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愛は妬まない Agape is not Envy

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愛➄妬まないAgape is not Envy
2019年10月27日日曜日礼拝メッセージ


Ⅰコリント13章4-8
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
4 Love suffers long and is kind; love does not envy; love does not parade itself, is not puffed up; 5 does not behave rudely, does not seek its own, is not provoked, thinks no evil; 6 does not rejoice in iniquity, but rejoices in the truth; 7 bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.8 Love never fails. But whether there are prophecies, they will fail; whether there are tongues, they will cease; whether there is knowledge, it will vanish away.

愛の章を読んで、とても不思議に思うことの一つに、愛は妬まないが三番目に来ていることです。前にも言いましたが、これは、コリント人たち、賜物豊かな教会に対してパウロが書いていることだと考えるととても理解できます。賜物も素晴らしいけど、それらを包括してあまりある道がある、それが愛。その愛の中には、妬まないということがある。

★ねたむ神?
これを読んで、聖書をよく読んだことのある人は、あれ? と感じると思います。それは、聖書の中で、旧約の時代から、よく神は、ご自身のことを、ねたむ神という風に表現されているからです。
愛による契約関係にある者の間では妬みは起きて当然だ。神は、ご自身をねたむ神であると言われた。それは、愛の契約の中で。。。。
ヤコブ4:5
それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。Or do you think Scripture says without reason that he jealously longs for the spirit he has caused to dwell in us?

ゼカリヤ8:2
万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ』This is what the Lord Almighty says: “I am very jealous for Zion; I am burning with jealousy for her.”

★コリントの文脈から
先ほども話しましたが、この手紙は、コリント人にあてて書いていることです。人々の当時の行動に対して矯正する意味で、神の愛はこうである、ですから、神を信じるあなた方もそのような愛を持つべきであるということになります。その文脈で見てみると、当時は、やれ、この賜物が素晴らしい、やれあの人は力がある、ということや、賜物を持つ人たちがぶつかったり、どちらが正しいかということで混乱していたと思われます。ですからこそ、パウロは、預言する時は、必ず複数の人に預言させそして吟味しなさい、と言ったのです。神の権威の元で、賜物を試しなさい、というのです。その中で、愛は、妬まない。という第三の愛の特徴になりました。

★妬みとは
ヒーリングシアトルでもしていて感じることですが、人が複数集まれば、人は必ず互いを比べたがるということです。これは、ある意味、仕方がないことなのかもしれません。自然に人というのは他人と自分を比べます。

特に、裁き、規制の元では、互いを比べることが激しくなる。
ある程度の緊張があるからです。自分への評価というものが、裁きを左右するからです。

ですから、私は、教室スタイルの弟子訓練が嫌いです。一対一、もしくは、自由の中で、弟子たちに自分で考える力を養い、自分で神様に繋がれるようにすることを好みます。
教室スタイルのクラスとなれば、弟子たちは、すぐに間違ってはいけない、と緊張し、他の人のコメントと、私の反応に過剰に反応します。

そして、どちらが偉いか、どちらが優れているか、どちらが。。。ということになる。

特に恥が強い人にはその傾向が多くみられます。

★自分は重要ではない? Am I insignificant?
恥が狙っているのは、これです。
Feeling unchosen, insignificant ===== a big deal for the inner world.
創世記、アダムとエバのはじめの子供たち、カインとアベル。カインはアベルが神に喜ばれたのをねたんで、アベルを殺してしまいます。
サウルがダビデに対して妬みました。そして、命を狙いました。
イエス様も宗教者たちの妬みによって、結果的に十字架にかけられ殺されました。

ねたみは、人と比べて、自分が重要ではない、取るに足らないと思うことです。背後に恥が働いています。
そして、以前にも話しましたが、この恥は、自分の身体の中に持っておくと、居心地が悪いので、外に出したい、あるいは、外に恥の原因を見出し、それを指をさしている間は感じなくてもいい。または、自分の身体の外で裁きを完成させる時に、すっきりする。ということが起きます。

人の少しの過ちが気になって仕方がない。人のことを気にしすぎる、ゴシップをする。自分に関係ないことでも、首を突っ込みたがる。これも、恥がドライブしているサインです。
自分が重要であり、自分が少しでもましな人間であることを人と比べることによって知りたいというのが、恥のリアクションなのです。

ですから、妬みません、の後に、自慢せず、高慢にならない、とあるのです。この三つは同じ根っこから来ているものだからです。

自分が大丈夫だ、人よりましだ、ということを知りたい、それを強調していないと、自分の存在が危うくなるので、自慢し、高慢になります。

また、
アガペーの愛というのは、一方通行。自分の目的を叶えるのが愛ではない。
見返りを求めるのはアガペーではない。
アガペーは相手のために注がれるものである。自分に帰って来るものではない。
ですから、この後に、愛は、自慢せず高慢にならないとある。
自慢や高慢は、自分が人と比べて高い位置にいることを、一番の目的にしているからこそ、おこること。

★アガペーは妬む必要がない。
愛は、親の顔と顔を合わせね中で培われる。しかし、恥は、親の顔が遠ざかることで起きる。
私たちが神の愛の中にとどまるなら、神の顔だけを見ている状態にあります。
ですから、妬む必要がありません。
神からの愛の言葉を受け取り、神にあって自己充足しているなら、人と比べる必要がありません。なぜなら、あなたは、自分は神にとって重要であることを知っているからです。

★チャレンジ
今日あなたは、自分が神にとって重要であることを知っているでしょうか。
そこに、安住し、とどまり、ひたっいるでしょうか。
神に、自分の弱さを十分に知っていただけているでしょうか。

愛は、妬みません、自慢せず、高慢にならない。
あなたがまず、神の愛にとどまっているなら。。。。

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