、たくさんイエス様を愛するものが神様の働きをすると思うのです。しかし、イエス様は、ありのままで、そのままで、イエス様を愛したら言いと言われているのです。
◎今ある信仰と、今ある愛で仕える
そして、もう一つ、大切なことを覚えていただきたいのです。神の召しとは、あなたの思いや、あなたの能力よりも、あなたの意思の強さ、コンディションに関係しないのです。神の召しの方が圧倒的に強いのです。私たちの側で、するべきことは、ありのままの姿で、あなたが今持っている信仰で、「はい。イエス様。そうします。」と答えることなのです。
◎ ペテロは、羊飼いとなるように召されました。イエス様は、私たちの羊飼いですね。そうです、イエス様のように、迷子を捜し、手当てし、癒し、導き、食べ物を与え、名前を呼んで愛し、危険から守る、そのような役目をいただきました。それは、イエス様を愛する愛で、「わたしを愛しますか」と問われたイエス様を見つめながらやっていくものですよ。。。。と。
◎ ペテロの恥は、イエス様と直面することと、自分の口で告白することで力を失いました。
★ 愛の成熟 -- イエス様の愛に近づく
18 まことに、まことに、あなたに告げます。あんたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きた い所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あな たの行きたくない所に連れて行きます。」19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現す かを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさ い。」.
今までのペテロは、自分の意思の強さをもってイエス様について行きました。誰よりも、イエス様に仕えるのだという、「私が」、「自分が」という思いで働きました。しかし、「アガペーの無条件の愛で私を愛しますか。」というイエス様は、すべてをイエス様に明け渡すこと、サレンダーすることを示されました。
今度は、自分のやりたいようにではなく、むしろ、やりたくないことをやるようになるんだよ。と言われたのです。
“Follow Me” === having pain as He had
●イエス様のあの、アガペーの愛を思い出してください。どんな愛だったか。いかに、痛みの多い愛であったことか。イエス様に従うことは、やりたくないことをしても喜びがあるものです。しかし、喜びがあっても、痛みだけはどんなにしても、痛いものは痛いものです。また本当にイエス様に従う時には、孤独なものです。神様だけが理解してくれているのなら、それで十分と言わなければならない時もあります。
イエス様ご自身、その愛で、十字架の道を行かれました。弟子たちに裏切られ、愛する者たちに鞭打たれました。その身体と心の傷はどんなに痛いことでしょうか。しかし、イエス様は、痛みを伴う、アガペーの愛をもって私たちを愛して下さったのです。
これは、ペテロがどんな死に方をするかが暗示されているのだと言っていますが、考えさせられます。ペテロは逆さ十字にかけられて死にました。
無条件で主を愛するということは、必ずしも、自分のやりたいことをやりたいようにやることではないのだということです。全くの主への明け渡しの人生。主に委ねて、主にそのつど従っていく人生なのだと思わされます。
イエス様に聞かれた時は、アガペーとこたえられなかった、ペテロですが、最後には、アガペーの生き方をして、主に仕えながら死を迎え、主に栄光を返すこととなったのです。
みなさん、今、アガペーでなくても、いいんです。今日、主に「はい。」と応答しましょう。そして、人生を終えるときには、全て、主の栄光として捧げて天に帰っていくものとされたいものですね。
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