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2014年12月21日クリスマス礼拝、音声は、http://youtu.be/vmCZeE2eXvk
マタイ1:18-25
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。18 Now the birth of Jesus Christ was as follows: After His mother Mary was betrothed to Joseph, before they came together, she was found with child of the Holy Spirit. 19 Then Joseph her husband, being a just man, and not wanting to make her a public example, was minded to put her away secretly. 20 But while he thought about these things, behold, an angel of the Lord appeared to him in a dream, saying, “Joseph, son of David, do not be afraid to take to you Mary your wife, for that which is conceived in her is of the Holy Spirit. 21 And she will bring forth a Son, and you shall call His name Jesus, for He will save His people from their sins.”22 So all this was done that it might be fulfilled which was spoken by the Lord through the prophet, saying: 23 “Behold, the virgin shall be with child, and bear a Son, and they shall call His name Immanuel,” which is translated, “God with us.”24 Then Joseph, being aroused from sleep, did as the angel of the Lord commanded him and took to him his wife, 25 and did not know her till she had brought forth her firstborn Son.[d] And he called His name Jesus.
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスとは、私たちの救い主、イエス・キリストご降誕をお祝いする日です。イエス・キリストが天から、人間の形をとってこの地上に来てくださった。人類に救いをもたらすために来てくださった日です。イエス・キリストは、私たちへの最大の神からのプレゼントです。ですから、私たちは、神様からあまりにも大きなプレゼントをもらったので、プレゼントを隣の人にもおすそわれしたくなるのです。喜びは分け合うときにもっと大きくなりますね。
またクリスマスは、あなたの前に差し出されたプレゼントのようです。プレゼントはどうしたら自分の物になりますか? 受け取ることです。働く必要も、何もありません。ギフトは受け取るときに自分の物になるのです。
今日は、ヨセフにとってのクリスマスということで、ヨセフの目線からクリスマスのお話をしたいと思います。ヨセフは、クリスマスをどのように受け取ったのでしょうか。
★ヨセフは、頭で理解できなくても、受け取った。
ヨセフにとってクリスマスは、全く理解できない、否定的な出来事から始まった。
いいなづけの後一年の婚約期、その婚約期は事実上結婚とユダヤの世界ではみなされていた。そして、マリアは、この婚約期に妊娠したのである。ヨセフにとってこの出来事は、どう写ったであろう。。。神様を信じる世界では、婚前交渉は禁止されている。マリアは、浮気をしたかと思ったであろう。
◎神の計画…アダムの罪の性質を受け継がないため。
しかし、このことは、神の目にとっては完璧であった。人間同士から生まれたのなら、アダムの性質、つまり罪の性質が遺伝しまう。しかし、聖霊によって宿ったなら、完全な人であって完全な神である。罪がなくて初めて、人類の罪を贖うことのできる、神の小羊となることができるからである。
★ヨセフは、神の言葉を受け取った。
夢で、主の使いの言葉があった。
そして、ヨセフは、その通りにした。…
神の言葉とは、それに従った見るまでは奇跡を見ない。ヨセフの従順がヨセフにクリスマスをもたらした。
私たちは、神の言葉を聞くだけになっていないだろうか。受け取るというのは、心に受け取って、それを実行したときにはじめて自分のものとなる。
クリスマスのお話しを何回聞いても決して自分のものにはならない。それを心に受け入れて、それを実行しないならば、神様の奇跡も、力もあなたの人生に何の力も及ぼさないのです。。
★ヨセフの人となりが神のプレゼントを全人類のために渡るために用いられた。
先日衆議院総選挙the Lower House general electionが日本で行われましたが、出口調査の結果、人々は、政策や政党に票を入れているのではなく、人柄に入れていることが分かったそうです。人柄というのは、それほど、パワフルに人に影響を与えます。人柄があれば、その人のやること、政策全てに信頼が置けると思うものです。それは、どの分野においても同じ。神様の世界でも同じです。ヨセフには人柄がありました。神様は、ヨセフの人柄を知って、この大役を任せることにされたのではないでしょうか。その人柄とは。。。。。
正しい人 a just man
ヨセフについて特筆すべき性質があります。それは、聖書が言っている通りに、正しい人であったことです。彼は、常識ある立派な人でありました。しかし、みなさん、時々、常識だけでものを言う人の周りにいると、窮屈に感じませんか? 何かいつも裁かれているような気になります。裁きのあるところには人は寄り付きません。神様は、唯一裁き主でもありますし、義なる聖なる神です。罪に決して妥協される方ではありません。しかし、神の憐れみは、いつも裁きよりも勝ります。それゆえに、私たちは、どんな罪を犯しても、心から神様に悔いるなら、必ず赦していただけるのです。ヨセフは、このような神様を本当に心底信じている人だったと思われます。だからこそ、彼は、マリヤの秘密を暴露し公に彼女を辱めることをしなかったのです。彼のこの資質があったからこそ、神様のご計画を持ち運ぶことができたのです。
従順さ obedience
ヨセフは、み言葉の通りに行動します。そして、その後もエジプトに逃れよなどなど、神様からのお告げがありますが、その都度従っています。また、マリヤがイエス様を産むまでマリヤを大切に聖潔を保ちました。Purity
この資質が神様の計画を現実にしたのです。
後に、エジプトへ行け、もうよい、エジプトから帰ってきなさいなどと、神様のお告げがあり、それに即座に従っていますが、彼のこのような人格があったからこそ、イエス様の命が守られたのです。
★あなたは、どのようにクリスマス、神様からの最大のプレゼントを受け取りますか?
頭で理解出来ないからということが、受け取らない理由ではありません。常識に合わないからということが受け取らない理由にはなりません。神の最大のクリスマスプレゼントをもらった、マリヤとヨセフは、心に受け入れたのです。
ぜひ、このクリスマス、みなさんがいつもとは一味違うクリスマスを味わわれますように。神様からのプレゼントを受け取られますように。
祝福を祈っています。
ぼ
土曜日のクリスマス会のあとで プレゼント交換をしました
クリスマスの歌を数曲披露して下った 吉田宣教師夫妻
フルートも吹いてくださいました。すばらしかったです。
みなさん、こんにちは。
先週の土、日は、日本から吉田隆、えりこ宣教師ご夫妻をお迎えしてクリスマス会と礼拝を持ちました。
先生方は、アジアの国々で奉仕をされています。お話しの中でもたくさんアジアのお話しが出てきて、興味深かったです。
さて、日曜日も吉田先生がメッセージをしてくださいました。ダイジェスト版を下に書きます。
もうすぐクリスマスですが、イエス・キリストは、ベツレヘムでお生まれになりました。昔の預言にあっとおりベツレヘムで生まれました。
ベツレヘムという町の名前の意味は、パンの家という意味です。
イエス・キリストは、ご自分のことをいのちのパンであると説明されました。また、だれでも、このイエス様をいただく人は、永遠のいのちを得ることができるのです。
イエス様は、永遠のいのちのパンです。
さて、次に読むマタイの福音書では、有名な五千人以上の人々を満腹させた奇跡のお話しがあります。
マタイ14:14-21
イエスは舟から上がると、多くの群集を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群集を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
19 そしてイエスは、群集に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群集に配った。20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
イエス様は、弟子たちに「あなたがたで」群集に食べさせなさいと言われました。
弟子たちは、群集とイエス様の間にたたされ、困りました。
群集には必要がある、イエス様は自分でそれをせよという。
私たちも、キリストを信じている信者であれば、この弟子たちの立場にあります。
イエス様は、奇跡をはじめから起こすことは知っていたが、弟子たちに参加して欲しかったのです。今も、イエス様は、私たちと一緒に働かれたいのです。
五つのパンと二匹の魚が差し出され、そして、イエス様が祝福されました。そして、イエス様がまずパンを裂き弟子に渡しました。
弟子がまたパンを裂き配りました。
弟子たちの手の中で奇跡が起き、食べ物が増えていきました。
五千人以上の人々が食べて満腹になりました。
私たちが、イエス様のされたようにし、隣人にしてあげるなら、奇跡がおきるのです。
このクリスマス、永遠のいのちのパンであるイエスさまを隣人に分けてあげたいですね。
ぼ
2014年12月7日日曜日礼拝 音声は、http://youtu.be/p9cNL4kHSHo
哀歌3:22-24
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。24 主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。Through the Lord’s mercies we are not consumed, Because His compassions fail not. 23 They are new every morning; Great is Your faithfulness. 24 “The Lord is my portion,” says my soul, “Therefore I hope in Him!”
今週は、哀歌を読みました。哀歌は、預言者エレミヤによって書かれた書です。
この哀歌は、エレミヤがエルサレムの北壁のちょうど外側にある場所の名で、洞窟でエレミヤは泣きながら、自分が救おうとした町のために悲しみの哀歌をつづったとしている。この洞窟は、イエスの十字架のたてられた丘と同じゴルゴタの丘にある。イエス様が苦しまれることになる同じ場所で、涙の預言者エレミヤは声をあげて泣いたのです。
この哀歌は、一章のはじめに「ああ」で始まっているが、この悲しみの嘆きの言葉が5章全体を貫くテーマである。
読んでご存知のとおり、BC586年にイスラエルは捕囚となり、エルサレムが荒廃の地となり、包囲の恐怖、飢えた子どもの泣き声、自分の子どもを煮て食べる女たち、などなど恐ろしい光景がつづられている。まったく、あの美しいエルサレムは、見る影もなく、荒れ果ててしまったのです。
◎偶像礼拝の罪
そもそも、バビロン捕囚は、イスラエルの民の偶像礼拝の罪の故の懲らしめでした。偶像礼拝とは、神を神とせず、神以外のものを神とすることです。イスラエルの民の場合は、ソロモン王が多くの外国の妻を持ち、その妻たちが外国の神々、偶像を持って入ったことに始まりました。バビロン捕囚についても、多くの預言がされ、神様からの警告がありましたが、民は悔い改めることをしませんでした。
◎私たちの苦しみ
イスラエルの民は非常な苦しみの中を通ることになりました。私たちも、苦しみにあいますが、苦しみには三種類あると以前にもお話ししました。
① 自分の罪の結果を刈り取っている。
② 自分の矯正と訓練のため。
③ 悪魔の攻撃。
この場合は、①と②です。そして、よく「苦しみは全部神様からだと解釈したり」、逆に「苦しみは全部悪魔からだ」と言う人がありますが、どちらも正しくありません。心の癒しのシリーズでも話した通りに、ほとんどは自分から出ていることが多いことと、また未処理の罪のために敵がそこを突いてくるのです。
あなたは、今何らかの苦しみの中にいますか? 今が変わる時です。神様の前に悔い改めるべきことを示していただき、変革しましょう。
★主の真実
エレミヤは、哀歌全5章をつづる中で、真ん中の参照に宝石のように光る言葉を書いています。そして、これが私たちのよりどころであり、真理です。
哀歌3:22-24
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。24 主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。Through the Lord’s mercies we are not consumed, Because His compassions fail not. 23 They are new every morning; Great is Your faithfulness. 24 “The Lord is my portion,” says my soul, “Therefore I hope in Him!”
エレミヤは、こんなに悲しみ、泣きながらも、なおも主を待ち望むというのです。なぜなら、主の真実は力強いからです。この苦しみの中にも主の恵みがある。主の憐れみは尽きないからだと。。。。
◎私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主の憐れみは尽きないからだ。
恵みとは、私たちにふさわしくない神様の贈り物。私たちの神様の憐れみは、裁きにいつもまさる。神は、義なる神であり、愛でもある。けれども結局愛が大きい。
恵みとあわれみについて少し説明します。あなたがスピード違反をしました。ちょうどそこに警察がいました。もちろん止められます。そして、チケットを切られそうになります。100ドルの違反です。あなたが必死でお願いします。どうぞ赦してください申しません。と。するとその警察官は、今回はまあ、いいでしょう。行きなさいと赦してくれます。それは、神様の憐れみです。けれども恵みと言うのは、こうです、じゃ、スピード違反するんじゃないぞ、と別れ際に、ちょっと待ちなさい、と警察官にとめられます。これ、持って行きなさい。と言って、百ドル札を渡されます。これが恵みです。
恵みとは、私たちに値しない、全くの神様からの好意なのです。
エレミヤは、私たちは滅ぼされてもおかしくない罪深いものなのに、神の恵みによって生かされていると言っているのです。主の憐れみは、尽きないからです。
あなたが、悔い改めるなら、神は、赦してくださいます。
神様に立ち返るならば、憐れんでいただけるのです。
◎メリットの法則と不変である神の愛
私たち、この世の法則では、良い子にサンタクロースが来る。ように、良いことには良いこと、悪いことには悪いことが来るという法則で物事を考えています。これがメリットの法則です。
そして、その考えで神様やクリスチャンの信仰の世界も考えてしまいます。
みなさん、今日覚えていただきたいことが一つあります。
それは、「神の愛は変わらない」ということです。
私たちがどんなに落ちぶれても、どんなに罪を犯しても、神様の素晴らしさは変わらない。私たちがどんなに汚れても、罪を犯しても、神様の聖さは変わらない。神様の私への愛は、私たちが変えることができない。神様は、私たちのことを、私たちが理解できる以上に愛している。
神の大きな愛は、私たちが何かすることでそれ以上増やすことも、減らすこともできない!
この大きな神の愛の中に生きることが私たちの祝福。安息。幸せ。充足。自信。解放。力。です。
◎主の真実は力強い。
真実は、英語では、faithfulness 忠実であること。コンスタントに外れることなく、同じことをしてくれること。
私たちは、裏切り易く、人をがっかりさせるようなものですが、神は違います。神は、真実。誠実、忠実です。忘れるような方ではありません。
事実、このバビロン捕囚の苦しみを通った、イスラエルの民は、この真実な神に変えられ、この後、決して他の神々にひざをかがめることはありませんでした。
神の誠実、神の不変の愛が私たちを教え、造り変えてくれるのです。神に帰りましょう。
最後に新約聖書の一節をお読みします。
ロマ8:37-39
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。Yet in all these things we are more than conquerors through Him who loved us. 38 For I am persuaded that neither death nor life, nor angels nor principalities nor powers, nor things present nor things to come, 39 nor height nor depth, nor any other created thing, shall be able to separate us from the love of God which is in Christ Jesus our Lord.
この不変、不動の愛の顕現がイエス・キリストの誕生です。今月は、クリスマスのお祝いの付です。神様の愛を今月受け取りましょう。留まりましょう。そして、キリストの誕生を祝いましょう。
ぼ
みなさん、こんにちは。
時々、このブログを見て、教会のサイトに行ってくださって、
Eメールを下さる方々がおられます。
ありがたいことです。
でも、お返事を差し上げたところ、どうも、携帯のメールアドレスだったようで、
ジーメールなどの、サイトからのメールを迷惑メール防止のため拒否設定にしておられるようで、
メールが届かずに帰ってくることがあります。
けれども、なんどもお悩みのメールを下さったりしておられます。
こちらでは、お名前も何も分からないです。
もしも、お返事を期待されて連絡を下さる方は、
ご自分のメールの設定を確認してくださいね。
今日も神様の祝福と守りがありますように。
ぼ
2014年11月30日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/xURVDLD7yGk
四回シリーズで、心の傷と癒しのお話しをしてきましたが、いかがでしたでしょうか。癒しのヒントを得た方は多いのではないでしょうか。それでは、癒しを完全に自分のものとし、またクリスチャンとして成長するためにはどうしたらいいのかということを今日はお話ししたいと思います。
まず第一に、私たちは、自分の権威について良く知らなければなりません。
★クリスチャンの権威
今まで、学んで来られて、いかに、私たちが真理ではなく、敵のうそに惑わされ、縛られていたかが分かると思います。癒やしを保ち続けるのに、一番大切なことがあります。それは、自分の権威を知ること。そしてまた、それを行使することです。敵のリーガルライトを無効にした以降、敵は、またやってきて、私たちの心をつっきます。それは、私たちが手放したリーガルライトを取り戻しにくるのです。そして、つっつかれることで、私たちがまだ癒やされていないと錯覚することを目的としてます。聖書にも、“いわれの無い呪いはない”とあります。無効にしたものに対して、襲ってくる敵には、頑として拒絶するべきです。私たちが心を揺るがされず、敵の存在も無視していると、敵は戻ってきません。時間の無駄だからです。それでは、私たちの、権威についておさらいしてみましょう。
権威とは
権威とは、他の者を服従させる威力です。
この世の最高権威は、神です。神によって世界が造られ、全ては神のものであり、神によって治められているからです。
創世記1:1,ロマ13:1,コロサイ1:16-17、マタイ28:18
★罪による権威の譲渡
私たちの権威はどうなっているのでしょうか。
初めの人アダムとエバは、神から地を治める権威を与えられました。(創世記1:26-29 海の生きもの、空の鳥、地に住む生きもの、地を這う生きもの、地に生える植物、木、木の実)しかし、アダムとエバは、神ではなく、サタンに聞き従い善悪の知識の実を食べました。そして、彼らは、サタンに聴き従うことによって、サタンに権威をあげたのです。すなわち、自分の上に権威があるのは、神とするのでなく、サタンとしたのです。以来、サタンは、この世の君として君臨してきました。
★義人であること
ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
しかし、キリストの十字架の贖い、死と葬りと蘇りのゆえに、誰でも、キリストを救い主として信じる者は、この権威を取り返す、いや、これ以上の権威を受けることができるのです。
義とはなんでしょうか。裁判において、無罪とされることです。罪がみとめられないことです。私たちは、キリストによって、義とされます。キリストに罪を告白し、悔い改めるなら、神の目には、義とされます。一切、罪が見当たらないようになります。神とっては、西から東が遠いように、私たちから罪を遠く遠ざけ、もう思い出すこともないとさえおっしゃいます。
その神の義にしっかりと立つこと。これが、重要です。
もちろん私たちは、未熟であったり、失敗を犯すものです。けれども、義というのは、イエス・キリストとの正しい関係において認められます。すなわち、キリストに対し、正しい謙遜をもって悔い改めるなら、あなたは、義なのです。
自分が義人であることを忘れないでください。
★私たちに現在与えられている権威
さて、堕落後、キリストによって私たちに回復された権威とはいかなるものでしょうか。実は、堕落前、アダムとエバにゆだねられていた権威よりも増しているのです。はじめの人アダムとエバには、地上の生き物と木々に権威があったが、キリストにより私たちに与えられている権威は、天と地に関わるものであり、天を地上にもたらすほどのものであるのです。
マタイ28:18-20
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
ヨハネ14:12
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
マタイ18:18-19
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。地上でつなぐものは天でもつながれ。。
私たちが地上にいながら、天上のものをもつないだり解いたりすることができる。信者の権威ある祈りには力がある。
ヨハネ20:23
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
私たちは、人の罪を赦すことができる。私たちが赦すなら、神様もその人を赦されるというほどである。
キリストにあって、私たちが権威ある者にされていることが分かりましたか。義とされた私たちは、もはや、敵に討たれっぱなしの、軟弱な犠牲者ではないのです。私たちは、勝利者なのです。
★権威を行使するための訓練
しかし、どうして、今の信者たちには力がないのでしょうか。それは、古傷をトリガーされて、過去に縛られているからです。
癒しを受け取る祈りをしたあと、また敵がうそを仕掛けてきたり、突っついてきますが、それらの攻略に反応しないようにするのです。
サタンができることは、次の二つです。私たちから「時間」を盗むことと、「喜び」を盗むことです。天の通過/報酬は喜びです。イエス様も将来の喜びのために十字架も耐えられました。私たちも喜びがあるから、人生に意味があり、奉仕のやりがいを感じるのです。しかし、私たちの古傷をつつくサタンは、私たちを悩ませ、感情をいらだたせることによって、私たちの時間をぬすみます。彼らは、そんなことしかできないのです。彼らは、決して私たちの救いや神様からの約束を奪うことはできません。
しかし、私たちは、サタンに時間と喜びを取られてあたかも、救いがなくなってしまったかの様に感じることができるのです。すなわち、すっかり敵に騙されることになるのです。
私たちと世の終わりまでいつもともにおられるイエス様であるので、私たちとイエス様が一致しともに権威をもって働く時間を少しでもなくすために、そうして時間を奪ってくるのです。
時間を奪われないように、気をつけてください。
ここに二つの成長の鍵があります。
一つは、サタンにNO と言うこと、敵にうそにNO と言い、敵の攻撃に反応することをやめるのなら、私たちの権威は増し加わります。NOと言えば言うほど増し加わります。
また、もう一つは、神様にYESと言いましょう。神様の真理、み言葉に同意し、そして、従順すればするほど、神の真理が私たちに受肉し、私たちの権威は増し加わります。
サタンにNO, 神にYESです!
★さあ、今度はあなたの番です!
この自由の中を歩み、今度は、権威をもって人々を解放と癒しに導く番です。イエス様と一緒に働いていきましょう!
ルカ10:36-37
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
癒やしを受けたなら、自分がされたと同じように、他人を導いて癒やしをもたらすものとなってください。これがイエス様の願いです。
ぼ
2014年11月23日礼拝、音声はhttps://www.youtube.com/watch?v=eNPza_LVlpk
家系の中に繰り返し起こる出来事はありせんか。自殺、失踪、離婚、不和、暴力、不倫等々。人には、言う必要もなかったし、今まで誰にも話したことはない、家系の中に潜む繰り返される悲劇はありませんか。クリスチャンになった後でも、同じサイクルにいることと、自分の子供たち、孫たちがそのサイクルに入ってくるのを見て、歯がゆい思いをすることはありませんか。この課では、そのような問題を取り扱います。
また、家系に流れている特徴で、神様のお心に沿わないもの、また、神様のご人格に沿わないものなども、取り扱うべきです。家族の中で当たり前になりすぎていることはありませんか。悪口、陰口、いじめ、引きこもり、秘密主義、だます、不正、コミュニケーションの欠如、男尊女卑、お金の扱い方等。
世代にわたる罪の呪い
私たちに、罪が入ったのは、最初の人アダムとエバが罪を犯したから。そして、罪が入り、死が入りました。すなわち、私たちに病気も死とともに入ってきたのです。また、永遠から限られた時間という概念に移されたのです。私たちは、アダムとエバから生まれることによって、DNAにこれらのことが刻まれて生まれてくるようになったのです。また、それぞれの親がユニークに傷つき、罪を犯したこともすべて、DNAに刻まれて生まれてくるのです。この世では、それは、遺伝といいますが、本来は、祝福・呪いの相続、継承というべきものでしょう。
私たちの神は家系の神
アブラハム・イサク・ヤコブの神とご自身を紹介される神は、アブラハムの家系の神である。アブラハムの神への信仰と従順ゆえに、アブラハムは世代にわたる契約を賜り、祝福された。(創世記17:6-8)
創世記17:6-8
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
また、ダビデの家系を神は、祝福され、永遠に王位が続くとされました。(彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。詩篇89:36) それは、ダビデが神を敬った(honorした)からでした。ダビデが死んだ後も祝福が途絶えないと言うほどの祝福を授けることのできるお方が私たちの神なのです。
★ 従順と敬意について…宗教的に正しくあることのみが神を敬うことではない。神との親しい関係。神を自発的に愛する思い。
サンドラの証し。アブラハム、シャデラク・メシャク・アベデネゴ。また、イエス様の例、殉教者たちの例。神は、彼らによってhonorされた。神への敬意が祝福をもたらす。イエスは、その敬意と従順のゆえに多くの子孫を得、祝福を流すことができた。
私たちも、神をhonor 尊敬する・第一にするライフスタイルによって、神の祝福を次世代に渡すことができる。
罪は四代まで、祝福は千代に及ぶ
下記の御言葉の通り、私たちの神は、千代に渡って、祝福をもたらしたい、祝福の神なのです。神様の本来の意図は、アダムとエバが創造されて、生めよ増えよ地を満たせ、そして、世々に神の祝福が広がるようにとのデザインだったのです。
出エジプト記34:6~7
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
しかし、罪については、四代までその呪いとして、罪の結果を刈り取らなければなりません。つまり、先祖の犯した罪を、子孫も犯すようになる。そして、真の悔い改めが来ない限り、またやってくるのです。
★ 四代目の敵の攻撃
罪のアクティベーション
一つのストーリーを紹介しましょう。ここに、二人の男性がいます。どちらとも、16歳。どちらともクリスチャンです。一人は、クリスチャンホームで育ちました。A君とします。もう一人は、自分だけがクリスチャンです。彼をB君とします。A君の家系には、性的な罪がありませんでした。B君の家系には、性的な罪がありました。ある時、この二人がポルノを見て罪を犯してしまいました。二人とも悔い改めました。A君は、悔い改めて以降、同じ問題に陥ることは二度と無く、ポルノは彼のクリスチャンライフの問題とはなりませんでした。一方、B君は、悔い改めてもまた戻ってしまい、中毒になり、失敗と成功の間を行ったり来たりするようになりました。ポルノはクリスチャンライフの問題となりました。
決して間違えて取らないでください。神様に対する悔い改めは完全です。また、家系の中の罪の傾向、呪いがあなたを強いて、あなたに罪を犯させる訳ではりません。あくまでも、自分の意思でそのパンドラの箱を開けたときに、このサイクルがアクティベイトされるのです。
皆さん方のクリスチャン生活の中でもこのようなことは、ありませんか? ある問題だけは、悔い改めてもまた戻ってくる。何が自分がこの部分だけ極端に弱いのかと思うような点はありませんか?
私の例) 先祖の罪の呪いを取り扱ってから、自由になった。性的な罪の呪い。中学生の時からよく痴漢にあう、性的虐待、フラッシュバック。性的罪は、非常に恥をともなっているので、光の中にだしにくく、クリスチャンでも人知れず持ち続けている人が多い。有効なのは第三者に一緒に祈ってもらうこと。
解放と千代にいたる祝福へ
イエス・キリストの十字架の業によって、今、私たちには、全てが可能とされました。いわば、何億円も入った通帳をわたされているようなものです。しかし、その恵みを自分の物にするには、リーガルな手続きが必要なのです。チェックを切る。はんこを押すように。
By faith, by appropriation 信仰によって、十字架への適用によって
思い出してください。ヨシュアは、四十年間荒野をさまよった民とともに、ついに約束の地に入りました。しかし、その地に入っただけで自動的に土地が自分のものにされたのではなく、主が必ずイスラエルの民に土地を渡されると約束にたって、戦っていかなければなりませんでした。新約の私たちは、約束のための全ての戦いは、キリストの十字架によってなされました。私たちが、約束のもの、神の祝福を得るためには、キリストのなしてくださった業を信じることと、過去の家系の罪をも十字架につけられたと認めていくことです。また、金輪際敵の策略は無効であることを宣言していくのです。
ですから、家系の中に潜んでいる罪、神様のお心に沿わない習慣があるならば、自分が神の前に立って、とりなし、祈り、そして呪いの力を解いていくべきです。
そして、神の祝福を流すものとなりましょう。
ぼ
どなたでもお気軽に参加していただけるクリスマスパーティのお知らせです。
みなさん、こんにちは。
このプログを見ている方は、たいてい遠方の方だと思うのですが、
クリスマスの案内を貼り付けます。
今年も、三部に分かれています。
一部は、ミニコンサートと、クリスマスのお話し
みなさんもクリスマスキャロルを一緒に歌っていただきます。
今年は、主人もメサイアの一節を独唱の予定です。
今年は、ピアノを弾ける方がいたのでお願いできました。
あと、クラッシックギターの独奏。
ゲストの吉田宣教師夫妻の歌など
盛りだくさんです
二部は、クリスマスディナーです。
教会員による持ち寄りディナーです。
お楽しみに!
三部は、ゲームと、プレゼント交換です。
5ドル程度の交換できるプレゼントをお持ちください。
子どもさんも楽しめるゲームになっていますので、
ぜひご家族で!
という具合です。
お近くの方々、もしよろしかったら覗いてみてくださいね!
ぼ
2014年11月16日日曜日礼拝音声は、http://youtu.be/3Cv_8tdHJbA
感情の癒しがなければ、何かのときにトリガーされて感情が全く関係ないときに湧き出てきたり、心が堅くなって神様からの良い物が受け取れなかったりする。記憶がよみがえるごとに心に当時と同じ痛みがわきあがる。なかなか、ある分野で開かれない、などと言うことが起きる。
私たちの問題解決の鍵は、感情の癒やし。心の中の痛みが消えたとき、初めて真の意味で人を赦せるようになる。人を赦せないのは、私たちの心の痛み、感情が癒えていないため。私たちの心の痛みは、もう消えているでしょうか。もし痛みが残っているなら、イエス様による、感情の癒やしが必要です。
イエス様と心の傷の癒やし
イエス様ご自身、心の痛み、感情の傷を受けた方でした。また、心の傷ついた人たちを癒やす油注ぎを受けてこの地上に来られました。
イザヤ53:3-5
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
ルカ4:18-21
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。※主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
※主はわたしを遣わされた。は、英語の聖書では、to heal broken hearted という言葉が遣わされたの目的語として付いている。
そして、私たちの感情の癒やし主であるイエス様は、きのうも、今日も、いつまでも同じ方です。イエス様は永遠から永遠までおられ、時間を作られた方です。私たちは、過去を変えたい、でも、過去が変えれないからいつまでも過去を引きずるしかないと考えがちですが、キリスト・イエス様にあっては、私たちの過去も贖われ、回復させられることが可能なのです。時間を所有しておられる方は、時間を越えてあなたにミニストリーすることができるお方です。このお方を信頼しましょう。
心の傷の癒やしのプロセス
それでは、感情の癒やしはどのように成されるのでしょうか。
もちろん、私たちが探すのは、うそ、神様から来ていない信条、また、赦していない心です。しかし、それらを手放したくても、人を赦したくても、赦しきらないときがあります。
それは、感情に癒やしが来ていない場合です。感情の中に痛みや混乱がある限り、完全に人を赦すことができません。
Ⅰ 心の感情を注ぎだす
私たちの感情の癒やしのためには、感情を注ぎだすことが必要です。<感情を出し切るまで、癒やしを体験できなかった
私の例> 幼いときから父がなく育った私は、父に対するいろいろな思いが押し殺されていた。ある癒しの集会で、男の牧師先生が父親に成り代わって私に泣きながら謝罪した。その時、初めて本音が私の中から出てきた。今まで、出したことの無い感情が出てきた。もっとそばにいて欲しかった。私を守って欲しかった。養って欲しかった。などなど。。。三時間ほど神様に感情を吐き出し、泣きじゃくったあと、父を赦したいという気持ちに変えられた。いつも、頭では、赦している、赦そう、赦したなどとやっていたが、心の底から心底赦せると思ったのは、この時が初めてだった。
私たちは、誰に感情を注ぎだすのでしょうか。それは、神様にです。人ではありません。神様は、私たちのお父さんですから、私たちの感情を受け止めてくださいます。幼い子が転んだり、けんかをして悔しい思いをしたときに、まっさきに、お父さん、お母さんのふところに泣いてとびこみます。そして、ひとしきり泣けば、すっきりしてまた遊びにできけます。ちょうどそのように、私たちも天のお父さんのところに真っ先に行けばいいのです。
感情の傷からの解放の証し…
私が人に言うのをやめ、神様に感情を注ぎだしたとき、癒やしが始まった。ある時、ひどく傷つくようなことを人に言われたとき、その人が部屋からでたあと、すぐに、「聖霊様。今の聞いておられましたよね。ひどいと思いませんか」と、言ってみた。その瞬間、心があらわれ、いつもなら苦々しい気持ちが取り去られないのに、そんな気持ちは一切心に残らなかった。
私たちは、よく、辛いこと、いやなことがあると、あんなことされた、こんなことされたと、人に言いにいきますが、人にどれだけ吐き出しても、それは、単なる文句やゴシップにしかなりません。癒しには絶対になりません。何年もそれをしても、一向に癒されていない人を何人も知っています。
大切なことは、神様に感情を注ぎ出すこと。そして、次の項にあるように、相手を赦すことです。
聖書の中では、モーセやダビデが自分の辛い感情を神様に表現し、ぶつけているいい例ですね。
モーセ 民数記11:10-15
ダビデ 詩篇142編
神様に、心を注ぎだしてもいいのです。さあ、神様に話し始めましょう!
Ⅱ イエス様を見出す
心を神様に注ぎだし、文句も不満も疑問も感情とともに神様の前に注ぎだしているうちに、心が平安になっていくことでしょう。
きのうも、今日も、いつまでも同じイエス様に、痛みの光景の中にきていただきましょう。今まで、痛みが大きすぎて、その場所にイエス様を迎えることなど考えたことも無かったかも知れません。しかし、祈りの内に、その光景にイエス様をお迎えしましょう。
ある人は、イエス様があなたを守っているのが見えるでしょう。またある人には、イエス様があなたの代わりに戦っているのが見えるかもしれません。ある人は、イエス様があなたを抱きしめて優しい言葉をかけている光景が見えるかもしまれせん。
悲惨な出来事の只中にいて、イエス様のあたたかさ、愛に触れるとき、人の心、感情の傷は癒やされていきます。
人間は、あまりにも辛い体験をすると、自分を守るために、その感情にふたをして毎日痛みに直面しないですむようにしています。ですから、そのシステムが強く働いている人たちには、もちろん、一度に感情を出すことが難しいことがあります。その場合は、一度だけではなく、何度も、何ヶ月かおきに、神様に導かれるときにやってみるといいでしょう。
Ⅲ 完全な赦しへ
感情が落ち着き、イエス様に触れていただいたら、今度は、あなたの心の中に一つの変化が出てきているのが分かるでしょう。今までは、できれば、赦したくない。聖書に赦しなさいと書いてあるからこそ、赦しますと言うが、感情がゆるさなかった人がいませんか。
心を神に注ぎだした人は、今度は、自然にその人を赦したいと思うものです。というのも、いわば相手に負わせている自分の感情の負債というものをイエス様が払ってくれたので、もう相手を責める気にならないからです。そして、赦せるようになるでしょう。
そして、今後は、同じ光景を思い出しても、今までのように痛みは思い出さなくなるでしょう。また、自分が、相手を完全に赦せていることにびっくりすることでしょう。
みなさんの感情の痛みが完全になくなりますように。心が癒され、解放を体験できますように。お祈りしています。
ぼ
昨日は、シアトルは2℃。
夜もものすごく寒かったです。
いつもよくいくスーパーの前に、立って生活のためにReal Change という新聞を売っていたり、小銭や寄付を求めている人が必ずいるんですが。。。
Real Change... 元ホームレスなど、いろいろな理由で職がなかったり、お金儲けのすべがない方が、このNPOから新聞を60セントで買って、街角に立って、1、2ドルで売って儲けをだして、生活の足しにする、というものです。
その中でも、スティーブさんという、もと米軍兵士の方はおなじみで、主人もかつて空軍にいたことから、戦争で障害を負ってしまったスティーブさんには共感できる部分が多いようです。また彼は、とても明るく、道行く人を笑顔にしてくれます。
こんな寒い日に車いすのスティーブさんはいるかどうか分からなかったのですが、少しの買い物ついでに、袋に食べるものを詰めて持っていくことになりました。
缶詰め、リンゴ、カキ、ほかにないかなあ。そうだ、バナナブレッドはどうかな? 主人の好物のバナナブレッドを数日前に焼いていたのがたくさんありました。
それらを、詰めて、歩いていきました。
今日はいるかなあ。。。と。
すると、一人だけ、知らない人が立って、Real Change を売っていました。
私たちは、普段現金を持っていないので、通り過ぎました。
彼は、素足にスリッパです。
忠誠心の強い主人は、スティーブに会いたかったようですが、今日は彼にあげようよ、ということになりました。
その方は、元ジャーナリストのトッドさんでした。彼は、バナナブレッドにいたく感動し、身の上話を始めました。
大方30分ほど話したと思います。
彼は、その日、昔の幸せだった日のことを思い起こしていたのだそうです。恋人が作ってくれたバナナブレッドが懐かしいな。美味しかったなー。なんて思ってたら、なんと、手作りのバナナブレッドが来た。と大喜び。
大成功の人生から一転して様々な不幸が押し寄せ、6年間のホームレスを経て、やっとアパートに入れたという彼。昨日は、キーアリーナで、貧しい人のために、ただで歯の治療やメガネを作ってくれるというボランティア活動があったそうで、眼鏡も作ることができたそうで、彼は、感謝でいっぱいでした。
話しているうちに、彼の顔は、ほころび、輝いていました。
一人寒空の中立っていた時の表情とは、全く違っていました。
今日は、何気なく持ってきたバナナブレッドがとっても役に立った。
この人生立ち直りかけた、トッドさんが、やっぱり将来を信じてやっていこうと思える励ましとなることができた。
良かった。
帰り道。こんなに、バナナブレッドが人を幸せにするなら。今度から、毎回少しづつもって歩こうか。なんて、話しながら家に帰りました。
たくさん歩いたせいもあるし、トッドさんの人生に触れることができたこともあり、家に帰るころには、寒さもまったく感じないほどでした。
トッドさん、またジャーナリストとして活躍できる日がくるといいですね。
ぼ
2014年11月9日日曜日礼拝、音声はhttp://youtu.be/-pHpbOFK-Ww
次の詩を読んでみましょう。
Belief System
If you accept a Belief, you reap a Thought.
If you sow a Thought, you reap an Attitude.
If you sow an Attitude, you reap an Action.
If you sow an Action, you reap a Habit.
If you reap a Habit, you reap a Character.
If you sow a Character, you reap a destiny.
Anonymous
私たちの運命は、あなたの心の信じていること次第ということですね。
あなたが何を信じているかと言うことは、とても重要なことです。
言葉の力
人間は、神の似姿に造られました。創世記2:7で、神が人に息を吹き込み、人は生ものととなったとありますが、言語ヘブル語では、Speaking Spirit になった。と言う意味です。
以来、人は、絶えず、言葉を発信しながら生きています。頭の中で、言葉といわずとも、イメージを描きながら生きています。この言葉を組み立てる場、イメージの場が実は、戦場です。悪魔は、ここを占領したいと思っています。そして、ここで、おきていることが実際の行動にでてくるのです。
なぜでしょうか。私たちの源、原形神様はどんなお方でしょうか。神は、「光よ。あれ。」と言われました。すると、光ができました。神は、ご自身の頭のイメージを口にすることによって、世界をご自分のイメージ通りに造り上げられました。また、神の言葉は、ギリシャ語で、Sperma スパーマ 神の種と言う意味があります。(Ⅰヨハネ3:9) 神の言葉には、その意味するところを完成に至らせる力かこめられているのです。このように、神のイメージで造られた人間の言葉にも、力があります。
同意の力
祈りは、天で起きていることと同意することです。また同意の祈りに力があります。(マタイ18:18-20) 神の御言葉に同意するとき、信仰が生まれます。また、前回の偶像礼拝の仕組みの説明にもあったように、手を合わせるという悪霊との同意を表す行為によって、悪例との契約関係が成り立ち、悪霊からの力を全面的に受けるという同意となり、ネガティブな力が人生に働くようになるのです。このように、同意には、力が働きます。
では、私たちは、日々何に同意して生きているのでしょうか?
マインドの役割
御言葉は、次のように言っています。
ローマ書12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。And do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and perfect will of God.
神の御心に同意するように。同意できるようにするためには、マインドを新しくされる必要があるということです。
私たちのマインドは、本来神にあっては、聖なる場所、神にあってビジョンと聖なるイメージによって、御心にそって世の中を治めるための場である。
私たちのマインドで何が起きているのでしょうか。①敵は、本来聖なる場所であるマインドを自分たちのうそで一杯にしたい。霊的戦いの場である。②神の真理が実現する、信仰の場。神とともに将来を産み出す場である。③マインドは、トラウマや経験によって、自分なりの人生の解釈をする人間的な実体験を整理する場でもある。
真理と偽り
私たちはイエス・キリストを信じて、真理によって救われました。そして、聖書に書かれてあることは、全て真理だと信じているはずです。しかし、実際にそうでしょうか。信じているなら、どうして疑いや心配をするのでしょぅか。
実は、私たちは、聖書の真理よりも、脳に記憶されている実際自分が経験した過去のデータを強く信じているのです。また逆に、信仰生活にはいってから、聖書のみ言葉に従えば従うほどそれが、自分の経験になり、それが自分の真理として現在の自分の行動の理由になっているのではないでしょうか。
例) 双子の姉妹。いつも比べられる。自分がいつも姉と比べて、ねたみを持つ。「姉はいつも物事がうまくいく、自分はだめ。姉は美人、自分はだめ」と言う風に信じるようになる。その人は、次第に太っていく。何をしても痩せられなくなった。
権威者と言葉
私たちは、物事を祝福するためと、神のマインドをもって世界を築くために言葉の能力が与えられています。 しかし、必ずしも祝福と神様の御心にそって言葉が使われているとは限りませんね。
私たちの上に置かれた権威者の言葉というものには、力があります。それは、私たちが霊的に私たちの上に立ち治めるものとしてsubmit しているからであり、神様にあってもそうあるべきだからです。しかし、権威者の言葉と言うものは、良くも悪しくも、強く私たちの魂に影響を及ぼします。
幼いときに父母に繰り返し言われた、言葉。学校の先生に言われた言葉。妹の例 / クラブの先生に、「のろま、気がつかない、あほ。」牧師に言われた言葉。
トラウマと言葉
トラウマは、個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その体験が長く残るというもの。ギリシャ語で傷という言葉から来ている。いわば心の傷。 言葉というものは、絶えず心の傷と密着しています。この言葉が神の言葉となったら勝利です!
生活、人生、ものの考え方にまで影響を及ぼす傷と言うものは、どのようにできるのでしょうか。
それは、たとえば、小さいときに、親がものすごく怖い顔で、ものすごい剣幕であなたに向かっていった言葉があります。”怖い” と言うだけで、トラウマです。そこへ来て、否定的な言葉を浴びせられるとします。「おまえは、馬鹿だ」と。すると、トラウマと、「わたしは馬鹿だ」がセットになって心に納められます。子どもは、常に「わたしは馬鹿だ」というフィルターを通して物事を見るようになります。
また、交通事故にあいます。心身ともにこれは、大きなトラウマです。ここに、悪魔がふっと思いや疑いを入れてきます。またこのようなことがおきるかもしれない。おきたらどうしよう。という恐れ。そして、それと同意し信じ心の中に受け入れます。すると、その恐れと、その言葉を通して物事を考え、世界をみるようになるのです。
心の傷は、癒やされる行程を踏まずにいると、このように、敵が言葉や恐れを入れてきて、それを信じるようにさせるのです。そして、鍵の英語のみ言葉にもありますが、人は、信じたとおりに生きるようになるのです。
心の傷は、いつも、辛い、痛い、悲しい、恐ろしいという感情とともに、言葉がくっつき、それが信条となり、根深く人の行動の基として残ってしまっているのです。
イエス様とトラウマ
イエス様は、十字架につく際に、ひどく侮辱され、痛めつけられ、辱められた。しかし、それはトラウマとはならなかった。むしろ、彼は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分のしていることがわからないのです。」という余裕すらあった。それは、なぜか。アイデンティティをしっかり持っていた。自分は、何者であるのか、何の目的でこの地上にいるのか。はっきりしていた。健康なセルフイメージ、アイデンティティを持っている人。健康な聖書理解のある人は、どんな目にあってもトラウマとならない。傷とはならない。わたしたちは、ここまで成長したい。
あなたのアイデンティティは?
御言葉はあなたのことをなんと言っているでしょうか。 私たちの多くは、人に言われた言葉や、自分の過去の経験や失敗から、自分のアイデンティティを形作っている。また自分が分からない人も同じである。私たちの、本当の姿、神に創造された素晴らしいあなたというのは、それらの偽のアイデンティティを一掃しなければ見えてこないものです。
また、私たちのアイデンティティは、私たちの造り主、神から来るものです。あなたの友達でも、あなたの考えでも、あなたの両親でもありません。私たちは、神の言葉がなければ、自分を見出せないのです。
さあ、マインドのフィルターを掃除しましょう
祈りのうちに、添付のプリントに当てはまるものに〇印をつけていきましょう。そして、二人グループになって、祈りの実践をしていきましょう。祈りの終わりに必ず、神様からの真理を受け取ってください。
宿題
ミニストリーの中で受け取った真理言葉を毎日、朝声を出して宣言してください。四十日毎日続けてください。そうすると、脳が変わり、行動が変わってきます。
ぼ
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