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ヒゼキヤの死-ユダの滅びの足音。。Death of Hezekiah

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礼拝の前日土曜日は、留学生たち... 礼拝の前日土曜日は、留学生たちを連れてスクイムのラベンダー畑めぐりに行きました。みんな、楽しくラベンダーを摘みました。5ドルです。 天上に吊るされたハンモック式プ... 天上に吊るされたハンモック式プランコ。気持ちよかったですが、一時間くらい乗ってたら、よいそうになりました。。。笑 とっても綺麗なラベンダー畑。い... とっても綺麗なラベンダー畑。いい香り。帰りの車の中も、いい香り。おかげで、眠くて運転がしずらかったこと。危ないよーー。
ヒゼキヤの死-ユダの滅びの足音。。2015年7月26日日曜日礼拝音声http://youtu.be/6YgP4nHH1wA 

2列王記20:1 
そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」 In those days Hezekiah was sick and near death. And Isaiah the prophet, the son of Amoz, went to him and said to him, “Thus says the LORD: ‘Set your house in order, for you shall die, and not live.’”

◎死の宣告

ヒゼキヤ王は、ある日、預言者イザヤから死の宣告をされます。「もう必ず死ぬから、家を整理しなさい」と、神様からの言葉をいただく。これが、ヒゼキヤ王とユダの国の最大の試みとなった。
人間はいつか必ず死にます。しかし、自分の死期を宣言されるとき、自分の死期を悟る時に、人は、どんな行動をとるのでしょうか。一番、生き方を試されるのではないでしょうか。
みなさんが、今、神様に死の宣告を受けたら、一体何をするでしょうか。少し、考えてみましょう。例えば、来週死ぬとしたら、何をしたいですか?

◎命乞い 

ヒゼキヤ王、神に命乞いをし、寿命が15年延ばされる。しかも、その確証のしるしまで与えられる。神様は、なんと憐れみ深いかたなのでしょうか。心から神の前に祈る祈りに答えてくださいますね。。ヒゼキヤ王は、その十五年をどのようにして生きたのでしょうか。

◎ヒゼキヤは家を整理したのだろうか?

人は、いづれ死にます。神様は、わざわざイザヤをヒゼキヤに遣わして、死期を伝え、死期が限られているので、しなければならないことをわざわざ教えていたのでした。それは、きっと大切なメッセージだったはずです。しかし、ヒゼキヤは、そのメッセージのうち、自分の死期にフォーカスを当ててしまいました。寿命を延ばしてもらうことに集中し、神様の本来の死期を伝えた目的を見逃していたのです。

・バビロンからの使者   2列王記20:12-19

ヒゼキヤがもう死ぬらしいということを聞いてバビロンがユダに使者を送る。そして、驚くことにヒゼキヤは、

V13  ヒゼキヤは、彼らのことを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。And Hezekiah was attentive to them, and showed them all the house of his treasures—the silver and gold, the spices and precious ointment, and all[b] his armory—all that was found among his treasures. There was nothing in his house or in all his dominion that Hezekiah did not show them.

その後、イザヤに、それらの財産は何一つ残されずバビロンに運び去られると預言されます。ヒゼキヤは、自分の家を整理するどころか、自分の栄誉に酔いしれ、富を自分の勲章として保管しておいたのです。ですから、それをわざわざバビロンの使者に自分の偉大さを示すために見せたのです。もう、死期が近づいているのに、なんと愚かなことでしょうか。

2歴代誌にこのことに関して次のような記事が残っています。

2歴代誌32:24

ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。In those days Hezekiah was sick and near death, and he prayed to the Lord; and He spoke to him and gave him a sign.

2歴代誌32:31

バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。However, regarding the ambassadors of the princes of Babylon, whom they sent to him to inquire about the wonder that was done in the land, God withdrew from him, in order to test him, that He might know all that was in his heart.

・息子マナセの悪行  Ⅱ列王記21章

 彼が命乞いをし、寿命が延ばされてから、生れた子マナセが、彼の死後王となります。そのマナセは、ヒゼキヤの宗教改革を台無しにし、高きところを築きなおし、バアルのために祭壇をたて、アシェラ像をつくり、天の万象を拝み、これに仕え、自分の子どもに火をくぐらせ、卜占をし、まじない、霊媒、口寄せをし、神の怒りを引き起こします。

2Kings21:3, 6
For he rebuilt the high places which Hezekiah his father had destroyed; he raised up altars for Baal, and made a wooden image, as Ahab king of Israel had done; and he worshiped all the host of heaven and served them. 6 Also he made his son pass through the fire, practiced soothsaying, used witchcraft, and consulted spiritists and mediums. He did much evil in the sight of the LORD, to provoke Him to anger.

ヒゼキヤは、アッシリアに対する神の奇跡の勝利、また寿命が15年も延ばされるという奇跡を体験しました。その15年の間、一体何をしていたのでしょうか。
マナセには、ヒゼキヤの神のことも、信仰も何も伝わっていなかったのです。
一代で、ヒゼキヤが立てあげた成功も、改革もみな台無しとなりました。

今日の神様からのメッセージは、ここにあるのではないでしょうか。
新約の私たち、キリストを信じる者には、天国に行くこと、永遠の命を与えられることが約束されています。私たちにとって、死は、永遠の命への入り口であり、自分にとっては、命の本番に入ることであります。怖いことでも、悲しいことでもなく、むしろ、楽しみであり、喜びであります。

しかし、私たちがこの地上にいる意味は何でしょうか。何かをこの地上に残すべくこの地上に存在しているのです。

それは、霊的な祝福を残すということです。富や財産は、天国に持っていかれません。富や財産があっても、何の足しにもなりません。むしろ、天国で待っているのは本当の富です。

聖書では、富を天に蓄えなさい。と書いてあります。 虫もこないし誰も取らない
また、天国では、報酬が待っています。その報酬は、地上でどれだけ忠実に生きたか、ということが目安となります。人と比べてどれだけ大きなことをしたかではありません。

人それぞれ任された、タラントをどれだけ忠実に用いたかということになります。人より能力が多く与えられていたり、富が多く与えられている人は、それに見合うことを神様は求められています。

ヒゼキヤは、残念ながら、富を地上の自分の蔵に蓄えました。それが、彼を高慢にしました。

また、霊的な祝福を自分の子どもに与えることを忘れてしまいました。
これこそ、「自分の家を整理する」という本当の意味ではないでしょうか。自分の家系から、徹底的に、罪の根を根絶すること。偶像礼拝の根を抜き去ること、ここに力を注ぐべきではなかったでしょうか。

ヒゼキヤの息子マナセにより、最終的にユダは、北イスラエルのように滅ぼされることになります。一見、マナセがユダの悪の根源のように見えますが、これは、前もって、神から宣告を受け、前もって、家を整理するように教えられていたヒゼキヤの不忠実ゆえではないでしょうか。

私たちも、今日の聖書箇所から学び、神様の声に注意深く聞き、そして、最後まで忠実に従うものでありたいものです。


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信頼=勝利 Trust to the Victory

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土曜日は、主人の同僚の結婚式で... 土曜日は、主人の同僚の結婚式でした。変わった服装できてくださいとのことで。。。。私は浴衣、主人はじんべいさんを来ました。暑かったです。。。。浴衣は、珍しいのか、みなさんに喜んでいただきました。

あ、他の方々は、ハロウィンさながらでした。。。ファラオや、クレオパトラとか、いろいろなキャラクターが。。。。

2015年7月19日日曜日音声Bilingual Audio is from..http://youtu.be/8i1jOJlkfd0

2列王記18, 19章 

今日は二章にまたがり長いので、みなさんお家で読んでこられたと信じて、話しながら、ところどころ読んでいくことにしたいと思います。
アッシリアがイスラエルを滅ぼしたことは、先週お話ししましたね。今日のお話しは、南ユダのお話しです。アッシリアが北イスラエルを滅ぼした時、その同じ時期に南ユダでは、ヒゼキヤが王でした。ヒゼキヤ王は、主の目にかなうことを行う良い王でした。

2列王記18:3-7
彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。5 彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。6 彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。7 主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。

ヒゼキヤは、真の神以外のものは、全て排除し、神に信頼していました。
アッシリアがサマリアを包囲。

★言葉による戦い

アッシリアは、ヒゼキヤに使者ラブシャケを送り、ヒゼキヤとユダの人々を言葉で操作しようとする。これが、ヒゼキヤにとっての信仰の試練となりました。みなさん、私たちの霊的戦いのほとんどが言葉の戦いなのであります。しかも、私たちの頭の中で起こっているのです。霊的戦いと言いましたが、実は、霊的、また現実の目の前の世界というのは同じなのです。頭の中で勝利することは、現実の世界で勝利することであるのです。

◎敵の言葉   V17-25

誰に信頼するのか?

V18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフが、彼らのもとに出て行った。And when they had called to the king, Eliakim the son of Hilkiah, who was over the household, Shebna the scribe, and Joah the son of Asaph, the recorder, came out to them.
V19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。Then the Rabshakeh said to them, “Say now to Hezekiah, ‘Thus says the great king, the king of Assyria: “What confidence is this in which you trust?

ヒゼキヤの宗教改革についてなんくせをつける。過去の功績に疑いを持たせてくる。

V22おまえたちは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む。』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか、と。 But if you say to me, ‘We trust in the LORD our God,’ is it not He whose high places and whose altars Hezekiah has taken away, and said to Judah and Jerusalem, ‘You shall worship before this altar in Jerusalem’?”’

アッシリアと取引をしようという。

V23-24 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。Now therefore, I urge you, give a pledge to my master the king of Assyria, and I will give you two thousand horses—if you are able on your part to put riders on them! 24 How then will you repel one captain of the least of my master’s servants, and put your trust in Egypt for chariots and horsemen?
ユダの軍隊が小さいから、どうせ負けるんだから、馬をあげるからついて来いと。
ユダを滅ぼすために主に遣わされたとまで言っている。V25 アッシリアに身を任せることのほうがみこころなんだと説得しようとする。

また、本当に信頼しているのは、エジプトか? と、続いてラブシャケは言っている。イスラエルが近隣の大国エジプトと仲良くして自分たちの有利に働くようにしてることをついてきている。神様に信頼している割には大国と仲良いですね。。。的な。

さあ、私たちの頭の中でもこのようなことがよく起きるのではないでしょうか。自問自答しながら、自分自身を傷つけたり、くさしたり、後悔したり、他のオプションを探ってみたり。。。

そして今度は、民に聞こえるようにラブシャケは話し始める。民の心を奪おうとしたのです。アッシリアに従ったら、生活が楽になるぞー。。今まで、神々の助けで、今までアッシリアに勝った国があるのか? と北イスラエルでたくさんの偶像がありながら、アッシリアに滅ぼされたことをいやみたっぷりに言っているのであろう。

◎敵の言葉には、相手にしないことが一番の戦略である   

 『彼に答えるな』

V36  民は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな。」というのが、王の命令だったからである。 But the people held their peace and answered him not a word; for the king’s commandment was, “Do not answer him.”

英語では、民は「平安を失わず」と書いてある。私たちは、言葉の挑戦にこたえることによって怒りや苛立ちなどといった感情がでてきて、気持ちが揺らぐ。揺らぐと神様への信頼がいつのまにかそっちのけになってしまうことはないだろうか?

★祈りによる応戦

19章 ヒゼキヤは預言者イザヤに伺いをたてる。すると、イザヤは、ヒゼキヤに祈るように指導した。軍事力をもちいたり、政治的な力は一切関係なかった。神様に祈り、神様のところに自分の重荷すべてを委ねることだった。

ヒゼキヤは祈った。そして、神様は祈りを聞かれた。神様からの返事は、イザヤに来た。

「神様がユダを救う」という約束をいただいた。

祈りは、霊的な世界と肉眼で見える世界をつなぐものであり、天国を地にもたらす働きがある。また、神様に私たちの重荷をあずけ、私たちが休むことができるものである。心に平安を与えるものである。

ピリピ4:6,7
  何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。Be anxious for nothing, but in everything by prayer and supplication, with thanksgiving, let your requests be made known to God; 7 and the peace of God, which surpasses all understanding, will guard your hearts and minds through Christ Jesus. 

と、新約聖書にある通りに、私たちの心と霊的な戦いの戦場である頭の思いも守ってもらえます。

マタイ11:28
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 28 Come to Me, all you who labor and are heavy laden, and I will give you rest.

これは、イエス様の言葉です。もしも、重荷や悩み、頭の中の戦いがあるなら、イエス様のところに行きましょう。そこには、休みがあるからです。

祈りとは、そのようにあなたの重荷をそのまま神様のところに持っていって、神様にお渡しすることです。自分の肩にはもう重荷をなくして、手の中を空っぽにすることです。

現に、ヒゼキヤは、その後、敵から手紙がとどきますが、それを神様の御前に祈りをもって、持っていっています。

さて、約束の成就が奇跡的に起こりました。

★主の勝利

2列王記19:35 その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。 35 And it came to pass on a certain night that the angel of the LORD went out, and killed in the camp of the Assyrians one hundred and eighty-five thousand; and when people arose early in the morning, there were the corpses—all dead.

驚くべきことが起こります。ヒゼキヤとユダの軍が実際に戦わずに、ユダがしかも眠っている間に全てが終わっていたのです。

★主に信頼することは、あなた方を休ませ、安息に入らせ、しかも、勝利を得させる。

北イスラエルは、真の神ではなく、偶像礼拝をやめなかったので、アッシリアに滅ぼされました。しかし、小さいユダは、主に信頼して勝利しました。

聖書の中にも、詩篇 127:2b 「主はその愛する者に、眠りを与えられる」とあります。

また、神様が創造された、植物は、夜の間に、花や実、芽を大きくします。また、人間も、寝ている間に、成長ホルモンがでて、筋肉が癒されたり、つまり、筋肉はその間に大きくなるんでしょうね。身体の中の器官が回復するようにしてあります。
なんという神様の知恵でしょうか。頼っていいのです。この世の中は人に頼らないことがかっこいいというマインドセットがありますが、神に頼ることは、別です。私たちは、ヒゼキヤのように、人になんと言われようと、どんな疑いの言葉がやってきても、神様に信頼するものになりたいと思います。

さあ、今日は18,19章から何を学びましたか。

私たちの戦いが頭の中で起こっていること。けんか、敵の攻撃を買わないこと、信頼し続けること。敵と口論するより、心を騒がせるよりも祈ること。神が祈りを聞かれること。そして、神が私たちを休ませ、私たちが眠っているうちに私たちの代わりに戦われること。これが私たちの勝利です。主に信頼してゆったり眠れるほどでありましょう。


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北イスラエルの滅亡 A Trap of Idolatry

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もうすぐ帰国のともちゃんのため... もうすぐ帰国のともちゃんのために、セバスがカスタード・ブリオッシュという美味しい焼き菓子をつくってくれました。嬉しいともちゃんの笑顔。 えまちゃん家族とともちゃん。と... えまちゃん家族とともちゃん。ともちゃんは、天使のような二歳児えまちゃんとよく遊んでくれました。ちなみにお父さんは、天才ベーカリーです!!
2015年7月12日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/-6vxakpjOBw

Ⅱ列王記17:7,8 7
こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。

Ⅱ列王記17:12-18
12 主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。16 また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。18 そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。
出エジプト記21:1-6 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

さて今週のお話しは、いよいよ北イスラエルが滅亡してしまう場面です。時は、BC722年。王は、ホセア王となります。しかし、アッシリアに捕らえ移され、国は滅びてしまいます。聖書は、その国の滅びた理由は、こうであるというところから学びたいと思います。現代のクリスチャンの私たち、特に日本人である私たちに非常に学ぶべきところが大きいと思っています。

★ 北イスラエル滅亡の原因は偶像礼拝にあった。Ⅱ列王記17:7,8

前にも話しましたが、そもそも、北イスラエルができたのは、ヤロブアムによってでした。そして、このヤロブアムが金の子牛をべテルとダンに作って祀り、神としました。
それというのも、ソロモンが妻たちの神々をイスラエルの中で礼拝させることを許したことからの影響があった。

金の子牛の由来; 出エジプト記32章で、モーセが山で神とあっている時に、民の不安をおさめるために、アロンが金の子牛をつくって、「これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。金の子牛信仰というのは、その時代からその地域に存在していたようだ。古く根強く残った人がつくった神であったのだ。それをヤロブアムがまた担ぎだしたということだ。

◎厄介な神観のすり替え The replacement of view of God; 

子牛をわざわざエルサレムに行って礼拝しなくても、地域で拝めるお手軽な地方の神とした。目に見えない神を見える神にした。
信仰とは、目に見えない事がらを確証させるもの。目に見えるなら、本来信仰はいらない。「神は、霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによつて礼拝しなければなりません。」God is Spirit, and those who worship Him must worship in spirit and truth.ヨハネ4章24節

◎信仰のすり替えが起こっている The replacement of faith。。。。。
一体何のために礼拝するのか?

V12-18 にいろいろな神々が出てくるが、それらを人々が拝んだのは、豊穣、繁栄、安全を願ってのことであった。願いを持つことは、自然であり、悪いことではないが、
我々の神は、豊穣を願って拝む神ではない。拝むことと引き換えに、何かを得るのではない。私たちが、神の言葉に従い、神を愛して生きるなら、願わなくても豊穣が付いて来るのだ。命、健康、繁栄、農業的な豊かさ、安全、尊敬そのようなものがついてくる。

例) フィジーのリバイバル。。。国のリーダーが罪を悔い改め神に立ち返る。人々が悔い改める。今まで不作だった農地が豊かに実りだし、魚がいなくなった海に魚たちが戻ってきて大漁となった。90年代に話題になった出来事であった。

〇さまざまな神々との共存  v12-18
北イスラエルには、ヤロブアムだけではなく、様々な神々が拝まれていたようです。
V12-18にも書かれていますが、アシェラ像、金の子牛、天の万象(太陽、星、月), バアル、子どもをいけにえにするモレク。その他にまじない、占い。。。
もういろいろな神々が共存していた。しかも、まことの神、ヤハウェも民の意識の中ではそれらの神々とミックスされていた。

日本の霊的状態に似ているではないでしょうか。

北イスラエルのこの神々は、豊穣を願って祀られたものである。ご利益があるというので拝むのだ。

◎偶像礼拝とは

 1) 天地を創造した神が禁じている。出エジプト20:1-6

2) 人間のわがままの表れである。

  神よりも自分が大事になるとき、偶像礼拝の罪の陥ることを覚えておこう。今すぐに、自分の願いをかなえて欲しい。これが偶像礼拝の根の思いではないでしょうか。もしも、自分の夢や、願い、あるいは、問題や心配ごとが神様の存在よりも自分の中で大きくなってしまったら、それはもう偶像礼拝になっているのです。この問題さえ解決されたら、私は幸せになれるのに。。。私の夢がかなったら私は幸せになれるのに。。。という具合に、あなたの夢や問題があなたの気持ちを全て支配するようになります。本来は、神がともにいて下さったら、幸せであるはずです。。。

 3) 悪霊との契約関係である。 V35, 38 契約を結び。。。結んだ契約を忘れてはならない。。。。

人間が手でつくった木や、石、あるいは金が本当に神なのでしょうか。背後に霊がいるのです。もと僧侶の松岡先生が以前おっしゃっていましたが、仏像は、出来立ては、ありがたくないそうです。何10人もの僧侶が何日も拝み倒さないし、霊が入らない、ありがたくならないのだそうです。

すなわち、私たちが拝まなければ、その像は、何の力も持たないのです。しかし、あなたが手を合わせて、拝んだとき、あなたの人生と背後にいる霊と契約ができてしまうのです。
個人的な経験から、この契約を解除せずにいるなら、クリスチャンになっても成長が妨げらると言えます。

日本には様々な神々、八百万の神がいるとされているが、天地万物を創造した神は、世界にただ一人です。その方は人間の手でつくった住まいに住まわれるような方でもなく、毎日供え物を当てにする方でもありません。

★ 現在の私たちが学ぶべこと

北イスラエルは経済的にも政治的にも安定していた。しかし、霊的には、大きな神の怒りを積み上げていくこととなった。

ご利益をもとめて、悪霊と契約関係をいくつも持っていたイスラエルの民は、結局、自分の思うとおりの人生を生きたい、違う言葉で言えば、自分のエゴから、神をつくりあげ、それを拝むことで、それを実現させようというのです。
また、背後に働いている霊は、神の座を奪いたい。人間に崇拝させたいと思っているものたちですから、それをかなえてやるから、拝め拝めとやってくるのです。悪霊にとっては、人間に拝まれることがたまらなく好きなのです。
 一方、天地を創造された真の神は、私たちに拝むことを強要されません。また、拝むならよいものをあげようと言われる方ではありません。私たちの心が神に向けば、全てはついてくるのです。

◎ 福音。。。真の神様との契約とは信じることのみ

有名な新約聖書の箇所を開いて見ましょう。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
福音は、ただ。神様の救いはただです。罪が赦されることも、天国にいけるようになることもただです。ただ、信じることが求められます。そして、心からの改心、悔い改めが必要です。そして、心が変わった人たちは、神様の大きな愛にふれられ、さらに変えられ、この神様に生涯ついていきたいと思うのです。これは、律法でなく、愛の生き方です。

偶像は、人のわがままの心のあらわれですが、天地を創造された神を信じて生きることは、愛に根ざすことなのです。




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神の人エリシャの死 Death of Elisha, a Man of God

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7月4日土曜日は、アメリカ独立... 7月4日土曜日は、アメリカ独立記念日。教会では、毎年恒例のピクニックへ行きました。暑かったです。赤ちゃんたちは、日陰でのーんびり。 学生たちも5名参加。なんと、彼... 学生たちも5名参加。なんと、彼らは、ずりの焼き鳥を野外バーベキューでグリルしました。。。焼き鳥なんていう発想は、在米もうすぐ10年の私にはありませんでした。。。。 毎年恒例のお手製ウォータースラ... 毎年恒例のお手製ウォータースライダー。子どもも大人も楽しみました。来年、皆さんもいらっしゃいませんか?
2015年7月5日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/c2siR0pg4Ik

Ⅱ列王記13:14-21
14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んだ。15 エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい。」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。16 彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい。」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、17 「東側の窓をあけなさい。」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」18 ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。21 人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

今日のお話しは、預言者エリシャの最期のお話しです。彼に、死期がせまっている時でした。この神の人の最期から私たちは学んで行きたいと思います。

① 最後まで神の働きを全うしたエリシャ

イスラエルは、先週話したヤロブアムの罪を犯し続けていました。そして、ここで現れる王ヨアシュも例外ではありませんでした。彼らは、イスラエルの真の神は天地を創造した神であると知っていながら、ヤロブアムの罪を金の子牛信仰をすてずにきていました。それが故に、敵国アラムSyria に悩まされることとなっていました。
エリシャの死が近づいていることを知り、王はエリシャにあいに来ます。金の子牛信仰は何も助けにならないからでしょう。
神の人エリシャは、身体が弱りはて、死が近づいていようとも、これに応対しました。彼の使命は、イスラエルのための神の預言者だからです。引退はないのです。息のある限り、使命を全うしています。
また、身体が弱っていても霊は全く弱っていないということも見ることができます。
私たちも考えさせられます。年がいくから引退するのか、神の定めた時まで働くのか。霊の働きには引退がないのです。もしも、私は年で元気がないから何もできないと思っている人があったら、本当は、身体ではなく、目に見えない内なる人、霊が元気がないのかも知れませんね。

② 御言葉への応答の仕方を教えたエリシャ

さて、エリシャは、預言者でした。預言というのは、言葉を預かると書きます。そのとおりの働きです。神の言葉を受け取って、預かって、それを発信することです。自分の言葉を発信することではありません。
そして、皆さん、預言の働きには、様々な形がありますが、その一つに物事を造りだすという働きがあります。聖書の一番初めに、神が「光よ、あれ。」と言われ、そして光ができました。という記事を覚えていらっしゃいますか。神は、そのようにご自身の発する言葉によって世界を創造されました。
神の言葉を発信されるときに、物事をつくる力がこめられているのです。まるで、種のようです。種自体は、小さく丸っこく、それが花の形でもなければ、どんなフルーツができるのか、種そのものからは創造できません。しかし、時間がたって、正しい土地に植えられ、水がまかれ、太陽がそそがれていく時に美しい花が咲き、おいしいフルーツができるのです。
神の言葉もそのようなものです。

エリシャは、尋ねてきたヨアシュに面白いことをさせましたね。V15-19をもう一度見てみましょう。

15 エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい。」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。16 彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい。」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、17 「東側の窓をあけなさい。」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」18 ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」

矢を射るように言われました。そして、彼がその通りにすると、「それは勝利の矢だ」といいます。これは、預言的行動Prophetic Act といいます。神様に言われて、このように象徴的に行動してみる時に、その人に何かが起きます。神様の言葉が実感として心に入ってきます。

私も、アメリカにきて間もないころ、まだ心が疲れていてたくさん傷ついていたとき、礼拝中に神様に踊るように示されました。私は、日本人クリスチャン、礼拝中に踊っている人なんか今まであまり見たことがない。また、踊るような楽しい気分にもなれない。。。今、言われていることは、馬鹿馬鹿しく自分には感じる。。。しかし、その声が私のうちに消えないので、思い切っておどってみました。馬鹿みたいだと思いながら従いました。すると、私を縛っていた宗教の霊がばらばらと地面にたたきつけられて私から離れていくことを感じました。それ以来、霊的に自由になりました。縛り付けられていた霊が解放されました。このように、Prophetic Act預言的行為 には力があるのです。

ヨアシュも、弓で矢を射って見て、まだ戦える。しかも、これは、勝利のための矢だということを実感できたのではないでしょうか。

神様の勝利の約束を渡した上で、そのあと、エリシャは、続けて言います。「矢で、地面を打ちなさい。」と。ヨアシュは、三回打って、やめてしまます。そして、エリシャは、もっと打つべきだった。あなたは、三回しか勝利しないと言われます。これは、どんな意味があるのでしょうか。

神様は、良い方です。また、良い約束を私たちに下さる方です。先ほども、神の言葉は種のようだといいました。神の言葉には力があります。しかし、受け取る側には、それを信じることが要求されます。私たちは神の畑です。神の協力者であると新約聖書でもいわれていますね。
ヨアシュは、敵を打ちのめすまで神とともに戦うぞー! と言う気持ちで地面を打ち続けることはせず、この程度でいいかというような態度です。神様ととことんまで、戦うぞーという気持ち、信仰が薄く半信半疑だったのでしょう。
信じるならば、その通りとなります。ヘブル11:1 あなたが心の中で見るなら、それはあなたのものになるのです。

③ 最後まで主の器として用いられたエリシャ v20-21

エリシャは、死んで葬られました。その時、モアブの略奪隊がよくやってきていた。ある死人を墓に葬ろうとしていた時、また略奪隊が来たのであわてて、エリシャの墓に放り込んだら、その人がエリシャの骨に触れると、生き返ったというのです。
エリシャは、死んでいます。エリシャは、神の器でした。外側は、新約である通りに土の器でした。やがて土に返るようなもろい器です。しかし、内側に宝が入れられていました。神の霊が彼に臨み、神の働きをしていました。
また、死んだ後でさえも、その臨在、神の霊が残っていたということではないでしょうか。しかも、人が生き返ってしまうほどの命です。。。
私は、思うのです。そのような器になりたいと。よく大きな器などと、よく用いられている有名な先生を表現することがあります。
が、エリシャは、神の霊をたくさん運ぶことができた大きな器だったのだと思います。
その器を広げるには、神の臨在に浸り、神の言葉に浸り、神と時間をすごし、神を個人的に知ることであり、神の言葉を実行することです。
そうする中で器というのは、広げられていくのです。死んだ後でもまだ、神の業が起こるとは、素晴らしいことです。

どんな形にしろ、私たちも、自分の死後にまで、神の祝福を流せるようなそんな器に成長していきたいものです。

お祈りしましょう。


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ヤロブアムの罪 Sin of Jaroboam

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土曜日は、たこ焼きパーティをし... 土曜日は、たこ焼きパーティをしました。留学生さんや子どもさん連れのご家族が楽しく集いました。関西人の血が騒ぎました。おしいかったですーーー。 新しく始めて教会に来られた学生... 新しく始めて教会に来られた学生さんたちが今回は、五名おられました。学校の勉強に励んでおられます。すこしですが息抜きを提供できて良かったです。。。
2015年6月28日日曜日バイリンガル礼拝Audio....http://youtu.be/ZtXxIbDX8Fc

Ⅱ列王記Kings 9, 10

エリシャはエフーを王として油そそぐために預言者のともがらを遣わします。そして、このエフーが、大胆な宗教改革をし、エリシャの預言したことがその通りになります。今日は、このエフーのお話しです。次の箇所を読んでみましょう。

Ⅱ列王記Kings 9:6-10

エフーは立って、家にはいった。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしは、あなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。7あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復習をする。8それでアハブに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまでを、イスラエルで断ち滅ぼし、9アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。10犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、誰も彼女を葬る者がいない。』」こう言って彼は戸を開けて逃げた。

そして、その通りになりました。エフーは、また Ⅱ列王記Kings 10:11にあるように、アハブの家に属する者を皆殺しにしました。また、Ⅱ列王記Kings 10:18 から、エフーはもっとバアルに仕えるつもりだと、バアル信者を騙して集め、皆殺しにした。徹底的に、イゼベルが持ち込んだ悪、を根絶やしにしたのです。
エフーは、神様からの使命をことごとく全うしました。そして、神様にこのように言われました。

Ⅱ列王記Kings 10:28-31

このようにして、エフーは、バアルをイスラエルから根絶やしにした。29ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、べテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。30主はエフーに仰せられた。「あなたは、わたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」31しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。 

エフーは、神の目にかなって、神のことばどおりによくやり遂げたとほめられています。が、ヤロブアムの罪から離れませんでした。31節に「心をつくしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず」とあります。

エフーのお話しから私たちが学ぶべきこと

① まことの神との関係 vs パフォーマンス指向(自分の行動で愛を稼ごうとする指向)
エフーは、王として神に言われたことは、やりましたが、自分の生活の中には、神を招いていませんでした。宗教家、または、王としての顔と、一人の人エフーとしての神の前の顔は違っていたのです。
私たちが、自分の生活の中に神様を招くときに、本当の実が実る。ヨハネ15:5に書いてあるとおりです。

ヨハネJohn 15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。5 “I am the vine, you are the branches. He who abides in Me, and I in him, bears much fruit; for without Me you can do nothing.

私たちと、イエス様の関係は、神様に言われたことを全て守って、言われたとおりのことをやったから、つながりができるのではありません。根底に流れているのは、愛です。イエス様がまだ私たちが罪人であったときに、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちに愛をしめしてくださったので、私たちは、その愛に触れられ、感動して、この愛に応答する。これが私たちの神様への愛となります。そして、イエス様の愛と私たちの応答の愛が私たちと神との関係となります。

「とどまる」ことの意味はなんでしょうか。それは、その、愛にとどまり、休む、安息することです。自分を打ちたたいて宗教的になることでも、良い人間になろう、成功した人生を送ろうとおもってあくせくすることでもありません。神の愛に感動し、心から応答している限り、人生のなかに多くの実りがなるのです。
エフーは、バアルの神とそれに付く者を徹底的に取り除くことはしたが、神の愛の中にはとどまっていなかったのです。

新約聖書に次のような言葉があります。

ⅠコリントCorinthians13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません。3 And though I bestow all my goods to feed the poor, and though I give my body to be burned, but have not love, it profits me nothing.

どんなに、物事が良くできて、立派であっても、愛がなければ何の役に立たない。と。
エフーは、使命に関しては、情熱があったのかもしれませんが、真の神に対する愛がありませんでした。神様との愛の関係、個人的な関係がありませんでした。

②  ヤロブアムの罪というfamiliar Spirit (私たちが盲目になっている罪)

イスラエルが分裂して北イスラエルと南ユダとなったことは、皆さんご存知だと思います。そして、どのようにして、北イスラエルができたか、ご存知でしょうか。北イスラエルのはじめの王は、ヤロブアムです。彼は、ソロモンの家来でありましたが、ソロモンに反逆しました。ソロモンの子レハブアムが王となったとき、これが南ユダのはじめの王ですが、北イスラエルとなるべく人々が、ヤロブアムを担ぎ出して北の王としたのです。このヤロブアムは、独自の宗教をつくり、山に祭壇をつくり金の子牛を祀りました。そして、それに仕える祭司たちを任命して、新しい言わば”ヤロブアム教”新宗教の教祖にもなったわけです。これが北イスラエルのはじまりです。ですから、エフーは、六番目の王となりましたが、北イスラエルにとって新しいバアルの神は成敗しても、北イスラエルはじまったときにあったヤロブアムには盲目となっていたのです。
罪、というのは、このように伝承され、またそのコミュニティにいる人たちの心を麻痺させるものです。これが、Familiar Spirit というのです。
私たちは、なかなか、この罪が罪であると気がつかないことが多いのです。そして、これが妨げとなって、多くの実を結ばない、本当の意味で人生に実りをもたらすことができない障害となることが多いのです。

私たちのうちにもそのような罪がないでしょうか。
たとえば、本音とたてまえというのは、日本では自然なことですし、日本人的には一種の相手への配慮、やさしさであったりしますが、他の国ではそれは不誠実であり、うそであり、罪と捕らえられます。
また私たちの育ってきた家族の中で当たり前であったことであればあるほど、その間違えに気がつかなかったりします。

例) 国・文化
  家系・家族
  
③  神に立ち返ること、主を恐れること

箴言Proverbs 22:4 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。 By humility and the fear of the LORD Are riches and honor and life.

わたしたちのうちには、ヤロブアムの罪はないだろうか。聖霊様に示していただきましょう。

神様の愛、イエス様の愛に帰りましょう。今日は、今から聖餐の時を持ちたいと思います。自分自身をイエス様の前に吟味し、悔い改めるべきことがあれば、悔い改め、イエス様の身体と血潮にともにあずかっていきましょう。


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霊的戦いの戦略 The Strategy of Spiritual Battle

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礼拝後 最近は、小さいお子さん... 礼拝後 最近は、小さいお子さん連れの方が増えています。。そろそろチャイルド・ケア、教会学校が必要です。わー。教会らしくなってきたなぁ。
2015年6月21日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/j6zFj4Fjs0o

Ⅱ列王記Kings 6:8-22

6アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」9そのとき、神の人は、イスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこはアラムが下って来ますから。」10そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」12すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られる言葉までもイスラエルの王に告げているのです。」13王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼は、ドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。14そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの探している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。20彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22エリシャは言った。打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」

エリシャは、神の人でした。預言者でした。彼の仕事は神の声を聞き、それに従うこと。それを人に伝えることでした。
ここで、イスラエルとアラムの間の実際の戦いがありました。しかし、この神の人エリシャがどんなに大きな役割を持っていたかが良く分かりますね。彼は、神様に聞いて、まるで相手の動きを見ているかのようにイスラエルの王に指示を出し、イスラエルを敵から守っていました。今日は、このエリシャから戦いにおける戦略について学びたいと思います。これは、私たちの人生にも適用できることです。私たちもたくさんの戦い・試練・攻撃のようなものを乗り越えながら生きているものです。

① まず第一に、神の声を聞くこと v6-14

ヨハネ10:4, 5
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。5しかし、他の人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。And when he brings out his own sheep, he goes before them; and the sheep follow him, for they know his voice. 5 Yet they will by no means follow a stranger, but will flee from him, for they do not know the voice of strangers.”
先ほども言いましたが、神の声を聞くことは、一番の勝利の決め手。視力の弱い羊は、聴力、すなわち、自分の主人の声をしっかり聞き分けることで自分の身を守っている。

私たちに聞こえる声は、三種類ある。

1) 自分の声。。肉の声。。理性、過去、常識、自我・高慢。 
2)敵サタンの声、恐れを持たせてくる。ネガティブ。
3)神の声。。。信仰が引き上げられる。ポジティブ。信じることに結び付けられる。慰められる。心が満たされる。心が自由になる。
自分を疲れさせ、混乱させるのが、自分と敵の声。。また特に敵からの声を聞くと落胆させられる。

神の声に対して敏感に、また親しみましょう。神の声を聞いている限り、どんな状況の中にあっても、揺るがされることがありません。

② 霊の目を開いて見ること v15-17

15神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。15 And when the servant of the man of God arose early and went out, there was an army, surrounding the city with horses and chariots. And his servant said to him, “Alas, my master! What shall we do?” 16 So he answered, “Do not fear, for those who are with us are more than those who are with them.” 17 And Elisha prayed, and said, “LORD, I pray, open his eyes that he may see.” Then the LORD opened the eyes of the young man, and he saw. And behold, the mountain was full of horses and chariots of fire all around Elisha.

イエス様の目を通して物事をみる。ヨハネの福音書で生まれつきの盲人がイエス様によって、目を開けられ、見えるようになりました。後にそれが大問題に発展します。しかし、このもと盲人は、私は見える。私の目を開けた人は神から来たに違いないといいました。そして、イエス様を信じました。彼は、肉の目と同時に霊の目も開かれました。それは、イエス様が目を開けてくださったからです。彼は、どんなに反対者が来ても、自分の体験からくる見解を曲げはしませんでした。

私たちも、戦いの多いとき、難しさの中にあるとき、イエス様に心の目に触れていただかなければなりません。

誰が主であるのか、神なのかを、困難なときに見出すことができなければ、つぶされてしまう。問題があなたの主なのか、悩みがあなたをコントロールしている神であるのか? それとも全地の主があなたの神なのか。

③ 目を閉じることBlindness v18-19

18アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの探している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。18 So when the Syrians came down to him, Elisha prayed to the LORD, and said, “Strike this people, I pray, with blindness.” And He struck them with blindness according to the word of Elisha. 19 Now Elisha said to them, “This is not the way, nor is this the city. Follow me, and I will bring you to the man whom you seek.” But he led them to Samaria.

新約聖書の中に、
ヨハネ9:39 「そこで、イエスは言われた。「わたしは、さばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」And Jesus said, “For judgment I have come into this world, that those who do not see may see, and that those who see may be made blind.” とありますが、

目を開かれるのも神様ですが、目を閉じられることも神様の業です。Ⅱ列王記ではエリシャが神に願って、敵の目を見えなくしました。
真理が来るときに、このようなことがおきるのです。イエス様という真理が来たときに、盲人の場合は、目が開かれました。

しかし、自分は霊肉ともに見えているとしているパリサイ人たちの霊の目は余計に堅く閉ざされてしまいました。

真理が来るときに、このような分離、裁きともいえることが来るのです。これは、何も神が裁かれるということではなく、人々の心が頑なで、真理を受け入れられないときに、霊の目も堅く閉ざしてしまうのです。
私は、見える、見えているという態度に気をつけましょう。

④ 反対のスピリットを持って戦うことv21-23

21イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22エリシャは言った。打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。」21 Now when the king of Israel saw them, he said to Elisha, “My father, shall I kill them? Shall I kill them?” 22 But he answered, “You shall not kill them. Would you kill those whom you have taken captive with your sword and your bow? Set food and water before them, that they may eat and drink and go to their master.” 23 Then he prepared a great feast for them; and after they ate and drank, he sent them away and they went to their master. So the bands of Syrian raiders came no more into the land of Israel.

神様と人の方法とは、まったく質の違うものであり、相いれないものであります。ここで、敵を盲目に集め、場所を移したエリシャに、王は殺してしまうことを提案しますが、神の人は、全く逆に思えるようなことを言います。飲み食いさせた上で生きて帰らせてあげることでした。

霊的な戦いには、いつも感情が伴っています。私たちは、その感情に反応して物事を決めて行動していまいます。相手がこんな悪いことをしてきたから、自分たちもそうするのだと思いがちではないでしょうか。

自分が相手をこらしめるんだ、罰をあたえるんだという思いをもっては、自治は、敵のおもうつぼなのです。

しかし、そんなとき、一呼吸おいて、神様に聞いてみてはどうでしょうか。相手に反対のスピリットをもって対峙するときに、実は、大きな勝利を体験することが多いのです。
エリシャは、自分を殺そうとした人たちをもてなしたのです。
その結果、その後、二度とアラムはイスラエルの地に侵入してこなかったのです。
これこそ、一次しのぎでない、永遠の勝利が得られる方法なのです。

戦いのとき、困難のとき、自分の身が危ういとき、あなたは、今日のポイントを思い出してください。

神の声を聞くこと。霊の目を開くこと、反対のスピリットで応じること。


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一つの油のつぼからWith A Single Oil Pot

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2015年6月14日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/k3a1DybHDmk

Ⅱ列王記4:1-7
1預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存知のように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんなものがあるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」3すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも一つ二つではいけません。4家に入ったなら、あなたと子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」5そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持ってくる器に油をついだ。6器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。7彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

エリシャのともがらが死に、残された妻がエリシャに助けを求めた。彼女は、借金のために子どもたちまで奴隷として取られそうになっていたのです。彼女には、解決不可能な大きな問題がありました。そして、その問題は、すばやく解決されなければなりませんでした。

彼女は、神の人エリシャに助けを求めてきました。しかも、彼女は叫びながら必要をうったえたのです。夫が死んだばかりか、子どもたちまで取り去られそうになり、必死だったのでしょう。

今日は、エリシャとこの女性のやり取りから、私たちに与えられる神様からのメッセージをいただきたいと思います。神様がどんなに豊かなかたであるか、また神様が、どんな状況の中でも必ず、助けを与えてくださることを学んで行きたいと思います。

エリシャは彼女に言いました。

① どんな物があるか? V2 what do you have in the house? 
自分からも何かを差し出すこと。

エリシャは、家にどんなものがあるか聞きました。女は、答えました。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」“Your maidservant has nothing in the house but a jar of oil

きっと、この女は、家の中にある物を全て売ってしまったか、借金の形に取られて今つたのでしょう。ただ、日々の食事の用意に使う、油のつぼが一つだけ残っていたのでしょう。
私たちにも、このような状況が無いでしょうか。動かしがたい大きな問題。もう手は尽くしきった。時間が迫る。問題解決のためのものは自分には何も無いと感じるとき。
この女は、神の人のところに行きました。すなわち、解決を神に求めました。
神は、彼女が持っている最後のもの。彼女にとっては、何の役に立たないかのように思えるものを用いられたのです。
一つの油のつぼ。それも、からのつぼでした。とるに足らないものでありました。
神は、このような取るに足らないものを大きく用いることのできる方なのです。
ここで大切なことは、それを神様の前に差し出す。捧げることなのです。神様は、それを聖めて用いてくださいます。

② 器を借りて来なさい。
教会(からの器の集まり)の大切さ

V3 “Go, borrow vessels from everywhere, from all your neighbors—empty vessels; do not gather just a few. 外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも一つ二つではいけません。
女は、からの器一つしか持っていませんでした。エリシャは、同じようなからの器を近所で借りてきなさいといいました。

「この土の器に宝」2コリント4・7~12 とあるように、私たちは、聖書の中で器にたとえられますね。からの器は、何を意味しているでしようか。飢え渇いた心。神様に対してハングリーな人では無いでしょうか。何ももっているものはない、ただ、神様へのハングリーさというような。神様の奇跡を体験するには、それでいいのです。私たちは、しばしば私たちの持っているものや能力で神様の手助けをしようとしますが、神様にとっては、からっぽの器のような人が必要なのです。そして、同じようなからっぽの器が近所から集められたときに、奇跡が起こりました。問題の解決が与えられました。

みなさん、教会の大切さは、ここにあるのではないでしょうか。
神様に飢え渇いた人の集まりのなかに、神様の祝福が満たされる。そして、それぞれの問題が解決されていく。それが教会ではないでしょうか。
あなたに求めがありますか。ハングリーですか。それなら、ここ教会はぴったりの場所です。もしあなたの周りに求めのある人がありますか。ぜひ教会につれて来てあげてください。

③ うしろの戸を閉じなさい。
過去・心の傷からの解放。

V4 you shall shut the door behind you
いよいよ、油が注がれるためのインストラクションです。その一番初めは、うしろの戸を閉じなさい。でした。
油は、何を意味しているでしょうか。聖霊様ですね。聖霊さまの注ぎは、私たちに力を与え、恐れを締め出し、全てを可能にする神の力の注ぎでもあります。エリシャは、注ぐ前にうしろの戸を閉じなさい。と言いました。
うしろとは、何を意味するでしょうか。それは、あなたの過去です。人間は、過去のことをいつまでも恨みに思ったり、傷に思ったりして過去のことを繰り返し瞑想しながら生きています。それか、将来の心配をしていかどちらかであるそうです。 なかなか今その時を神とともに生きている人は少ないそうです。
うしろの戸を閉じるとは、過去の問題に終止符を打つこと。過去の傷から癒されること。です。過去の神々との契約を断ち切ること。過去の罪や罪深いサイクルを断ち切ることです。そうでなければ、せっかくの聖霊の注ぎがあっても、後ろの戸があいていたら祝福がもれてでていってしまうからです。
神の祝福、聖霊の力を満杯に受ける前に、あなたは、過去の問題が片付いているでしょうか。心の傷が癒されているでしょうか。

④ 油を注ぎつづける。
あなたの必要なだけ、神の恵みを受け取る。

V4-6 “There is not another vessel.” So the oil ceased.
油は、からの器がある限り注ぎ続けられました。油は、あなたの必要な分十分にそそがれました。また、あなたが求めた分は満たされました。
あなたがハングリーであればあるだけ、神様は必ず満たされるのです。
あなたは、今神様に対して、「私は、求めの多いものです。」ニーディです。。。と思っているかもしれませんが、神様はあなたを必ずいっぱいまで満たしてくださいます。
心に求めのある人たち、喜んでください。
また、神様に新たに満たされたい方々、神の前にハングリーであり続けましょう。

この女は、エリシャの言葉に従ったおかげで、負債を完済することができ子どもたちをとられることを免れました。
きっと、この女は、それ以上のことを学んだにありません。神には、私たちの想像を超えて私たちを満たす力があることを知ったのです。彼女は、今まで、預言者である夫に霊的にも物質てきにも頼って生きているというライフスタイルでしたが、このときを境に、大きく変革したに違いありません。求めに答えられる奇跡の神と個人的な関係を持つことができたのです。
これこそ、神様の望んでおられることなのです。神は、あなたの個人的な小さい悩みにも、関心をもっておられるのです。それを満たすことであなたに出会いたいと願っておいでなのです。

神のところに行きましょう。神をたずねましょう。神を求めていきましょう。


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もし、あなたが見ることができればIf you can see it...

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2015年6月7日バイリンガル礼拝メッセージ音声、http://youtu.be/XEiYBI8MxUk

2 列王記 2:6-14
6エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。7 預言者のともがらの五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりにたったとき、8エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それで二人はかわいた土の上を渡った。9渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私は、あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。10エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないならば、そうはならない。」11こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬が現われ、この二人の間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。12エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

今日のお話しは、偉大な預言者エリヤからその後継者エリシャにバトンタッチする場面です。エリシャは、ずいぶん前に神様から選ばれて、エリヤの後継者の召しをもらっていました。そして、それをエリヤも知っているし、周りのものも知っていました。

2King2:1主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。And it came to pass, when the Lord was about to take up Elijah into heaven by a whirlwind, that Elijah went with Elisha from Gilgal.

エリヤは、エリシャに付いて来ないようにいいましたが、エリシャは聞きませんでした。そんなことが三回ありましたが、エリシャは決してエリヤから離れようとはしませんでした。
三回目が、先ほど読んだ場面でした。

9節で、エリヤはエリシャに言いました。「私は、あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」“Ask! What may I do for you, before I am taken away from you?”

そこで、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。“Please let a double portion of your spirit be upon me.”

「二つの分け前」の言葉の意味するところは、長男が父から相続を受け取るための、長子の権利を意味しています。(申命記21:17 But he shall acknowledge the son of the unloved wife as the firstborn by giving him a double portion of all that he has, for he is the beginning of his strength; the right of the firstborn is his.)  

すなわち、エリシャは、肉の子どもとしてではなく、エリヤの霊の子どもとして、霊の遺産相続をもとめたのです。エリヤの始めた神様の仕事を全うするために、霊的な遺産をもとめました。

ここで、エリシャを通して、”召し” (神様が天命としてお与えになる使命)に必要なことをおさらいしたいと思います。

エリシャは、①神によって召されました。エリヤを通して。神様からの召しが第一に必要。
      ②そして、エリヤの下で訓練を受けました。摂理と環境が整うこと。
      ③エリヤにも、周りの人々にも、エリヤの後継者であると認められていた。
  ここまでは、今までも何度もお話ししてきましたね。

そして、今日はもう一つ。エリシャは、 ④ さらに自ら求めた。と言う点です。
エリシャは、エリヤが来るなと言っても、決して離れませんでした。自分の求めているものを得るまでは。聖書の神様は自分から求める人に必ず見つけられます。必ず、与えられます。

エリシャは、召しがあり、人に認められるだけでは満足しませんでした。はっきりとした霊的な遺産を受け取りたかったのです。それは、神様の仕事をしっかりとやるためでした。

神様は、このような人を今日求めておられます。

この霊の二つの分け前をお願いされたエリヤは言いました。
10節 「あなたはむずかしい注文をする。」”You have asked a hard thing.” なぜなら、霊的なものをお与えになるのは、エリヤではなく、神だからでした。
しかし、エリヤは、無理だとは言いませんでした。その代わり、このようなことを言っています。 「 しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないならば、そうはならない。」 Nevertheless, if you see me when I am taken from you, it shall be so for you; but if not, it shall not be so.”

★ If you see….
あなたが見ることができたら。。。。と言いました。
ん? と思いますね。 どうして、それができたら霊的な遺産が願ったとおりにもらえるんだろうか。。。と。
   「見る」とは、
to see, look at, inspect, perceive, consider
1. to see
2. to see, perceive
3. to see, have vision
4. to look at, see, regard, look after, see after, learn about, observe, watch, look upon, look out, find out
5. to see, observe, consider, look at, give attention to, discern, distinguish
6. to look at, gaze at

   エリシャは、火の戦車が来て、エリヤを天に連れて行くのをとうとう見ました。

   皆さん、天に生身の人が上っていくのを見たことがありますか? エリヤは、そのまま天の御国、天国に生きたままのぼっていったんです。まるでエノクです。しかし、彼の場合は目撃者がいませんでした。まるで、イエス様です。なんとも不思議な光景だったことです。肉の世界から霊の世界に移されていく人を肉眼で見るのですから。。。。

私は、こう思うのです。エリシャには、肉と霊の両方を同時に見ることができたのです。今まで肉でしか見なかったものが背後に働く見えない霊の世界を見るようになったのです。そして、それが見えたとき、霊的遺産がエリヤから相続できたのです。

「あなたが見ることができるなら」目に見えない世界を見るには、信仰が伴います。ヘブル11:1 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあるとおりです。エリシャは、信仰を働かせ霊の世界と肉眼で見える世界が一つになるところを見ることができたのです。

もしも、あなたの目の前で起きていることが困難で、どうしていいか分からないことがあっても、あなたの望んでいること、信仰の目をもってみるなら、霊的な世界が見えてくるのです。

ただ、肉眼で見えることをみて判断するのではなく、信仰の目でみることができますように。
もし、見えたら、それは、あなたのものになるからです。

後に、エリシャは、6章 人の霊の目を開かせたり、目をくらませたりしています。召使に対しては「目を開いて、見えるようにしてください」(17節)と祈り、アラムの軍隊に対しては「盲目にしてください」(18節)と祈りました。するとそのようになったのです。霊の目を開く油注ぎが与えられたのです。

★ 後継者として
リーダーの肉の部分ばかりに目をとめるのではなく、背後に働いている神の霊に目が開かれるように。また、私たちは、みなイエス・キリストによって天の相続を受け取る資格があります。キリストを見続けようではありませんか。この夏、しなければならないこと、したらいいようなアイデア、ミニストリーなどたくさんありますが、まず、イエスキリストを見つめましょう。そして、私たちの霊の目が開かれますように。

あなたは、何を見ますか? 霊の世界と肉の世界が一つになるとき、信仰の目でみることができるとき、見たものはあなたのものとなるのです。


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ダイエットに成功! 大事な人生のレッスン

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このようなお話しを二ヶ月前に聞きました。

一人の人がしていることの内容は次のとおり

毎日やってる全てのことのうち。。。

 5% 自分にしか出来ないこと
15% 自分と同じ技能を身につけた人にもできる
80% 誰でもができること

例えば、自分にしか出来ないことは、「私」であること。また、私の夫のエリックの「妻」であること。私の母の「娘」であること、などなど。。。また、自分のために食べたり、休んだりすることもですね。。。人が私に代わって歯医者にもいけなければ、トイレにも行けないのと同じです。。。

そして、15%の自分と同じ技能を身につけた人にもできることというのは、牧師のお仕事です。どうしても、自分ひとりでできない時は、例えば、一緒に教会で働いている牧師仲間に誰かのカウンセリングをお願いしたり、日曜日の礼拝メッセージをお願いしたりできます。

残りは、誰でもできること。夕飯をつくったり、洗濯したり。。。。
限りなく、私目線でお話ししていますが、みなさん、分かりますよね。

これを聞いたとき、はっとしたんです。

私にしかできない5%を結構無視していることに!

もちろん、夫の妻であることは、がんばってましたが。。。。特に、自分の体については。。。。

ここ、一、二年、あまりからだがスッキリしなかったんです。特に、体重が増えて、いつも疲れ気味。疲れやすく、家に閉じこもりがちでした。

友達がみんな日本に帰国しちゃったから。。。家を出る機会が少ない。。とか思っていましたが、運動をあまりしていませんでした。
食事は、超健康的な食事をしていましたが、おやつを食べていました。ストレスイーターのようです。ハハ。

ジムのメンバーになりたいと思いつつ、いつも後回しにしていました。お金がかかることも一つの理由です。

そして、このお話しを聞いたとき、もう後回しにしてはダメだ。このままでは、病気になってしまう! と思い、将来のための投資として、まとまった額を払って、二年間のジムのメンバーシップを購入しました。

ジムの体力測定でびっくりしました。私の体力年齢は、自分の実年齢よりも十歳ほど上。がーーーーん。 そして、体脂肪率も、高く。。。これ以上増えると糖尿になりますよと言われました。二重のショックでした。。これが一番こたえたかな。。。。

始めの一ヶ月は、久しぶりの運動で、ひざが痛くなりましたが、今では、すっかり元気になりました。筋肉も付いてきました。

とにかく、去年長めの断食をしたせいか、筋肉が落ちてしまって、苦労しました。
本当に、霊的なことをするにも、体が資本。断食したあとにちゃんと体重だけでなく筋肉のことを考えればよかったです。

筋トレを中心に運動して、二ヶ月で、10キロ近くやせました。結婚当時くらいにはもどったと思います。ほっ。。。

いつも自分以外のために走り回りがちの生き方でしたが、
本当に自分を愛することの大切さを知りました。

また、体の大切さ。。。筋肉の大切さ。あ、やせるには、筋肉をつけると新陳代謝があがってやせるそうです。今まで、カーディオが好きだったんですが、それではやせにくいらしいそうです。(主人と、パーソナルトレーナー談)

あなたにしかできない5%、見直してみませんか?
きっと大切なことが見つかると思います。

私は、近いうちに、新しい服を買いに行こうと思います。
服がぶかぶかです。。。。

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御国の法則 The Principle of Kingdom of Heaven

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2015年5月31日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/mKFsC938_dc

「神の国が近づいた」と言われてから、二千年。
神の国は私たちに近いのだろうか。もしかしたら、私たちのマインドセットの神の国の広がり方と、イエス様の意図したところは違うのかもしれない。リバイバルがおき、多くの人々がどっと教会に押し寄せて来たら神の国が来た?  何か多くの人は、そのようなイメージを持つのではないでしょうか。私たちは、西洋の成功的なキリスト教イコール、メガチャーチ、大きなクルセードなどというイメージに縛られているのではないでしょうか。

リバイバルとは、本来、覚醒と言う意味があります。何に対して私たちは、目を覚ますのか、目を開かれる必要があるのでしょうか。

聖書では、天の御国は、からし種のようだとも言われています。小さい種だが、大きく育って鳥が巣をつくるほどになる。また、パン種のようだとも。バンだねは、小さいけれども、粉全体を膨らませます。しかも、しずかに、徐々に。気がついたら何倍もの大きさになっています。また、天の御国は、隠された宝のよう。それを見つけた人は、全てを捨ててもそれを手に入れる。Matthew 13:44 “Again, the kingdom of heaven is like treasure hidden in a field, which a man found and hid; and for joy over it he goes and sells all that he has and buys that field. それほど、魅力がある、人を引き寄せるものであります。

神の国とは、神の統治されている場所をさします。そこに、必ず人は関わりがありますが、大量の人でなければならないとは限りません。あなたの心が神の統治と支配で満たされているのなら、神の国はあなたの只中にあるのではないでしょうか。

また、新約聖書では、私たちの身体は、聖霊の宮であると言っています。

これには、大きな意味があります。イエス様は、どれほど、私たちと、ご自分が一つになることを願い、待ち望んでいたことでしょうか。

イエス様の言葉をいくつか思い出してみよう。

イエス様は言われました。わたしが去っていくことは良いことです。あなたがたに新しい助け主をあたえよう。

ヨハネ17章21節 
それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。that they all may be one, as You, Father, are in Me, and I in You; that they also may be one in Us, that the world may believe that You sent Me.

イエス様が、十字架にかけられ、死んで葬られ3日目に蘇り、天に昇られたことで、わたしたち信じるものの内にイエス様の霊、聖霊様が宿られるようになりました。
イエス様の願い、”一つ” が成就しました。 

教会のかしらはキリスト。私たちはその器官なのです。私たち教会は、キリストの体です。キリストが頭で私たちはそれぞれからだの器官です。一つになって、働くときに、この世にキリストの姿を現すことが出来るようになるのです。鍵は、「一つ」になること。

また、イエス様は言われました。

あなたがたは互いに愛しあいなさい。これが新しい戒めです。ヨハネ15:12

また、イエス様は言われました。あなたが赦す人を私も赦す。これは、イエス様が私たちとイエス様を一体化して見られているからこそ、そのような言葉を言われたのではないでしょうか。とすれば、私たちが愛する人をイエス様も一緒に愛しているということになります。

私たちの役割といいましょうか。いやそれ以上ですね。私たちの存在がいかに、この世の中で重要かわかりますね。

では、私たちは、愛することを学んだのでしょうか。私たちは、本当に一つなのでしょうか。

今から、実験をして体験してみたいことがあります。

★ Affirmation Circle をしましょう。 アファーメーションとは、肯定形式の表現。ポジティブな言葉で相手を励ます/誉めることです。  この世の中は、ネガティブな言葉で溢れています。しかし、私たちが、このポジティブな言葉をもっていくときに、周りが変わって行きます。

実践

★ 肯定的サークルをしてみていかがでしたか? 聖霊様が活発に働かれていることに気がつきませんでしたか。誰かにどんな言葉をかけようかと考えるとき、その時から私は聖霊様の臨在を感じます。そして、それを語るとき、もっと聖霊様が働かれます。そして、複数の人たちが語っている間、この場所に聖霊様の臨在が溢れます。

私たちが一つになったことを感じませんでしたか?  一つになるということは、アグリーメント、同意することではないのです。キリストの霊によって、自然に一つのことを考えるようになることです。そこには、互いに愛し合い、立てあげあうことがそこに流れる血液のようなものです。
愛し合っている夫婦は、自然に同じことを考え、同じものの好みを持つようななるものです。イエス様は、そのような親密さを通して、ご自身の統治、御国を広げられるのです。

愛することは、アクションです。あなたがアクション、行動をしようとするときには、あなたの決断が必ず必要です。あなたのチョイス、選択にかかってきます。愛することは、神様の霊です。積極的に愛そうとするとき。聖霊の助けがあります。
Proverbs18:21箴言 
21 Death and life are in the power of the tongue, And those who love it will eat its fruit. 21 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

神の国の法則とは、愛と聖霊です。キリストの体が鍵。まず、あなたがキリストと一つであること。また信じるものの共同体、キリストの体が頭であるキリストと一つであること。

この夏、私たちは、ますます一つになりましょう。時間をとって互いに愛し合いましょう。
私たちがこれにかけて生きているかどうかによって、この地上に神の国が広がるかが決まります。


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