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今週は、木曜日に二人の学生さんが夕食に来てくれました。チキンチリスープを作りました。エリックが食べ方を説明しています。。。学生さんは、シェアハウスに住んで自炊なので、お料理をしなければいけないので、今度からは、クッキングクラスをすることになりました。
事務所の鉢植えが、花をつけましたーーーー。一年近く前なので、どんなお花か忘れていましたが、かわいいですーーー。
日曜日の礼拝に、初めて来てくれた、Mちゃんと、教会リーダーと。。。Mちゃんは、お家が遠いので、前日我が家に泊まりました。。。Mちゃん、また来てね。
礼拝後、お天気だったので、留学生さんたちを連れて、ビーチにいきました。すごい人です。風か強くて、冷たくて、耳がちぎれそうになりました。。。風は、秋ですね。
2015年9月27日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/wLXotvUnnas
エゼキエル7-11章
メイン聖書箇所エゼキエル10章
今日の聖書箇所は、長いので全部は読めませんが、少しずつみていきましょう。みなさんが今週、聖書を読んでくださったと信じてお話しを進めていきます。
さて、エゼキエルは、7章で、エルサレムに終わりが近づいたことを預言します。それは、神の怒りゆえでした。そして、8章では、エゼキエルは神の霊に連れられて、どのように民か偶像礼拝をし、そして、神から心が離れているかを見せられます。しかし、8章4節には、そこに、神の栄光がありました。「なんと、そこには、わたしがかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。」And behold, the glory of the God of Israel was there, like the vision that I saw in the plain.とあります。
神を信じるあなた、あなたの上に神の栄光がのぞんでいることをご存知でしょうか?
エゼキエル8:5,6
その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。6 この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」
Then He said to me, “Son of man, lift your eyes now toward the north.” So I lifted my eyes toward the north, and there, north of the altar gate, was this image of jealousy in the entrance.6 Furthermore He said to me, “Son of man, do you see what they are doing, the great abominations that the house of Israel commits here, to make Me go far away from My sanctuary? Now turn again, you will see greater abominations.”
エゼキエル8:12
この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」
Then He said to me, “Son of man, have you seen what the elders of the house of Israel do in the dark, every man in the room of his idols? For they say, ‘The LORD does not see us, the LORD has forsaken the land.’”
◎本当に神が人を見捨てられたのだろうか。。。
最初の人アダムとエバを思い出してください。彼らに罪が入る前は、栄光の衣につつまれていて、裸でいることが分かりませんでした。彼らが神の前に罪を犯したとき、栄光の衣がなくなり裸でいることに築き、恥を感じ、身を隠しました。自分から、神から離れて行ったのです。ですから、神の臨在から離れてしまったわけです。
長老たちの言っていることは、自分たちの思うとおりにならないから、神はおられないと結論ずける、まさに偶像礼拝の心なのでした。
偶像と人の心の問題。偶像は、いつも神と人との関係の間に入る異なる神である。神は、「よたしの他に神々があってはならない。それらを拝んでも、仕えてもならない。」とおっしゃる神である。あなたの中に神よりも、信仰よりも大切なもの、手放せないものがあるとしたら、それは偶像なのです。手放すことをしないために必死で努力することは、偶像に仕えることです。
苦難の時、長く続いている試練の時、長老たちは、自ら神を捨てることを選んでいたのだ。神が見放している、神が私たちのことを見ていないと言っている。むしろ、長老であるならば、神の言葉にしたがい、神の言葉を宣言していくべできなかっただろうか。
今日のテーマは、離れている神の栄光です。エゼキエル書10章では、神の栄光が徐々に、神殿からさり、エルサレムから去る様子が書かれています。本当は、10章全部を読めばいいのですが、長いので、割愛します。
8章では、聖所のなかから輝いている神の栄光でしたが、9:3神殿の敷居にうつり、10:18-19また、東の門に移り、そして、11:23東の山に移っていく様が書かれてあります。
エゼキエル9:3
そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、
Now the glory of the God of Israel had gone up from the cherub, where it had been, to the threshold of the temple.[a] And He called to the man clothed with linen, who had the writer’s inkhorn at his side;
エゼキエル10:18-19
主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。19 すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。
Then the glory of the Lord departed from the threshold of the temple and stood over the cherubim. 19 And the cherubim lifted their wings and mounted up from the earth in my sight. When they went out, the wheels were beside them; and they stood at the door of the east gate of the Lord’s house, and the glory of the God of Israel was above them.
エゼキエル11:23
主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。
And the glory of the Lord went up from the midst of the city and stood on the mountain, which is on the east side of the city.
そして、この言葉の前には、神様からの約束が与えられています。11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。 Then I will give them one heart, and I will put a new spirit within them,[a] and take the stony heart out of their flesh, and give them a heart of flesh,
神様は、なんと忍耐深いかたでしょうか。どうして、いっぺんに神殿やエルサレムから去らずに、ゆっくりゆっくり去っていったのでしょうか。神様は、私たちの立ち返るのをいつも待っておられるのです。
さて、先週も話しましたが、私たちは、選ばれた種族、祭司、聖なる御国の国民です。
◎私たちは、神の臨在、栄光を常にもてなしているでしょうか。
Ⅰコリント6:19
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
Or do you not know that your body is the temple of the Holy Spirit who is in you, whom you have from God, and you are not your own? 20 For you were bought at a price; therefore glorify God in your body[c] and in your spirit, which are God’s.
私たちの身体は、新しい聖所、神殿です。神様が住まわれることを選ばれた場所です。もしも、私たちの内に偶像があるなら、神様にとって非常に居心地が悪いものです。誰かの家に招かれていって、一番いい席に誰かが座り、あなたは、ずっと無視されているとしたら、どんな気持ちがしますか? あなたに誰も挨拶しなかったら? つまらないから、そーっと裏口から早めに帰るのではないでしょうか。
神の臨在は、選ばれた神殿、選ばれた町エルサレムでも同じだったのです。
◎神に選ばれたナジル人サムソンについて
旧約聖書士師記の有名な勇士サムソンの話を覚えているでしょうか。
彼は、不妊の女から生まれた約束の子でした。ナジル人として神に捧げられた、いわば、神の仕事をし、世の中を変えるべく備えられた人でした。神の栄光が留まっていましたから、どんな敵が来ても負けることはありませんでした。いつも神の守りがありました。
しかし、彼には、女という偶像がありました。しかも、神を敬わない女性との結婚です。彼は、自分の目的、肉的な夢を追いかけて、神様からせっかくいただいた特権を使いきってしまいました。そして、ついに新しい恋人デリラによって、神の栄光の秘密をばらされます。。
神様は、それぞれに賜物を与え、計画を与え、神の栄光がとどまるように計画されています。しかも、神ご自身が私たちに留まりともに神の事業をすることを喜んでいらっしゃるのです。
しかし、サムソンを見ても分かるように、どれだけ、私たちの心が神と一つになっていることが大切なことでしょうか。祝福はある、油そそぎはある、神様の栄光、臨在がともにある。しかし、私たちの心に偶像があったら。。。自分を一時的に満足させることはできても、あなたの人生のデスティニィに到達することもなく、神の御国を実現することもないのです。
神の栄光は、居心地の悪いところに永遠に留まってはいないのです。
まず、私たちの心のなかのお掃除から始めませんか。神より大切にしているもの、偶像を捨て去りましょう。自分が、神の力を利用して成功させようとしている夢を神に捧げましょう。
ぼ
毎週木曜日、親子で集えるロバの子クラスをしています。だんだん、お友達になってきて、子どもたちはかわいいですーーーー。おやつタイムに、お遊びタイム。ママたちは、安心してお茶とおしゃべりを楽しんでいます。いつも、手伝ってくれている、留学生さんが撮ってくれた写真です。。。。Hちゃん、いつもありがとう!
今週は、日本から、二年前にシアトルで留学していたMちゃんが訪問してくれました。今年で二回目の里帰りですが、毎年、大人になっていくMちゃんを誇らしく、応援しています。アメリカのおばちゃん、おじちゃんの気分です。。。。これからも、応援しています。Mちゃん、人生の荒波に負けないでねーーー
今年のイースターにいただいた鉢植えのお花。。。私の教会の事務所においていたのですが、枯れそうになったりしましたが、毎日お水をあげていると、なんと、またつぼみをつけました。いのちってすごいですねー。毎日お世話をするとかーーーならず、いのちが生き返ってくるんだなぁ。。。。
2015年9月20日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/ic3VFWHzHEE
エゼキエル2:8-3:12
2:8 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」 9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。 10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。 4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。 5 わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。 6 あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。 7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。 8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。9 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」 10 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
11 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」 12 それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。
今週から、また旧約にもどってエゼキエル書です。エゼキエルは、バビロン捕囚時代の預言者です。みなさんも一章を読まれたと思いますが、バビロン捕囚の民と一緒にいる時に神様からの召しを受けました。
エゼキエル書のテーマは、「神の栄光」です。素晴らしいことではないでしょうか。捕囚の只中で召されたエゼキエルに託されたテーマは神の栄光だったのです。エゼキエルは、捕囚に連れられて五年たった時に神様の圧倒的な臨在にふれ、幻を見、神の召しを受けました。
召しを受けたエゼキエルに神様が言われたことは
① この巻き物をたべよ
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
エゼキエルに言ったことは、み言葉の巻き物を食べることでした。ここを読むと、みなさん、「ええ? 食べるの? 食べ物じゃないのに? 」 とびっくりすると思います。
食べることは、何を表しているのでしょうか。私たちが食べ物を食べる時、口で咀嚼し、そしてお腹の中にいれます。そして、その食べ物の栄養素を身体が吸収していきます。吸収は口の中から始まり、大腸に至るまでにおいて食べ物の隅々まで吸収されます。そして、どういうことになるでしょうか? 英語でよく、You are what you eat. と言いますが「あなたは、あなたの食べたもので出来ている」という言葉があります。実際、私たちは、食べた物から出来ているのです。食べ物は、形を変えて、私の肉となり血となっているのです。
神様は、エゼキエルにみ言葉を食べなさいと言われました。十分、エゼキエルの中で咀嚼され、吸収され、エゼキエル自身の一部となるほどにせよと言われているのではないでしようか。
昔の時代には、神に召された特別な人が神様の仕事をしました。祭司は血筋によって選ばれ、そして預言者は神に選ばれました。ごく一握りの人です。
しかし、新約の時代は、万人祭司の時代です。イエス・キリストを信じた人はみんな祭司・神の働きをする人になったのです。
Ⅰペテロの手紙 2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。9 But you are a chosen generation, a royal priesthood, a holy nation, His own special people, that you may proclaim the praises of Him who called you out of darkness into His marvelous light;
◎キリストを食べる
イエス様は、ことばであったとヨハネの福音書にも書かれていますが、イエス様は、生きた聖書、生きた神の言葉です。そして、そのイエス様自らがこのようにおっしゃっています。
ヨハネ6: 48 わたしはいのちのパンです。 I am the bread of life.
ヨハネ6:53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, unless you eat the flesh of the Son of Man and drink His blood, you have no life in you.
イエスキリストを食べ、咀嚼し、自分の一部になるほどになる。これこそ、神の夢であったはずです。
「食べる」という意味は、私たちがキリストを信じ、そして、キリストそのものである、神のみ言葉を受け取り、そして、心にいれ、そして、それを自分の行動とすることです。
② 神の言葉通りを語る
3:4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。. 4 Then He said to me: “Son of man, go to the house of Israel and speak with My words to them.
次ぎにエゼキエルは、神の言葉のとおりを語るよう言われました。私たちは、何かがんばって人より立派にとか、何かを上手にというふうに動機付けられて、もっとがんばれ、もっと大きくと言うふうに自分を打ちたたく社会となっています。
しかし、神さまは、何も難しいことをおっしゃっているのではないのです。ただ、神様から聞いたことを話すように。。。と言われているのです。あなたが作り上げた理論ではないのです。
そして、その結果も神様の手の中にあることを私たちは知る必要があります。
私たちの働きは、「自分」中心ではないのです。「神」中心なのです。
③ あなたの額を堅くする
3:7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。 8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。9 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」
神様は、聞き手が聞こうとしなくても、語り続けなければならない。そのために、あなたの額を堅くすると約束されます。人の顔を見ないように、また恐れなく語り続けることができるように、あなたの額を堅くすると。。。
新約の私たちには、聖霊様がいらっしゃいます。イエス様が助け主を私たちにあげようと言われたその方です。
◎聖霊の満たし
使途1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.
これは、聖霊のバプテスマをさして言っています。私は、聖霊のバプテスマを受けるとものすごく信仰が強くなったことを覚えています。恐れがなくなりました。どんなに迫害されても、人にクリスチャンだからと言って馬鹿にされたり、いじめられてもびくともしないどころか、そのたびに、心から熱い神様の愛がこみあげてくるようになったのです。
さあ、召されているみなさん、この巻き物を食べませんか。
今の時代は、イエス・キリストを受け取りませんか、よく咀嚼し、神のことばが自分の肉になるように。あなたもキリストと一つになりませんか。
ぼ
「祝福を数えなさい」 良かった探しをしてみようってことですね。
いい言葉です。
イサクワのギルマンビレッジに日本からのお客さんを連れて行きました。時間が出来たから、ささーって行きましたが、いやー天気がよくてよかったです。
そのあと、スノコルミーの滝にも足をのばして、あたらしく出来たトレイルを楽しんできました。。。。しかし、写真とるの忘れました。。。てへ
ギルマンビレッジの雑貨屋さんで見かけた本です。肯定的な言葉がたくさん書いてあります。
「どこにでも、美しさと可能性を見出しなさい」と。。。。
いい言葉ですねー。 今週のメッセージの箇所とぴったしの言葉でした。
「生きる」
古いバーンを改装してる建物ですが、かわいいです。天窓からの日ざしが素敵です。
天窓があちこちにあります。
いいお天気です。
「幸せは、人生の最終目的地ではなく、生き方である。」
毎日のライフスタイルが、「喜び」を産み出すものでありたいですねー
いい言葉です
2015年9月13日日曜日バイリンガル礼拝音声は、https://www.youtube.com/watch?v=lDuiweTxmRc
ピリピ4:4-9
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4 Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice! 5 Let your gentleness be evident to all. The Lord is near. 6 Do not be anxious about anything, but in every situation, by prayer and petition, with thanksgiving, present your requests to God. 7 And the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.8 Finally, brothers and sisters, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable—if anything is excellent or praiseworthy—think about such things. 9 Whatever you have learned or received or heard from me, or seen in me—put it into practice. And the God of peace will be with you.
人々は、喜びを求めて生きている。これは、人間が神から与えられた人生のデザインなのだろう。先週も話しましたとおり、喜びは、天の通貨、報酬であるから、私たちの霊の深みに刻みこまれているのだと思う。しかし、私たちは、喜びをこの世に求めているのでなかなか満たされることができないのも事実である。
今週も引き続きピリピ書ですが、ピリピ書のテーマは、「喜び」です。3章でも、冒頭「主にあって喜びなさい」と書かれてあります。三章では、人間的なことを頼みにするのではないこと、私たちの国籍が天にあるので、地上のことに捕らわれず、ゴールを目指して走り続けましょうということが書いてありました。
4章もまた、初めに、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と書かれてあります。今度は、「いつも」喜ぶんだということを強調しています。すなわち、喜べないような時にも喜ぶんだということですね。
そして、4章の冒頭には、確執のある二人の姉妹に対して言及しています。さて、ストレスがあるとき、喜べない時、また文句が口から出てきそうなとき、どうしたら言いのでしょうか。パウロは、最後に言います、と念押しの形でメッセージを残しています。
★キリストが私たちのうちにおられることの証し 御霊の実
V5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。Let your gentleness be evident to all. The Lord is near.
寛容…上品・公平・優しい gentleness, moderation と英語では訳されています。このキリストにある、御霊の実である寛容が、誰の目にも証明されるようにしなさいと言うのです。
ガラテヤ5:22,23 But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, kindness, goodness, faithfulness, 23 gentleness, self-control. Against such there is no law.キリストと離れてしまえば、実は結べない。私たちは、何かいやなことがあると、自分からキリストから離れてしまいます。キリストがあなたを離れるのではなく、あなたが離れているのです。ですから、自分から離れそうな時に、意識してキリストに戻らなければなりません。
① V6感謝をもってささげる祈りと願いによって。。。。by prayer and petition, with thanksgiving
◎ 心(感情)・ 思い(考え)において寛容であること。
これは、素晴らしいツールです。
私たちは、霊的戦いが自分の考えMind の中で繰り広げられており、勝ち負けも頭の中の考えによって決まってくることをよく知らなければなりません。
ピリピ書4:7に続けてこのように書いてあります。
V7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。And the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.
私のマインドが、平安であれば、何も問題はないわけです。戦いが激しかろうが、自分の周りの状況が最悪であろうが、自分の頭の中が穏やかであれば、人は、何の害も感じないわけです。
さて、では、どうしたらいいのでしょうか。聖書は、「感謝をもって捧げる祈り」と買いあります。祈りについては、ヒゼキヤのところで話しましたね。神様のところに全てもっていく、渡してくる。神様が私に代わって戦ってくださる。と。
もう一つ大事なことは、「感謝すること」です。
このような状況でどのように感謝したらいいのだろうか。。。と思うかもしれません。私も同感します。
私は、いつも主人エリックに関して関心することがあります。そして、私と違うなーと思うのです。
例えば、こないだの5月の旅行中に些細なことでけんかになりました。そして、口を利かず、ぶんぶん怒って随分離れて歩きました。私の心の中は、エリックがどんなにいやなやつか数えだし、もっと腹が立ち、結婚しなければ良かったかも知れない。。。とまで考えていました。。。。たった、10分くらいの間に頭の中ではそんな大事になっていたのです。
そして、エリックはこっちに向かって歩いて来ました。相手も私と同じなのだろうと、むっとした顔でにらみつけると、エリックは、
「さっき、離れて歩いている時に、君がどんなに素晴らしい奥さんかずっと考えていたんだ。。。そしたら、感謝しかない。ありがとう。些細なことで怒って悪かった。」と言うのです。
びっくりしました。私は、相手の悪いことを数え上げて、ますます怒り、相手は、私のいい事を数え感謝していて、すっかり怒りがおさまっていたのです。。
パウロが言っているのは、分かり易く言うとこういうことではないでしょうか。
喜べないとき、感謝することを数えてみる。。。神様にその心をもって、祈り、願いを知っていただく。
もうその時には、問題が問題でなくなっているのです。
すばらしいツールではありませんか?? ぜひ、実践してください。
② 8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。8 Finally, brothers and sisters, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable—if anything is excellent or praiseworthy—think about such things.
◎他者に対する見方が、寛容であること。
この世の中は、否定的な言葉で溢れています。そして、人々は、人から浴びせられる否定的な言葉によって左右せられ、コントロールさえされています。ネガティブな言葉はそれほどの影響力を持っています。
しかし、それ以上に影響力のある言葉は、肯定的な言葉です。Affirmation です。
パウロは、すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさいと言っています。
私たちの教会では、Affirmation Circle が一つの文化ですが、これは良い習慣です。これが身について、どこにいても誰といてもできるようになったら、あなたの周りの世の中が変わるかも知れません。
最近、このようなことがありました。
ある方に、「どうして、あなたは、私のことをよくほめてくれるんですか?」と言われました。私のほうでは、あまり誉めているという意識はなかったのですが。。。。あまりにも、毎回私が彼女にとって意外な点を、上げてはほめていたらしいんです。。
今まで、自分は、だめだ、できてない、なっていない。と思い込んで生きていたその方は、ふーっと漠然とした圧迫感から解き放たれたようでした。
そして、笑顔が増え、もっと素敵な顔になりました。
また、今まで考えなかったことも希望をもって考えられるようになりました。
癒しが始まりました。
私にとっては、とっても不思議な体験でした。
教会で、Affirmation Circle が浸透しているせいか、自然にそうしていたようでした。また、私にとっては、主人もとてもAffirming なので、その影響もあると思います。
良いことを賞賛する、良いと認めていくことは、なんと回りに良い影響を与えることでしょうか。
パウロは、他者に対してそのようにしなさい、悪いことではなく、他者の良いところに心を留めなさいと言っているのです。
これも、少し心にかければできそうなツールですよね。
これがあなたの人生の処方箋です。喜びがあなたに与えられ。あなたは守られ、勝利します。
喜べない時、感謝をしましょう。良かった探しをしましょう。また、人に対しては、いつも良いところを探し、賞賛することに努めていきましょう。きっと喜びがたえない毎日になることでしょう。これが神様からの知恵であり、人生の勝利の処方箋です。
ぼ
我が家には、アメリカ内外からしょっちゅうお客さんがいらっしゃいます。今は、二週間ほど、日本からお友達の姪っ子さんがいらつしゃっています。
「やっぱり、本場のハンバーガーは美味しいなぁ」と言っておられました。。。忙しくてあまり、良いおもてなしができずにいますが、毎日、教会でお友達になった方々と出かけたり、英語の練習をしておられます。神様がたくさん祝福してくださいますように。。。。
2015年9月6日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/MhdcEuGm6YI
ピリピ2:1-11
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
今週からまた新約聖書になりました。ピリピ人への手紙は、獄中書簡といわれ、パウロが牢獄の中から書いたものです。
◎ キリストの身体である教会=一人の人のように働いている
私は、最近キリストの身体である教会ということにとても目が開かれ、いろいろと神様から教えられています。キリストの身体である教会が私に教えてくれています。神様の霊に導かれ、まきさんがプレイデートを企画してくれ、そして、そこに来られた方がつぎのロバの子にも来られることになったり、また、ロバの子も、まゆこさんに奉仕の心が与えられ、奏楽をしてくださることになったからこそ、始められるわけであり、ケビンもみわちゃんのために、ギターの奏楽に入ったくれたり、ケニーも日本のことを知っているので私のストレスを和らげる役割をしてくれたり、エリックも子どものメッセージや物を運んだりこまごましたところを喜んでやってくれたり。。。。そのようなことを見るときに、私たちは、一つ身体のように動いているのだと感動します。流れている血のようなものが、聖霊様であり、聖霊様が一人ひとりを導いて物事をされているのだと思います。
このパウロの手紙は、このようなキリストの身体である教会にあてて書かれたものです。
◎ ピリピ書のメインテーマ、喜び
ピリピ書全体を通しての主題があります。それは、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」ピリピ4:2
喜びを見失っては、私たちは、天の御国の方向性からそれてしまうからです。なぜなら、喜びとは、天国の通貨、お金のよう。喜びは私たちの報酬です。
ロマ5:3
「それどころか艱難さえも喜んでいます。」Not only that, but we rejoice in our sufferings, (ESV)
ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.
ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 But He said to them, “I have food to eat of which you do not know.”……..34 Jesus said to them, “My food is to do the will of Him who sent Me, and to finish His work.
ヘブル12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。fixing our eyes on Jesus, the pioneer and perfecter of faith. For the joy set before him he endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God.
★教会の喜びの土台。。。教会が一人の人のように働けるのは、それぞれがキリストに繋がっているから。聖霊の交わりがあり、一致と、愛、心を合わせ、志を一つにする。
ピリピ2:1-2
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。Therefore if you have any encouragement from being united with Christ, if any comfort from his love, if any common sharing in the Spirit, if any tenderness and compassion, 2 then make my joy complete by being like-minded, having the same love, being one in spirit and of one mind.
◎ 喜びに至るに不可欠である代価/クオリティ 謙遜
しかし、この教会のピリピの中には問題があったようです。二人のリーダーの間に意見の違いによる確執があったようです。その確執が教会内全体にストレスをもたらしていたのです。パウロは、それについて注意をしなければなりませんでした。
そして、パウロがまず、教えたことは、「謙遜」についてでした。「謙遜」とは、神様から教えられ易い柔かい心です。
ピリピ2:3-4
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。. 3 Do nothing out of selfish ambition or vain conceit. Rather, in humility value others above yourselves, 4 not looking to your own interests but each of you to the interests of the others.
他人と一つ事業を成し遂げるためには、自己中心があっては、うまく行きません。私たちは、相手を一人の神の人として、尊敬し、認める態度がなければいけません。なぜなら、あなただけがキリストの身体ではないからです。ともに働いている意見の必ずしもあわないその人に実は神様が語っておられるのかもしれないからです。自分を通すのではなく、身体全体に語っている神様に聞く姿勢が必要です。
また、虚栄に注意しなければなりません。虚栄とは、外見を飾って自分を実質以上に見せようとすることです。これは、神様の働きの一番の妨げになります。人間の世界で価値のあることは、天国では意味のないことであることが多いからです。どれだけ人を多く集めるかとか、どれだけ有名になるか、どれだけ人に有能に見られるかは、神の世界では全く価値のないことです。
天の国で一番評価されることは、忠実であることです。そして、忠実であるためには、信仰が不可欠です。
◎ キリストに見る謙遜 私たちのお手本
6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。6 Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; 7 rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. 8 And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!
また聖書の他の書では次のような箇所があります。イエス様は、苦しみの先の喜びを目指して、どんなことにも耐えたと。。。
ヘブル12:2 fixing our eyes on Jesus, the pioneer and perfecter of faith. For the joy set before him he endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God. 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
先に述べた通り、教会が志を一つにする、一致する、ゴールを見据えているなら、そこに必ず、喜びがあるのです。イエス様は、苦しみや苦しみを与えてくる相手に焦点を当てるのではなく、その先の喜びを見据えて働かれたのです。
キリストにとっては、大罪人としての恥を着せられ、人々に誤解されることも、そして、罪人として数えられることも、評判を失うことも、地上での地位を失うことも、ものともしませんでした。
それは、ゴールを見据えていたからです。その後にある、輝かしい喜びと、愛する者たちに与えられる素晴らしい約束のために従いとおしたのです。
みえや、自己中心がそこにあったのなら、決して救いの業は私たちにもたらされなかったことでしょう。
★アイデンティティと人生の目的
◎キリストの「謙遜」は、対人であるというより、対父なる神であった。
先日、「武士道残酷物語」と言う映画を見ました。日本人のマインドセットに住み着いている殿様のために死ぬという姿が先祖代々現代に至るまでの姿を描いていました。殿に、娘が取られても妻がとられても残酷な目にあっても、文句を言わす、何もさからえないのです。そこに、セルフエスティームはありません。そこに、喜びはありません。自分のために人を死なせる殿には喜びはあるかも知れませんが、何を言われても、「ありがたき幸せ」と言う、下々のものには喜びはありません。希望もありません。日本人である私たちは、あまりにもこの考えになじんでいます。しかし、このコンセプトを通して聖書を読んでしまったら、間違えてしまうのだと思います。
イエス様は、ゴールめざし、喜びと希望を持ちながら、従いました。
しかし、どんなひどい目にあっても、評判を失っても、アイデンティティを失うことはありませんでした。それは、神の子としてのアイデンティ、そして、神の目的がある、ゴールがあるということ。そして、神の目的を追いかけるには、神には必ずおできになるという、信仰と信頼がありました。
私たちも、教会として、ともに、一つの目的にいく時、喜びを見据え、ゴールを目指し、志一つに、互いに謙遜に一人の人のように喜びながら仕えて行きたいものです。
ぼ
もうすぐ帰国につき、奏楽が今日で最後となった、Mちゃん。。。最後に、ワーシップリーダーとピース! 今まで、ありがとう!
最近のかわいいちゃんは、「写真とる」「写真とる」と言って、私の携帯で、セルフィーを撮ることが流行です。しかも、取った後に、「見る」「見る」と、ちゃんと写っているかチェックします。さすが、女の子!!! 今週二歳になりました。かわいい。。。。。。
2015年8月23日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/dPNd4EsMqmQ
エペソ6:10-20
10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
★神の武具について 守りと攻撃
V11 悪魔の策略に対して立ち向かうために。。。悪魔は、策略を持っています。相手はあなたのことを良く知っていて、どこを攻撃すればいいのかちゃんと知っています。私たちが武具をつける場所は、私たちが守るべきところなのです。私たちは、敵の策略を知って立ち向かうべきです。
◎守り v14-17
・腰には真理の帯…
腰は、全ての動きの要です。またしっかりと腰が安定していければ、戦えません。腰に巻くべきは、真理の帯です。私たちが、物事を判別するときは、必ず真理を軸にしなければなりません。世の考えではありません。
真理を自分の物にするには、私たちのマインドの変革が必要。私たちは、聖書の真理よりも、自分の過去の経験や今まで積み上げてきた信念に基づいて生活していることが多い。聖書の言葉を読むときに、自分の古い生き方、考え方から、聖書の真理に変えられる必要がある。それは、知識として知るだけではなく、聖書の言葉に基づいて行動する時に、真理が自分のものとなる。私たちは聖書の真理を自分のものとしているだろうか。
・胸には正義の胸当て…
相手は、心臓めがけて矢を放ってきます。そこには、正義、すなわち、キリストにある義が必要です。キリストによって私は赦された。神の目に義とされているということが私たちの守りです。敵は、いつも、様々なことにつけ私たちに罪悪感をもたせようとします。罪悪感が一番人をコントロールするのに有益です。もっと、あのようにしたらよかったのだろうか。私のせいだろうか。。。という私たちに罪悪感をもたせれば、あいての思うとおりになって行きます。注意してください。
義とは、キリストと私の正しい関係から来ます。あなたが、良い人間になったら義なのではなく。キリストが私のために代価を払ってくださって、私の義になってくれるから、私たちは、義なのです。ただ、このキリストを信じ、自分の至らなさ、罪を悔い改めなければなりません。そうする限り、私たちは、キリストと正しい関係、義の関係をもつことが出来ます。この関係があるなら、あなたは揺るがされることはありません。罪悪感は、もうあなたをコントロールすることはないのです。
・足には平和の福音の備え…
敵が一番恐れているのは、私たちが霊の子どもたちを産み増やすことです。私たちは、いつでも福音のために動けるように足に福音の備えをはくべきです。敵は、あなたが福音を伝えることをやめるように攻撃してきます。
先週このようなことがありました。
私たちの教会の一室でカウンセリングをしておられるエリック・マイルズさんが、急に私の事務所に入ってきました。「今、少し時間ある? 一緒に祈って欲しい人がいるんだけど。。。」と。私は、「もちろんよ。今行きましょう。」と、会堂の方に行きました。そこには、Dさんという男性がいました。彼は、ホームレスとなっていますが、神様を信じている方でした。
きくところによると、Dさんが道を歩いて、エリックさんの事務所を通り過ぎたとき、神様がエリックさんに、「彼の人生には目的がある、いって話しなさい」と言われたそうです。彼は、その声に従って話しかけ、ランチに誘いました。彼らは、昼ごはんを食べながら、人生について話したそうです。そして、Dさんは、今とても辛い状況にあるけれど、神様を信じている、神様の力が必要だというのです。そして、私を含めて3人で祈ることになりました。
祈り始めたとき、天から滝のように神様の愛がこの男性にそそがれました。男性は、咽び泣きました。私たちも泣きました。神様の愛に感動したのです。神様がどんなに彼を喜んでおられるか、彼の信仰を喜んでいるか祈りました。
彼は、全く違う人のようになり、目は透き通り、輝き、そして、泣きながらいいました。「私は、再び、生まれ変わりの体験をしたようだ」と。「私は、希望が持てる。」と。
この一人の人の従順が、この男性の人生を大きく変えることになったのです。
ホームレスであろう人と、ランチに行くなんて普通は考えないものです。しかし、エリックさんの神様の声に従う柔軟さがそれをゆるしたのです。
これこそが、「福音の備えをはく」ことではないでしょうか。足とは、ある方向に向かってわたしたちを運ぶものです。私たちは、神様の声に従って、そちらの方向に動く用意があるでしょうか。
・これらすべてのものの上に、信仰の大盾…
大盾は、敵の火矢を、みな消すことができます。敵の矢はあなたの頭、胸、胴と足をめがけてやってきます。すべての武具の中で、これさえあれば一番助かるという武具です。信仰の大盾とは、神は生きておられ、信頼するあなたを守ってくれていると信じることです。神に全幅の信頼を置くことです。
なんと、信仰というものは、私たちに休みを与えることでしょうか。。。信仰があれば、どこを攻撃されるのだろう、こうしなければ、ああしなければ、という忙しさから解放されるのです。
・救いのかぶと…
先月も言いましたが、戦いは頭の中でおこります。頭を守っているのは救いです。「私は、キリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.ガラテヤ2:20「救い」でいつも頭を覆っているなら守られるのです。
◎攻撃の方法 v17-19
攻撃のためには、三つあります。
① 御霊の与える剣である、神のみことば
② 祈り
③ 福音の奥義を大胆に語る
攻撃のための武器が、実は、主によつて強められる方法と密接に繋がっているのが分かります。神の御ことばに親しむ、祈る、そして、神の素晴らしさを知れば知るほど、私たちは、人々に伝えたくなってくるのものです。。。
ぼ
日曜日は、主人のエリックの誕生日を教会で祝いました。いつもいろいろと犠牲になってくれて、すまん。。。ありがとう!!!!
エリックがキャンドルをふいているのをみて、この二歳のかわいいちゃんは、「あ、おにーさん、ふぅしてる」と、言っていました。大人の男性を全ておにーさんと呼ぶように教育されています。いい気分にさしてくれます。。。。
2015年8月16日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/a-W_L_Hm1ic
エペソ6:10-20
10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
V12私たちの戦いは、「血肉による戦いではない」、とあります。私たちの生活の中でも、職場や友達、家族などの人間関係や状況で、まるで攻撃されているような、戦いのような感覚をもつことがあります。それは、実際目の前の世界のことだけではなく、実は、霊の世界のことであるのです。
血肉によらないのです。あの人さえいなくなったら。。。と思いますが、あの人がいなくなったとしても解決しないのです。霊的な戦い、背後にいる霊との戦いだからです。
私たちの闘いは、霊の戦い。霊の戦いはどのようにして戦うのだろうか。
神の戦士としての第一歩
★その大能の力によって強められる
私は、最近ボディコンバットクラスに行っています。ボクシング、ムエタイ、空手、ブラジリアンじゅじゅつなどの型を組み入れたエクセサイズです。実際に戦うわけではありませんが、先生は、敵の腰を狙って蹴れとか言います。負けるな、負けるな、Don’t you surrender!! と先生が最後まで励まします。相手を倒すまでやれー! と。。それを聞きながら、神様が教えてくださいました。このように、鍛えていたら、いつどんなことがあっても戦えるのだよ。と。
あきらめない精神力も必要だ。とどめをさすまで戦うのだ。体力も必要だ、技も必要だと改めて思わされました。そして、やっているうちにだんだん、実際何かあった時、素手で戦えるような気がしてきました。。。
みなさん、米軍に入っても同じことです、いきなり、鉄砲を持って戦いの実際の前線に行くわけではありません。まず、体力訓練や、規律命令に従うことを徹底的に鍛えられてからです。エリックは、空軍にいましたし、空軍では、戦闘機に乗っていたわけではなく、グラフィックデザイナーをしていました。しかし、初めの一年??二年?? テキサスでベーストレーニングをしないといけませんでした。
Building confidence 勝てるという確信を強めていく、勝てる精神力・信仰が大切です。
戦いで強かった人といえば、旧約聖書ダビデ王を思い出します。
ダビデは、羊飼いでした。野で、一日を過ごし、羊を守りました。熊や狼が来ても戦い、羊を守りました。ダビデは、必ず神様がともにいてダビデと任された羊を守ってくれると信じていました。
ダビデは、自分を主にあって強めることに長けている人でした。この点で、どんな困難な時も乗り越えることが出来ました。すなわち、神の大能の力によって強められていたのです。
彼は、今日の子どものメッセージのように、詩篇一篇にあるように、神の言葉を口ずさみ、瞑想しました。
また、神を礼拝し、神の臨在の中にすごしました。また竪琴を弾いて神を賛美しました。これが、彼が主にあって強められた方法でした。ですから、ダビデは、巨人ゴリアテを石一つで倒すことができたのです。
今日は、神の武具の第一段階のお話しでした。
皆さんも、神様のベースキャンプに行きましょう。
神様の臨在に浸り、御言葉を黙想し、見えない人を神様の力によって強めていきましょう。。
ぼ
シアトルでは、SeaFair の季節。。連日戦闘機ブルーエンジェルが空でくるくる回ったりする、ショウの練習をしています。しかし、戦闘機っちゅうのは、音がすごいですね。爆音です。礼拝中も何度もゴゴゴーーーと言う音がしました。。。気になる方は、下記のYoutube のリンクからどうぞ。。。
礼拝後、家で預かっている留学生が、前のホストファミリーの家で、ベットバグにたくさん足をかまれてかわいそうで、万が一荷物についてきていたらと、造園屋さんで駆除の薬を買いに。。。。。そこには、カフェや小物屋さん、そして、鯉の池が二つありました! 鯉が立派で、大きい! 感動です。。。。
鯉の池のそばで、コーヒーを飲みながら夕方をまったりすごしました。。。。立派な鯉ちゃんでしょう??
2015年8月2日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/Whs64peT_H4
先週お話しましたマナセ王がユダの国をまた偶像礼拝や他の神々を復活させ、ヒゼキヤ王の改革を台無しにしましたね。。そして、マナセのあと、アモン、そして、ヨシヤが王となります。今日は、このヨシヤのお話しをしたいと思います。
このヨシヤの時代が、今の世の中ととても似ているような気がします。
★神の目にかなう良い王の再来
神様の法則というのは、本当に憐れみ深くできています。マナセは、先祖たちの罪を引き継ぎましたが、ヨシヤは、家系、国に流れている霊的祝福を受け継ぎました。かれは、神の目にかなうことをする王となりました。
Ⅱ列王Kings 22章 1-2
1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。 2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。 1Josiah was eight years old when he became king, and he reigned thirty-one years in Jerusalem. His mother’s name was Jedidah the daughter of Adaiah of Bozkath. 2 And he did what was right in the sight of the Lord, and walked in all the ways of his father David; he did not turn aside to the right hand or to the left.
私たちは、国のリーダーについて憂い、文句をいいがちですが、神様は、必ず霊的な祝福をもった人を送ってくださるはずです。まして、アメリカは、真の神を信じる信仰の遺産が多くあるはずです。聖書では、「祝福は千代に至る」とかいてあります。期待しましょう。
★神の御言葉、聖書との出会い
ヨシア王は、主の宮を修繕するための事業を始めます。それにあたって必要な金を取り出すために、祭司たちを宮に遣わしました。すると、祭司たちがある物を見つけてやってきました。
次の聖書の箇所を読んでみましょう。
Ⅱ列王Kings 22章8-10
8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「私は主の宮で律法の書を見つけました。」と言って、その書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。 9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告して言った。「しもべたちは、宮にあった金を箱からあけて、これを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」 10 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。
8 Then Hilkiah the high priest said to Shaphan the scribe, “I have found the Book of the Law in the house of the Lord.” And Hilkiah gave the book to Shaphan, and he read it. 9 So Shaphan the scribe went to the king, bringing the king word, saying, “Your servants have gathered the money that was found in the house, and have delivered it into the hand of those who do the work, who oversee the house of the Lord.” 10 Then Shaphan the scribe showed the king, saying, “Hilkiah the priest has given me a book.” And Shaphan read it before the king.
祭司たちは、律法の書を見つけてきたのでした。今で言えば、聖書と思ってくださって結構です。
逆に言うと、今まで、祭司たちさえも、聖書を読んでいなかったのか、聖書のある場所すら知らなかったのだろうかと思います。それほど、ユダの国は、他の神々に占領され、人々の心さえも、真の神の教えから遠のいていたのだと言えます。
御言葉に親しむことは、私たちの守りです。先日youtube を見ていて、感銘を受けたのは、立派な説教者、ビル・ジョンソン師や、ロバート・モーリス師も、毎日たくさんの時間を割いて聖書を繰り返し繰り返し、未だに、まるで初心者であるかのように、読んでいることです。この、赤ちゃんが母のお乳をもとめるようなこのみ言葉に対する姿勢。私も見習いたいと思います。
皆さんは、どうでしょうか。聖書を毎日読んでいるでしょうか。み言葉に親しんでいるでしょうか。神の言葉を心に蓄えているでしょうか。これこそ、私たちの最大の守りとなります。
★ヨシヤの変革
さて、この聖書の言葉が一体、ヨシヤ王をどのように変えたのでしょうか。
Ⅱ列王Kings 22章11-13
11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。 12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。 13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。」11 Now it happened, when the king heard the words of the Book of the Law, that he tore his clothes. 12 Then the king commanded Hilkiah the priest, Ahikam the son of Shaphan, Achbor[a] the son of Michaiah, Shaphan the scribe, and Asaiah a servant of the king, saying, 13 “Go, inquire of the Lord for me, for the people and for all Judah, concerning the words of this book that has been found; for great is the wrath of the Lord that is aroused against us, because our fathers have not obeyed the words of this book, to do according to all that is written concerning us.”
◎ 自分の衣を裂いたhe tore his clothes… 神への冒涜を恐れて、嘆く感情を表現するものである。つまり、彼にとっては、悔い改めの態度でした。
神の御言葉は、ヨシヤとその国の、現状がいかに神の標準とかけ離れているかを知らせるものとなりました。V13 で、「私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかった」because our fathers have not obeyed the words of this book, to do according to all that is written concerning usと言っている。
私たちは、みな良い者になりたい。向上したい。今の生き方、状況が良くなりたいと思っています。その第一歩は、ゴールを知ること、自分の向かっている将来を見据えることと、現状を知ることが大切です。ゴールと現状がどんな差があるのか知る必要があります。
ヨシヤは、いかにこの差が激しいかということに直面し、神の怒りがどれほど燃え上がっているかfor great is the wrath of the Lord that is aroused against usということを悟ったのです。
そして、祭司とリーダーたちに、王と国のために神のみこころを求めるように命じました。Go, inquire of the Lord for me, for the people and for all Judah
神の御言葉というのは、私たちを変革させるものです。
まず、私たちの心を変えます。私たちの心に気づきを与えます。私たちの現状とゴールを示します。そして、私たちを神のみこころに近づけます。
私が、初めて聖書の言葉で大変革したときのお話しをしましょう。洗礼を受けて半年が過ぎていました。しかし、なかなか成長しない自分にフラストレーションを持っていました。なかなか、罪から離れられないこともそのフラストレーションの一つでした。
ある時、聖書の御言葉が集会の中で語られました。
「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ人投げ込まれるよりは、よいからです。 If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell.」(マタイ5:29)と言う言葉でした。
この言葉にであったとき、罪のもつ影響と言うものに対して、リアリティをもって初めて実感することが出来ました。その時、自分から罪を犯す部分を切り取ったら、つめの先ほども残らない、けれども、私は、今、切り取ることによって死んでしまってもいいから、イエス様のもとに行きたい。。。と真剣に祈り、悔い改めました。その時、イエス様の十字架の幻を見たのです。そして、あなたが死なないために、私が代わりに死んだのだよ。と語られました。その時、聖霊に満たされ、心が変えられたのです。それからと言うもの、神を昼も夜も求める生活、神様に人生を捧げる決心、将来の神様からの召しなど立て続けに、変革が続きました。
一つの神の言葉がどれだけ人の人生を変えることでしょうか。。。。
★堕落しすぎたのろいの時代にあって
ヨシアは、女預言者フルダのところにこのリーダーたちを遣わし、主の言葉を伺います。その答えは、次の通りです。
Ⅱ列王Kings 22章16-20
16 主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。 17 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。』 18 主のみこころを求めるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、主は、こう仰せられます。19 あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。・・主の御告げです・・ 20 それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。
16 “Thus says the Lord: ‘Behold, I will bring calamity on this place and on its inhabitants—all the words of the book which the king of Judah has read— 17 because they have forsaken Me and burned incense to other gods, that they might provoke Me to anger with all the works of their hands. Therefore My wrath shall be aroused against this place and shall not be quenched.’”’ 18 But as for the king of Judah, who sent you to inquire of the Lord, in this manner you shall speak to him, ‘Thus says the Lord God of Israel: “Concerning the words which you have heard— 19 because your heart was tender, and you humbled yourself before the Lord when you heard what I spoke against this place and against its inhabitants, that they would become a desolation and a curse, and you tore your clothes and wept before Me, I also have heard you,” says the Lord. 20 “Surely, therefore, I will gather you to your fathers, and you shall be gathered to your grave in peace; and your eyes shall not see all the calamity which I will bring on this place.”’” So they brought back word to the king.
ヨシヤの悔い改めと、変革と、国を変えたいという思いと意気込みとは裏腹に、積み上げられてきた神の裁きの時というものは、今回ばかりは変わらないということでした。しかし、ヨシヤの悔い改めの故に、ヨシヤが生きているときには、その裁きは見ないという約束をいただきました。
私は、今の時代について考えさせられるのです。また、特にアメリカのために祈らされるのです。先日、ニュースで話題になっていたショッキングなことがありました。それは、堕胎された赤ちゃんの臓器や肢体を売るという会社があるということです。。。ショックすぎて言葉がでませんでした。以前、中国の会社で、堕胎した赤ちゃんを調味料にして、アメリカに売っている。また、美容液として売っているということは聞いていました。自分の都合、わがままで神様からあずかった命である赤ちゃんを殺し、そして、それを若返りや、自分の病気のためにその命の犠牲の重さも考えずに使うなんてひどすぎる。。。殺された赤ちゃんの意思や人生の目的が無視されて、踏みにじられている気がしてなりせんでした。。。
世の中どれだけ、堕落しているのだろうと思わされました。
また、一方で、いろいろな国で、イエス様に出会い、変えられて行く人生、変えられて行く国があります。特に伝道が難しいといわれるイスラム圏では、夢で直接イエス様にであって、救われるという証しを多く聞かれます。また、イエス様の奇跡がさまざまなところで起きています。
今は、神様の力が現れている素晴らしい時代とも言えます。
しかし、この悪と神様の栄光が両極端にある時代でもあります。
ヨシヤの時代その様ではなかったでしょうか。
堕落しきった、国。罪の影響が重く、神様のみこころが踏みにじられている時代。しかし、ヨシヤのように、悔い改め、神様に立ち返り、みこころを求めようと人々に影響を与えていく姿。。。
これこそ、私たちが取るべき生き方ではないでしょうか。
これこそ、神様に対して忠実に生きることではないでしょうか。
まず、聖書の言葉に立ち返りましょう。
もう一度、御言葉に、幼子が乳をもとめるように、慕い求めようではありませんか。
ぼ
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