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2013年9月21日日曜日礼拝
このメッセージは、ほぼ去年の今頃のメッセージですが、とても大切なのでここに載せようと思います。今週は、私たちの教会では、ミャンマー人の牧師先生に来ていただきました。私と主人は、東ワシントン州の農家の町、Waterville のルーテル教会でメッセージの奉仕をしました。
今日は、いつものシリーズを置いて、お金のお話しをしたいと思います。なぜなら、このことが私たちの信仰生活にかかっているからです。イエス様もよくお金のお話しをされました。よくよく聖書を読んでみると、
• Jesus talked about money more than He did Heaven and Hell combined.
• Jesus talked about money more than anything else except the Kingdom of God.
• 11 of 39 parables talk about money.
• 1 of every 7 verses in the Gospel of Luke talk about money.
どうしてでしょうか。お金が大事といっているんでしょうか?
違います。それは、
マタイ6:21
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 For where your treasure is, there your heart will be also. とありますね。イエス様は、私たちの心が大事といっているんです。先々週も話しましたが、神様は、私たちの心が欲しいんです。
私たちは、お金を宝としていないと思いますね。しかし、どうでしょうか。少なくともお金に気持ちや、私たちの決断、が左右されていないでしょうか。その場合、神様の声よりも、お金を宝としているといえます。
またイエス様は、こういわれました。
マタイ6: 24
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 “No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or else he will be loyal to the one and despise the other. You cannot serve God and mammon.
◎ Mammon
聖書の中に四回でてくる。イエス様は三回言っている。ルカ16:9
これは、仕える対象なのだから。This is one of Spiritual entities as well. 霊的存在。霊的人格を持ったものと言える。イエス様は、マモンと神に仕えられないと、他の神と並べないで、マモンを引き合いに出してきた。
シリアSyrian god of richesの神の一つ。バビロンから来ている。バベル。Confusion . バビロンの意味は、plant in confusion. 自分の力でシステムを作って、神に到達する。もう神はいらないというスピリット。Anti-Christ spiritマモンは、神に敵対するものであり、霊的存在であり、お金の背後に働いているもの。
◎ お金とは…
お金自体が悪いのではない。お金は、人が作った。買ったり売ったりするためのツール。価値はいつも変わる。Money is man(world)-made system. To buy and to sell. Exchange. So, its value changes all the time. It is just a tool to exchange things. Riches is God-made. Silver, gold, land and so on,… Law of inheritance
● Mammon が働いている症状
恐れ。心配。金持ちは、お金を失いたくない。貧乏人は、セイブしたい。どっからでもお金をもらいたい。と執着。コントール。捕らわれる。マモンは、いつも、無いこと、無いからできないということを強調してきます。何があるか、より何が無いかに捕らわれる。お金さえあれば、結婚関係は、うまく行く。私の人生は、よくなる。人が尊敬する。と考えさせる。お金は、問題の解決策ではない。お金がもっとあったら、もっと人助けができる。Etc,… 神様がしてくださるのです。
恐れや心配は、神様の世界の間逆。神様は、どんなことが合っても、恐れるなと言われる。また心配は、罪といえるほど、神様をないしろにしていることです。
●霊とまことの法則
霊とまことによって、私たちは、神を礼拝する。父は、このような礼拝者を求めています。ヨハネ四章にありますが。これは、お金に関しても真理です。お医者さんが学校に行ったこともなく、手術もしたことないけど、聖霊に満たされてあなたに手術をしてあげようと言ったら、あなたは、どう思いますか?? 待ってください。学校でちゃんと学んで、しかも、聖霊に満たされたお医者さんを捜します。と言いませんか?? 私たちも、ちゃんと、真理に従っている。十分の一献金をしている。捧げている。貧しい人に与えている。しかし、どうして、いつもお金の問題がなくならないのでしょうか。それは、霊的な要因を見落としているからです。
もう一度いいます。神様は、あなたの心を求めておられます。
私たちは、全財産をなげうって、貧しい人に与えるようなことをしても、間違った心で捧げることもできるので。そして、この間違った心でやっている限り、経済的祝福は来ないのです。なぜでしょうか。祝福は、神様から来るからです。そして、祝福が来ないのは、マモンの霊に使えているからです。
真理だから、仕方ないから、捧げる。いいことだから捧げる。面子を立てるために捧げる。神様がきっと倍にしてくれるから、捧げる。特にこれは、神様を自分のしもべのように考えて倍増を要求して、そのために捧げることも、正しい心ではありません。神様は、次のような人を愛されます。
Ⅱコリント9:7
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
7 So let each one give as he purposes in his heart, not grudgingly or of necessity; for God loves a cheerful giver.
やっと聖書を開きますが。第一列王記、17章を開きましょう。ここに素晴らしい例が書いてあります。私たちは、どのようにして、このマモンスピリットを打破ったらいいのかと考えながら読んで行きましょう。
Ⅰ列王記17:1-16
エリヤの話し;
① カラス…エリヤはカラスに養われた?? ききんのときに。このレッスンは、神の声に従うこと。従順。卑しいカラスをとおしてでも、神ご自身がエリヤを養うことができるのだと学んだ。もっとも、望ましくない供給方法だが、神がその上におられて、神ご自身がどんな状況においても、ききんのときでさえも養ってくれるということを学んだ。
エリヤの供給源が変わったのでしょうか。いいえ、前から神様が養っていました。今度は、荒野でカラスを通して神様が養っただけのことです。
人間は、自分の糧が来る場所、チャンネルが変わるととても揺るがされる。仕事が変わる。これからどうしよう。というように。しかし、その時こそ、神こそ、私の供給源だと知るべき。
Sparrow faith スズメは、蒔いたり収穫したりしない。なす業によって食べていかない。ただ、神の恵みによって。。一羽のすずめを養ってくれる神はあなたを必ず養ってくれるという信仰。
② やもめ…
当時やもめというものは、全く収入源が無かった。今でこそ、働きにいけるが。。当時は、女は、男性の所有物のようなところがあった。夫を亡くしてしまえば、完全に依存して、養ってもらえる人がいなくなってしまう。彼女は、だだ、持っているもの、を食いつぶしながら生きていた。
Ⅰ列王17:12
「彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」So she said, “As the LORD your God lives, I do not have bread, only a handful of flour in a bin, and a little oil in a jar; and see, I am gathering a couple of sticks that I may go in and prepare it for myself and my son, that we may eat it, and die.”これだけしかない。と無いことを強調するのがマモンの霊。
彼女は、夫と言うリソースが無い、金がない、食べ物がない、だから、もうすぐ食べ物がなくなるから、死ぬ。と結論付けているのです。
そして、エリヤがまずパンを作って、わたしに持ってきなさいという。Wow> 最後の粉を使って、自分にもってこいと?? 死ねという宣告のようなことをした。
神様は、どうしてこのようなことをするように、エリヤに言ったのでしょうか。神様は、このやもめのソース、すなわち、粉、生活の糧の全てを取り上げなければならなかったのです。それが無くなったとき、初めて、神様ご自身が自分のソースだということに気付くからです。神様は、やもめの信仰を引き上げたかったのです。そして、雨が降るまで、この貧しいやもめと子供を守りたかったのです。
ここで、彼女の中で変化が起こった。 ラディカルと思えるようなことがあるが、従うときにブレイクスルーがある。
彼女は、したがって、言われたとおりにパンを作って一番にエリヤに持っていった。
そこで、
マモンの霊が砕かれた。
16 The bin of flour was not used up, nor did the jar of oil run dry, according to the word of the LORD which He spoke by Elijah. 16「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」
彼女のかめの粉は、尽きることが無かった。スーパーナチュラル multiplication 。
神様は、彼女に、あなたのリソースは、夫でもない、食べ物でもない、金でもない。私だ。と教えた。また、エリヤだって、貧しいやもめから最後の粉を取り上げるようなことは人間的には、したくなかったでしょう。しかし、エリヤは、カラスを通してさえ、養うことのできる方は、やもめを通してもできると信じることができたのです。
やもめは、エリヤのおかげで、信仰が引き上げられ、貧しさと、いつ死ぬか分からないという恐れから完全に解放された。
{私たちの証し}
三年近く前の交通事故がやっと解決し、予想よりも少ないお金だが、慰謝料が入った。それについて、もうすでに、不満足だった。その時からすでにマモンの力に従っていたのだろう。そこから、もちろん十分の一献金や捧げものをした。バンを買った。悪いものだった。持っていたすべてのお金をつかったが、後から後から、売り手の嘘が分かり、故障が多く見つかる。修理しないと危なくて運転できない。お金がいる。。。本当にデバステイトした。どうしてこんなことが?? とも思った。しかし、これは、私たちのうちにあった、隠れたマモンへの信頼と貪欲、不信仰が表に現れるためと分かった。
夫婦で悔い改めた。相手を赦した。まだ、どのようにして支払っていくか分からないが、神様に感謝している。
その後、エリックが不思議な方法で、神様からの助けを得ることになった。ますます感謝。
マモンの霊を打破るには、第一に、従順。第二に、神が養ってくれると確信すること。第三に、信じて、神にあって喜んで捧げること。
<余談>
神の国の経済の法則 増殖multiply 二匹の魚と五つのパン。全ての人が有り余るほど、増えた。エリヤを養ったやもめは、かめの粉は尽きなかった。家族もエリヤも養うことができた。
この世の経済の法則 あなたのお金を私にください 増殖の逆の例がギャンブル。ギャンブルは、皆からお金を取って、元締めが儲かる。誰か一人が買ってたくさんお金が入る。他の人は、お金を取られるだけ。
神様は、唯一私たちが愛すべき方。仕えるべき方。
Ⅰテモテ6:10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。For the love of money is a root of all kinds of evil, for which some have strayed from the faith in their greediness, and pierced themselves through with many sorrows.
ぼ
2014年8月24日日曜日礼拝 音声はhttp://youtu.be/PWfEayp-CBU
聖書箇所
マルコ15章1-41
夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」3 そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。4 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」5 それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。6 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢に入っていた。8 それで、群集は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。11 しかし、祭司長たちは群集を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。15 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。24 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。28 (異本)「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである」29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
今日の聖書箇所を皆さんで輪読しましょう。
★妬み・群集心理…罪
V1夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。Immediately, in the morning, the chief priests held a consultation with the elders and scribes and the whole council; and they bound Jesus, led Him away, and delivered Him to Pilate.
ユダヤ人たちは、イエス様を殺すことにしたかった。そして、当時は、ローマに支配されていたので、自分たちだけでは、死刑にできないので、ローマの総督ピラトのところにイエス様を連れて行ったのです。しかし、ピラトが尋問しても、イエスに死刑に値する罪は見当たらなかった。
皆さん、罪には刑罰が伴いますね。イエス様には、何の罪も見当たりませんでした。大変興味深いことに、実際に十字架の死に追いやったのは、祭司たち/宗教者たちでした。そして、その理由は、妬みからでした。イエス様は、大工の息子でありながら非常に権威があり、様々な奇跡をなし、自分たちの知らない御国の価値観を語り、多くの人々がイエス様を慕い、ついて行きました。イエス様は、一躍時の人でした。
祭司長たちの妬みは、人を殺すほどでした。
みなさん、妬みというのは、それほど強いものです。そして、妬みは必ず劣等感inferior complexの裏返しです。
私はクリスチャンカウンセリングをしますが、妬みの問題については、非常に注意深く取り扱います。妬みが強い人は、非常に解放に時間がかかります。とても根が深いのです。また妬みは、人を強く憎む傾向があります。それと同時に、自分の人生を好きにはなれません。大きな問題です。
聖書の中でも、十戒にもちゃんと書いてあります。出エジ20:17 「…すべてあなたがたの隣人のものを欲しがってはならない。」“You shall not covet your neighbor’s house; you shall not covet your neighbor’s wife, nor his male servant, nor his female servant, nor his ox, nor his donkey, nor anything that is your neighbor’s.”
また、聖書の一番初めに起きた殺人は、妬み故でした。カインとアベルの兄弟話し。創世記4章。カインがアベルを妬みから殺した。
妬みは、自分が相手の立場だったら良いという思いです。ですから、相手を殺してまで、その人の地位を取りたいという思いなのです。あなたがそれに気がついていようといまいと、そのように命を殺す力があるのです。
ピラトは、何とかこの罪の無いイエスを助けようと試みました。当時、過ぎ越しの祭りの日に、罪人を一人恩赦する慣わしとなっていたのをとって、イエスを釈放しようとしました。
V10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。For he knew that the chief priests had handed Him over because of envy.11 But the chief priests stirred up the crowd, so that he should rather release Barabbas to them.
V11-15しかし、祭司長たちは群集を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と言った。13 すると彼らはまたも「十字架につけろ」と叫んだ。14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。15 それで、ピラトは群集のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。12 Pilate answered and said to them again, “What then do you want me to do with Him whom you call the King of the Jews?”13 So they cried out again, “Crucify Him!”14 Then Pilate said to them, “Why, what evil has He done?”But they cried out all the more, “Crucify Him!”15 So Pilate, wanting to gratify the crowd, released Barabbas to them; and he delivered Jesus, after he had scourged Him, to be crucified.
祭司長たちの世論操作は、相当のものでした。群集は、イエスを十字架にかけろ、極悪人バラバを釈放しろと要求しました。とうとう、ピラトは、群集からの人気を失いたくないので、イエスを十字架に掛け死刑にすることに決めます。
ここに、群集心理と言うものも、大きく働いています。人と言うのは、多くの人を敵に回したくないと、長いものに巻かれる、大勢の人の言うことに流されるのです。日本では、特にそれが多いのではないのでしょうか。人がどう思うか。それよりも、真理、真実に基づいて、ぶれない生き方をしたいものです。
★イエス様の反応
V5 それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。But Jesus still answered nothing, so that Pilate marveled.
全てを自分たちの思うがままに、操作をする祭司長たちとは、違い、イエス様は、自分で自分を正当化することも、守ることもありませんでした。ただ、黙り、もくもくと耐えておられました。
V23そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。 Then they gave Him wine mingled with myrrh to drink, but He did not take it.
あまりにも、痛みが激しく弱っていくイエス様に、没薬を混ぜ打ぶどう酒を飲ませようとしました。これはには、 麻酔の働きがあったからです。しかし、イエス様は受け付けなかった。それは、人の罪の刑罰の痛みを和らげることなく、そのまま受けるためであった。
神の御心に従う姿。神の良い計画に完全に信頼する姿。
人におとしめられたとき、このように神に信頼することができたらと思います。最終的に勝利させてくださる神に完全によりかかることができたら。
★傍観者たちの態度 ののしる人々
V29-32道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32 キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。And those who passed by blasphemed Him, wagging their heads and saying, “Aha! You who destroy the temple and build it in three days, 30 save Yourself, and come down from the cross!”31 Likewise the chief priests also, mocking among themselves with the scribes, said, “He saved others; Himself He cannot save. 32 Let the Christ, the King of Israel, descend now from the cross, that we may see and believe.”Even those who were crucified with Him reviled Him
十字架に掛けられるイエス様を見ている人たちは、イエス様をののしりました。自分たちに分かるように、自分を救って見せろと言いました。そうしたら信じてやると。
繰り返し言いますが、そのような態度の人たちには、神様からのしるしはありません。信仰のないところに救いは、ありません。分かるようにやって見せろではなく、信じる心が大切なのです。私たちは、いくら、このストーリーを知っていても、教会に足を運んでも、聖書を読んでも、傍観者であるかぎり、救いは体験できないのです。
十字架の傍観者ではなく、信じる者になりましょう。
★十字架を耐え忍び、死んだイエス様 … 贖いの完成
V37-38 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。And Jesus cried out with a loud voice, and breathed His last.38 Then the veil of the temple was torn in two from top to bottom.
他の聖書の箇所では、イエス様は、「完了した」It is finished! と叫ばれて死なれました。それは、贖いの業が終わった! 完成したということでした。しかし、なぜ罪の全く無い方が死ななければいけなかったのでしょうか。
イエス様の十字架の死は、あなたの罪の身代わりの死です。誰でも、罪ある者は、神様との交流を絶たれています。しかし、罪が取り除けられるならば、神様との交流が回復します。それだけではなく、永遠の命が与えられ、地獄ではなく、天国に入ることができます。
聖書に、ロマ6:23「罪からの来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.
ヘブル9:27,28「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることとが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、…」And as it is appointed for men to die once, but after this the judgment, 28 so Christ was offered once to bear the sins of many.
とありますが、誰でも、自分の罪をイエス様が背負ってくださり、十字架で自分の罪と一緒に死んでくださった。すなわち、罪を贖ってくださったと信じるならば、赦されるのです。死後の捌きを免れるのです。
今日読んだとおり、イエス様は非常に苦しまれました。恥をかかされました。痛めつけられ、馬鹿にされました。誰でも、イエス様を信じるならば、どんな罪も赦されない罪はありません。また、ぬぐわれない恥はありません。癒されない病はありません。乗り越えられない苦しみはありません。
ただし、その罪の赦しを得るのは、私の罪もイエス様の十字架とともにつけられたと信じる人です。
あなたも、この十字架にかかられたイエス様を信じませんか。
ぼ
2014年8月17日日曜日礼拝 音声はyoutube からhttp://youtu.be/Jf8oXDWUCc8
聖書箇所
マルコ14:3-9
イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
先週、礼拝とは、イエス様の愛に感動して応答するものだ。イエス様の愛ありきの礼拝だということをお話ししましたね。
今週は、いよいよ、イエス様が捕らえられ連れて行かれる場面でした。14章の初めにも記されているとおり、もういつ捕らえられるかという緊張感の中にイエス様も弟子たちもいたのではないでしょうか。今日は、有名なナルドの香油を捧げた無名の女の話ですが、これが起きたのは、V3 らい病人シモンの家でした。
★どうしようもない私のところに来てくださるイエス様
今まで、読んでいてあまり気がつかなかったのですが、イエス様は、ご自分が捕まえられ、殺されるかも知れない時にも、病人の家を訪問しておられたのです。しかも、らい病人です。当時は、汚れたものとされ、誰も尋ねない家です。友達や家族から引き離されることも当然のことでした。また不治の病でしたから、どんどん進行する病気にどんなにか恐怖を感じていたことでしょうか。そのシモンの家をイエス様は訪れたのです。そして、ここが最高の礼拝の舞台となりました。
今日のお話しは、まさか、この人が神様を喜ばせることはできないだろう人々が思うような、二人の人物が中心になっているのです。らい病人というのは、当時の社会の敗者であり、どうしてもそこから這い上がることはできない立場でした。また、この名も記されていない女性は、イエス様に七つの悪霊を追い出された売春婦だとも言われていたり、またベタニヤのマリアであるとも言われています。いずれにしても、女性というのは、当時まったく身分の無い存在でしたから、まさか、この人が偉大なことをするとは考えられないことだったのです。
イエス様は、あなたのところに訪れてくださいます。たとえあなたが、人生のどん底にいようと、友達がいなくても、心の中に暗闇があっても、イエス様はあなたを探し出して、訪れてくださるのです。このイエス様を受け入れましょう。
★ナルドの香油
らい病人シモンの家で、イエス様が食卓についているとき、一人の女が入ってきました。非常に高価なナルド油のつぼを持っていました。彼女は、それを割って、イエス様の頭に注ぎました。
この女性がなぜこのようなことをしたのかは、はっきり書かれてはいません。しかし、イエス様はりっぱだと誉められました。イエス様がりっぱだと誉められた人は、あまりいませんでした。百人隊長とカナン人の女くらいだった。
非常に高価な香油 … この香油は、三百デナリするものでした。人が一年働いた分くらいの金額です。
贈り物と愛… 贈り物というのは、相手を想って捧げられるもの。贈り物を見たら、送り手がどれほど相手を想っているか、また相手を知っているかが良く分かる。昨日は、エリックの誕生日でした。エリックは韓国料理が好きなので、韓国料理の店に連れて行きました。また日本語を習いたいので、CDのセットを前々から買って用意しました。相手を知っているから欲しいものが分かるのです。愛がそうさせます。また贈り物は、相手にふさわしいものを送ります。誰も天皇陛下にプレゼントするのに、その辺のお菓子をプレゼントする人はいません。値段も高くて良い品物を選ぶはずです。
この女性は、最高級の香油をイエス様に捧げました。愛の現れであり、高価な捧げ物でした。
イエス様のメッセージへの応答であった… イエス様は、ご自分が捕らえられ殺されることを三回は弟子たちに話している。弟子たちには、全くこのメッセージが心に入っていなかった。彼らの心は、自分たちのことでいっぱいであったからです。誰が一番出世するか、イエス様が政治的にイスラエルを治めてくれるのかなどといったことで頭がいっぱい。
しかし、この女性にとっては、もうすぐ捕らえられて殺されるイエス様に最高のものを捧げたかったという愛があった。
この行為は、埋葬の準備となり、また救い主である、彼女の心の王として認める油注ぎであった。
この香油は非常に高価な香油であるため、少しだけを使ってもよい香りがするものである。彼女は、つぼごと割って注いだので、その香りは、家全体に広がり、また、イエス様がゲッセマネで血の汗を流して祈られた時も、十字架を背負って歩かされた時も、十字架にかかられたその時もきっと香っていたに違いない。この女の捧げものが、イエス様の心をいかに慰めることとなっただろうか。
★弟子たちの反応
4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
◎宗教との対立
弟子たちは、憤慨します。「高価な香油を無駄にしたと言った。」弟子たちには、イエス様の香油に勝る価値が見出せていなかった。イエス様の傍にはいたが、イエス様のことは理解してはいなかった。
弟子たちには、貧しい人に施すために売ったほうが、宗教的に正しいと見た。
しかし、イエス様は、言われた、。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
弟子たちは、神を喜ばせることを追及しようとしていた。宗教は、自分が神を助けることができると勘違いさせるものである。それは、行い重視するあまりに、目的と方法が逆転してしまうのです。
この女は、自分にできる最高の礼拝をイエス様に捧げたのでした。それは、頭で考えて、何が一番無駄がなく、神が喜ぶか考えたものではありません。
ただ、いつものように人からのけ者にされているらい病人シモンの家に訪れているイエス様、もうすぐいなくなっていしまうイエス様に対して、最大の愛を表現したのです。
最高の捧げものをしました。イエス様ご自身を喜び、愛していたのです。
神を喜ばせることが礼拝ではなく、神を喜ぶことが礼拝である。 弟子たちは貧しい人にその大金を施した方が神様は喜ぶと考えた。しかし、イエス様は、この女の礼拝をりっぱだと誉めた
あなたが神を喜ぶときに、最高の礼拝を捧げることができる。
★福音の行くところどこにでも
世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
礼拝は切り離せない。神ご自身を喜ぶことは切り離せない。これから、聖霊降臨後、福音宣教がどんどん広がります。弟子たちは、イエス様に対する愛ゆえに犠牲を払って、外国に出ていきます。その最高の捧げ物・犠牲が無ければ、イエス様の愛への応答がなければ、福音宣教は進まなかった。イエス様を愛して、最高のものを捧げるという行為が、福音宣教を前進させるのです。
福音には、このような礼拝が要求される。福音には、そのような価値がある。
ぼ
2014年8月10日日曜日礼拝 音声は、youtube http://youtu.be/m49cHlxrHpU
マルコ12:28-34
28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにはありません。」32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。33 また、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
宗教というのは、自分を高めるため、自分に利益が来るため、または、自分が高まって神の一人になるためにするものである。しかし、キリスト教では、少し、違う。先週も受け入れるとか、捨てなければならないことを話しましたが、これは、世の宗教のコンセプトと違うものです。キリスト教の特徴は、今日読んだ御言葉に現れているのではないでしょうか。
聖書を要約するならば、この言葉に尽きます。「神を愛し、人を愛す。」これが聖書の教えです。私たちは、時々、忘れてしまいそうになるのではないでしょうか。
★キリスト者の特徴は、愛すること
Ⅰヨハネ4:8-13 12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。No one has seen God at any time. If we love one another, God abides in us, and His love has been perfected in us.
★愛するとは
Ⅰコリント13:4-7 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
★愛とは与えるものである
愛と言う言葉は、ギリシャ語で、アガペー これは、一方通行の愛です。神から私たちへの愛です。例えば友愛はフィレオー、これは友情ですから、行ったり来たり二方向です。もう一つ、エロスこれは、男女間の愛、肉体の愛。これも二方向です。
アガペーと表現されている、この愛は、私たちから誰かに与える愛なのです。私たちは、特に若いときには、愛は、受けるものだと考え、愛を探して生きるようなことがあります。友達の中に探そうとしたり、恋人の中に探そうとしたり。。。けれども、人は、愛することができたとき、すなわち与え続ける愛が人を祝福するときが一番幸せなのです。お母さんは、自分を犠牲にしていても、幸せを感じるのです。夫は、毎日職場で苦労しても愛する家族を養うときに幸せを感じるのです。
★自分を愛するように隣人を愛する‘You shall love your neighbor as yourself.’
この世の中は、人から愛を奪おうとする世の中ですから、人を愛することに混乱があるのはもちろんですが、聖書には、「自分を愛するように」愛せ、と書いてあります。さて、どのくらいの人が自分のことをよく理解し、受け入れ、愛しているでしょうか。自分を認めているでしょうか。自己充足しているでしょうか。まず、自分が神様のうちに憩い、自分が何者であるかを知り、自分がどんなに神様に素晴らしく造られているかが分からないのならば、他人をどう愛したらいいのか、分かりません。ですから、今度の七つの賜物セミナーは、大変意義のある物ですから、皆さんにお勧めしているわけです。現代は、自分を知らない、自分を愛せない病で満ちています。
しかし、ここに朗報があります。
★この愛は、私たちの救い主イエス・キリストに完全に現れている
ローマ5: 8
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
私たちが愛を語るには、キリストなしには、語ることができません。この御言葉にあるように、私たちが何か良いことをしたから、何か基準を満たしたからではなく、むしろ、私たちがまだ罪人で、罪について、神について何も分からないときに、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。これほど大きな愛はありません。
★神の愛への私たちの応答…心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength.
愛することは、自然には難しい。母が子を愛することのみは自然なことです。夫婦、兄弟、親子でも難しい。キリストの愛の土台に無いならば、愛することは分からない。また、愛することは難しい。
けれども、聖書は、心、思い、知性、力を尽くして神を愛せと言っています。それは、不可能に近いですね。よく、そう書いてあるから、毎日毎秒、神を思い捧げという人もいますが、よっぽど隔離された世界で生きなければ難しいですよね。
これは、キリストと一つにならなければ不可能です。キリストと一つであるならば、全てをキリストと共有しながら生きれます。これがヨハネ15章に書いてある、キリストに留まるということです。キリストの愛に満たされることが第一。
キリストの愛に満たされたならば、その溢れる愛は、自分を出て行って、誰かを愛したくなる。この愛を誰かに渡したくなるものです。
しかし、一つになるためには、罪を悔い改め、キリストととともに歩まなければなりません。
★「あなたは神の国から遠くない。」“You are not far from the kingdom of God.”
質問をした律法学者は、イエス様にこういわれました。全てのことを完璧に理解している、神様のこと理解できている。けれども、まだ神の御国には入っていない。でも、遠くない。もうそこまで来ていると。
この律法学者に必要だったのは、悔い改めでした。悔い改めて、イエスの愛のうちに留まることでした。
ぼ
2014年8月3日日曜日礼拝 音声はyoutubeからhttp://youtu.be/7OSWlc2fO1g
音声と書いたものは若干違う場合があります。語っているときに、聖霊様からいろいろとダウンロードしながら語るからです。ぜひ、オーディオの方も訪れてください。バイリンガルなので、英語が聞きづらいと思いますが。。。。
マルコ10:13-27
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
今日の箇所で、イエス様は、神の御国に入るために必要なことを語られました。救いを受けるためにも必要ですし、この地上で神の御国の中を歩み続けるためにも必要です。
★ 子どものように受け入れる
イエス様にさわってもらおうとして、子どもたちがイエス様のところにやってきました。すると弟子たちが止めました。そこでイエス様は、言われました。。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」“Let the little children come to Me, and do not forbid them; for of such is the kingdom of God. 15 Assuredly, I say to you, whoever does not receive the kingdom of God as a little child will by no means enter it.”
神の国は、このような者たちのものです。For of such is the kingdom of God. と。
子どもとは、どのようなものでしょうか。私たちは、子どもらしいということは、決して大人になっては誉め言葉ではありません。しかし、イエス様は、子どものようになれと言われます。では、子どものどのような性質が必要とされているのでしょうか。
① 非理性的であること irrational
違う言葉で言えば、様々な道理reasonが彼らの行動を制限しないということです。大人は、どうでしょうか。いろいろと頭で計算して、道理で判断し、また人にどう見られるかを気にして、「これはやめておこう。」と言うのです。説教者ジョセフ・ガーリントンの信仰ついてのメッセージで私の好きなフレーズがあります。”Get the ‘how’ out of here.” 「どうやってと考えることを辞めろ」というものです。道理、方法にこだわっている限り、信仰はないのです。信仰がなければ、神の国に入ることはできません。聖書は信仰についてこう言っています。「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. ヘブル11:1
② 純粋である Pureness
子どもは失敗を恐れません。やってみたいという気持ちの方が強いのです。その気持ちは、夢から来るのです。目の前の現実よりも夢を重要視します。子どもは、非常に理想主義者です。完全主義者でもあります。善があるなら、善を通したらいいと考えています。真剣に世の中のみんなが仲良くしたらいいと信じています。大人は、今の現状と経験から判断して、妥協をすることを奨め、そして、理想をあきらめ、そして、失敗を恐れます。子どものような純粋さを失うならば、私たちに夢はありません。夢が無いなら、よりよい現実はありえません。聖書は信仰についてこう言っています。「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen. ヘブル11:1
さあ、私たちは、子どものような資質を持っているでしょうか。御国を体験し続けるには、この資質がなくてはなりません。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
子どもたちは、道理ではなく、信仰で御国を受け入れます。また恐れなく、現状に捕らわれず、自分の夢、理想にしたがって御国を受け取ります。
★ 自分に纏わりつくものを捨てる
また、イエス様のところに一人の正しい青年がやってきました。どのようにしたら永遠のいのちを得ることができるだろうか。聖書に書かれていることは守っているというのです。イエス様は、v21「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」“One thing you lack: Go your way, sell whatever you have and give to the poor, and you will have treasure in heaven; and come, take up the cross, and follow Me.”
この青年は、正しい人であったにも関わらず、宗教の域を超えていませんでした。もう一度言います、宗教は、自分で業をして神に到達しようとするものです。彼は、律法を守っていました。しかし、守るということで、自分の達成感を得ていたのでした。しかし、永遠のいのちに関する確証をこころに持つことがありませんでした。それは、なぜでしょうか?
イエス様は、この青年に、財産を手放すように言われました。それから、イエス様についていくことを。
神の国は、どれだけ達成したかで入れるのではありません。神の国は、どれだけ神を信頼しているかによります。自分の業ではなく、信仰によって入るのです。
どれだけ達成するかが問題であるなら、このような疑問がでてくることでしょう。自分は、ここまでしているのに、どうして神は私をかえりみてくれないのだろう。神は、私に答えてくれない。などと。私たちもこのような思いになることがあるのではないでしょうか。これは、自我です。達成することで、神の好意を得ようとしてるのです。また、自分の思うとおりに結果をだそうというわがまま/自我です。イエス様は、この青年のこの部分を取り扱いたかったのです。
この青年は、多くの財産を持っていました。人は、多く持っていると、けちになります。あるテレビ番組で実験していました。レストランに行って、人に食べもをくれるように願っても、誰もくれません。でも、たった今、食べるものを道行く人にもらった道端のホームレスに食べ物を求めたら、そのホームレスは持っているものの半分を分けてあげました。人は、持てば持つほど、持っているものに執着するものです。
この青年にとっては、富は、手放すことが難しかったのです。
神の国に入るには、何かを捨てなければ入れません。
それは、自分の中で一番大切にしているもの。神より大切にしている偶像です。また、自分のわがままな心です。自我です。これらを捨てて、イエス様についていかなければ、神の国に入ることはできません。
また、神の国の働きをするなら、このような生き方を要求されます。
★御国のメッセージ …「どんなことでも神にはできるのです。」
そのあと、イエス様は言われます。V24 「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」“Children, how hard it is for those who trust in riches to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for a rich man to enter the kingdom of God.” 26 And they were greatly astonished, saying among themselves, “Who then can be saved?” 27 But Jesus looked at them and said, “With men it is impossible, but not with God; for with God all things are possible.”
人にはできないが、神にはできる。これが、私たちへのメッセージです。Get the “how” out of here. です。道理ではなく、神にはできるといわれる、神様に信頼しましょう。
ぼ
2014年7月27日日曜日礼拝 音声はyoutubeから http://youtu.be/c-X8zVUYBbw
書いているものと、実際のメッセージは少し違います。いつも聖霊様が助けてくださって、書いていないことも語っています。英語と日本語で両方なので、日本語、英語のみ理解される方には聞きづらいかもしれませんが、音声の方が内容がいいので、ぜひ音声もお聞きくださいね。
聖書箇所 マルコ8:8-26
テーマ聖句
マルコ8:14, 15
弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中にはパンがただ一つしかなかった。15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。Now the disciples had forgotten to take bread, and they did not have more than one loaf with them in the boat. Then He charged them, saying, “Take heed, beware of the leaven of the Pharisees and the leaven of Herod.”
★しるしを求めるパリサイ人
この章の始めには、たった七つのパンで四千人以上を満腹にするという奇跡がありました。そして、パリサイ人は、イエスのもとに来て議論を吹っかけました。
天からのしるしを見せろというのです。
それは、彼らにとっては、イエス様がしていることが天からのものかどうか分からなかったので、自分たちに分かるようにやってみろというのです。検証したいから、自分が納得したいから、納得を行くものを出してくれというのです。
しかし、イエス様は、それを拒まれました。
私たちも、このパリサイ人にようなことを時々してしまうのではないでしょうか。神様、これが御心かどうか教えてください。教えてくれるまで動きません。というような。本当にこれが神様の御心なんだろうか。。。この問いかけや、やり方が本当に宗教的で正しいように感じますが、実は、そうではないのです。この思いはどこから来ているのでしょうか。それは、疑いからきているのです。パリサイ人は宗教人でありながら、信仰がなかったのです。
皆さん、何が御心であるかどのようにして分かるのでしょうか。一つは、聖書に書かれていること、真理は御心です。もう一つは、ロマ書12:1,2心の一新、すなわち悔い改めによって、神の御心が分かるのです。
逆に言うと、人間の考えや、予想、やり方、思いでは、神の御心が分からないのです。神のこころが分からなければ、分からないのです。
ですから、一番大切なみこころの知り方は、神ご自身を知る、神と知り合いになる。神と関係を築くことにあります。
みなさん、しるし、奇跡は何のためにあるのでしょうか?
先週も言いましたが、奇跡は、ただあなたの身体や生活が良くなるためだけではなく、神とあなたの間に関係ができるためにあります。神は、むしろこの部分を大切にしておられます。ですから、長血の女が癒されたとき、こっそりさわったのに、イエス様は、わざわざ「誰ですか?」とその人と、対面することを望まれ、きっちり面と向かって「あなたの信仰が良くしたのだ」と直面されたのです。イエス様はあなたとの関係を求めていらっしゃいます。天の御国はあなたとの関係を求めています。
★パン種について気がつかない弟子たち 自意識から神意識へ変わる必要
先週のメッセージでも、とりあげましたが、弟子たちがこの章でまた同じようにイエス様に注意されています。この章の始めで弟子たちは、七つのパンで四千人以上を満腹にしたのを見たばかりなのでした。しかし、船にのって向こう岸にいく時に、イエス様は、「パリサイ人と、ヘロデのパン種に気をつけなさい。」と言われました。それは、たった今、パリサイ人が議論を吹っかけてきて、しるしのことでひと悶着あったことを元におっしゃいました。しかし、弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、パンが一つしかないことで、責められたと思ったのか、互いに責める気持ちなのか、互いに議論が始まりました。
マルコ8:16-18
そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。And they reasoned among themselves, saying, “It is because we have no bread.”17 But Jesus, being aware of it, said to them, “Why do you reason because you have no bread? Do you not yet perceive nor understand? Is your heart still hardened? 18 Having eyes, do you not see? And having ears, do you not hear? And do you not remember?
弟子たちは、自意識過剰でした。誰が悪い、誰が忘れた。どうして忘れたということばかりが気になり。イエス様が何を考え、何を言おうとしているのかということは、全く理解できませんでした。
そこで、「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。Do you not yet perceive nor understand? Is your heart still hardened? 18 Having eyes, do you not see? And having ears, do you not hear? And do you not remember?」としかれます。
悟りというのは、先週もお話したとおり、目で見たものと心で信じていることが一致すること。物事の真の意味を理解することです。
弟子たちは、悟りからほどとおく、自分のことしか考えていなかったようですね。
みなさん、自意識が強いかぎり、神様のことは、悟ることができません。五千人給食と、四千人給食の真の意味とは、では、なんだったのでしょうか。『自分の手の内に持っているものが少なくても、大勢の人を満たすことができる。神の力によって。』ということではなかったでしょうか。
しかし、弟子たちは、まだ、パンがあるかないか。自分の手のうちのことで思いがいっぱい担っていたのです。彼らが、誰と一緒にいるかということだけでも、悟ることができたら、このような議論は起きなかったはずです。
私たちも、このようなことは、ありませんか。私には、これだけしかリソースがないから。。私には、うまくできないから、などと、自分の小ささや、リソースの小ささに捕らわれ、自分に捕らわれて物事を考えないでしょうか。弟子たちのしたような議論を頭の中で繰り広げてしまいませんか。
人が自意識過剰でいる限り、信仰はありません、悟りはありません。
自意識から、神意識に変えられる必要があります。私が、「誰と一緒にいるのか」ということに目が開かれるのならば、このような議論はなくなるのです。神を意識しましょう。
★しるしと悟り
弟子たちは、パリサイ人となんら変わりの無い状態でした。天のしるしを求めたパリサイ人には、疑いしかなく、信仰がありませんでした。信仰がないということは、神様との関係がありませんでした。イコール悟りがありませんでした。
また、パリサイ人のパン種に気をつけなさいと言われた、弟子たちは、たくさんのしるしを見てきたが、心で信じていることと一致していなかった。見ているのに信じていなかった。すなわち、起きている事と、それを起こしている人と自分との関係がなかった。イコール悟りがありませんでした。
イエス様は、奇跡をたくさん起こしておきながら、パリサイ人のパン種に気をつけなさいと言われた。
しるしは、悟りの無いところには、何の意味も持たないからです。
またイエス様は、「覚えていないのか」とも言われました。見たことを、記憶し、それについて瞑想し、心に悟りとして蓄えていく作業が必要なのです。
★盲人の癒しから学ぶこと
イエス様は、続いて、村に入られて、盲人を癒されました。そして、その盲人の癒しは、二段階で成されました。初めにつばきをかけ、手を置き、祈られたときには、盲人は、うっすら人が見え始めました。そして、もう一度イエス様が手を置かれたあと、しばらくして、完全に見えるようになりました。
イエス様がこの盲人の目を開けるために二度祈る必要があったと思われますか? 疑問ですよね。あれほどの数々の奇跡をされる方が、二度祈る必要があったのかと思いますよね。
これは、イエス様からの私たちへのメッセージだと思います。この盲人は、一度祈られて、ものがうっすら見え始めたときに、悟ったのです。ああ、見える。癒される。私は、イエス様によって癒されると。そして、心に信じた。そして、癒しが完成したのです。
私たちが、自意識から、神意識に移されるとき、神の御業が完成されるのです。
覚えていますか。先週、イエス様の郷里では、大きな業が成されなかった。なぜなら、人々がイエス様を敬って受け入れることができなかった。すなわち、期待がなかったから。
しるしと悟りには、私たちの分があるので。役割があります。
受け取るか、願うか。信じるか、イエス様との関係を持ちたいか。という決断が必要なのです。
イエス様は、また、この癒された盲人に、村に入らないようにと言われました。
これは、せっかく自意識から神意識になったのだから、しばらく時間を掛けてゆっくり悟るようにということを示されたのです。
私たちは、時間を掛けて、世から、離れて、瞑想する時間が必要です。日々の生活の中で神様に教えられたことを心の中に悟りとして蓄える時間が必要です。
イエス様は、弟子たちに、「覚えていないのか」と言われましたね。ゆっくり、心の中に蓄える時間があってこそ、奇跡の本当の意味を覚えていられるのです。
さあ、今週、世から離れ、静まる時を持ちましょう。
ぼ
2014年7月20日日曜日礼拝 音声は、youtubeから、http://youtu.be/E4cb-xteqHY
マルコ5-7 章
今週は、マルコ5章から7章を読みましたね。イエス様のミニストリーかいよいよ盛り上がって、多くの人が癒され、悪霊が追い出されました。また弟子たちもともにミニストリーをするようになりました。大きな広がりが見えます。イエス様がどこに行っても人だかりができるほどで、イエス様と弟子たちは、ご飯を食べる時間さえ無いときもありました。ですから、努めて、休める時は、休み、神様と二人の時間を作ろうとされ寂しいところに一人で行かなければなりませんでした。
多くの人々がイエス様の御国の福音にふれ、御国を体験しました。しかし、全員が快く受け取ったわけではありませんでした。今週読んだ箇所で、意外な人たちが、御国を拒んでいる、または、受け取りきらなかったことを見ました。次の三つのお話から、何が彼らをしてイエス様の御国の福音を拒ませたのかを学び、私たちの信仰に照らし合わせてみたいと思います。
① 二千頭の豚に入れられた悪霊の話し
マルコ5:16-17
すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。And those who saw it told them how it happened to him who had been demon-possessed, and about the swine. 17 Then they began to plead with Him to depart from their region.
イエス様は、悪霊につかれて、暴れる男がいました。この人は有名でした。その男からイエス様は、大勢の悪霊を追い出しました。そして、この悪霊につかれていた人は、すっかり正常にもどりました。それを目撃した人たちは大変驚きました。豚の飼い主は逃げ出してこの出来事を町々で告げ知らせました。そして、こんなことがおきたんだよ、と聞いた人たちが言った言葉が17節の言葉です。イエス様にこの地方から離れてくれるように言いました。彼らは、このすごい出来事を見たわけでもありません。悪霊追い出しは、画期的な出来事だった。
彼らは、喜びもしません。しかし、イエス様を拒んだのです。なぜでしょうか。
それは、豚二千頭のことがあったからです。この人たちは、一人の人が大勢の悪霊に憑かれてていたのが解放されて正常になることよりも、二千頭の豚、確かに多くの豚ですが、その財産を失うことの方を恐れたのです。Offended at . イエスの御国の福音を受け入れると、財産を失う。犠牲を払ってまで、イエスの御国はいらない。間に合ってます。と言うことなのです。豚二千頭とは言いませんが、これは必ずしも間違ったチャレンジではありせん。イエス様を信じる、御国を受け入れるには、犠牲が伴うものです。
※日本で、よくクリスチャンになったら酒もたばこものめないから信じたくないという人がいる。神の宮を清く保つために、自主的にそのようなライフスタイルを選んでいる人たちを見てのみ、言われる言葉。そこだけ、取り上げて躓くなんてもったいないことだ。
私も、信じる時に、家族はどういうかな、友達はどうかな、と心配しました。信じると案の定、親や親戚はかんかんに怒り、勘当されそうになりました。殴られもしました。友達たちにも、あざわらわれたり、交流がなくなった人もいました。けれども、これが、私の信仰の結末ではありませんでした。家族はみなイエス様を信じ、現在は救われています。親戚もみんな私たち家族を信頼し尊敬してくれています。また当時の友達も去っていった人もいれば、私の働きを応援してくれている人たちもいます。
また中には、最近救われた友達までいます。イエス様に従うことは、確かに犠牲はありますが、報いも大きいのです。しかし、犠牲を払ってまでも神を求めないならば、得られない祝福というものがあります。
聖書マタイ13:44
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。“Again, the kingdom of heaven is like treasure hidden in a field, which a man found and hid; and for joy over it he goes and sells all that he has and buys that field.
人は、価値ある物を見つけたら、何を置いても手に入れるというのです。そして、御国というものは、そんな価値があるというのです。
みなさん、神もまた、そのようになさった方です。皆さんに価値があるから、素晴らしく造っておられたから、何をもなげうってあなたを買い戻すためにイエス・キリストという神の一人子を十字架につけられたのです。大きな犠牲を払ってあなたを買い戻したのです。
一番目は、犠牲の無いところには神の御国の祝福は無い。
② イエス様が郷里で力ある業が行えなかった話し
マルコ6:4-6
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。But Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own country, among his own relatives, and in his own house.” 5 Now He could do no mighty work there, except that He laid His hands on a few sick people and healed them. 6 And He marveled because of their unbelief. Then He went about the villages in a circuit, teaching.
イエス様は、郷里に帰ってミニストリーなさろうとしました。しかし、人々は、奇跡を体験することができませんでした。その人々というのは、イエス様を昔から知っている人たちでした。いや、知っていると思っていた人たちでしょうか。彼らは口々に言いました。
マルコ6:3
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。Is this not the carpenter, the Son of Mary, and brother of James, Joses, Judas, and Simon? And are not His sisters here with us?” So they were offended at Him.
私は、イエスを知っている、彼がそんなにたいした人であるわけが無い。と、彼らは、村の大工の息子を尊敬することができませんでした。そして、御国の祝福を受け取ることができませんでした。敬意のないところに御国の祝福はありません。神を敬い、神の人を敬い、兄弟姉妹を敬うところに神の祝福が注がれるのです。
私が、アメリカに来て、特に、ホライズンという預言的な教会で驚いたことは、若い人や経験の無い人でも堂々とみんなの前で預言していることでした。また何よりも、それを牧師が神に対する恐れを持って聞いているところでした。牧師もまた囲まれて、信徒たちに手を置いてもらって毎週礼拝前に祈られていました。そして、もちろん、預言も信徒たちにされていました。これは、素晴らしいことだと思いました。
礼拝の中で、一度、アルコール中毒のホームレスの人に、聖霊がそぞかれ、預言の言葉が教会と牧師に与えられました。みな、心を開いて受け取りました。
互いに、人間的にどんなに成功しているかを敬意の基準とするのではなく、神の人であるということで互いに尊敬しているのです。子どもであっても神の言葉を取り次ぐことを見ます。そして教会全体が引き上げられ、神を恐れます。これは、素晴らしい御国の法則だと思います。
言いにくいですが、日本の教会では、これは難しいことです。考えさせられますよね。
イエス様は、彼らの不信仰に驚かれた、とあります。敬意の無い態度は、信仰の芽を摘んでしまうのです。信仰の妨げになるのです。違う言葉で言えば、人の面目、地位、体裁を気にしていては、本当に神様のしておられることを見ることができないのです。
二番目は、敬意のないところに御国の祝福は無いです。
③ 弟子たちがイエス様を幽霊だと勘違いした話し
マルコ6:52
というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。For they had not understood about the loaves, because their heart was hardened.
v48-49 真夜中三時ころ、船をこぎあぐねている弟子たちを見に、イエス様は、湖の上を歩いて彼らの船のそばまで来た。すると、弟子たちは、幽霊だと思い叫び声を挙げた。
そして、イエス様は、「わたしだ、恐れるな」と、言われた。そして、イエス様が船に乗られると、風がやんだ。弟子たちは、非常に驚いた。
私は、このv52が心にぐっさり来ました。弟子たちは、いつもイエス様と一緒にして、いろいろな奇跡を見てきました。しかし、イエス様が歩いて近寄られてきたとき、それがイエス様だと分からなかったのです。イエス様の心は、弟子たちを守ることであり、優しい気持ちで見に来られたのに、弟子たちにとっては、幽霊としか見えなかったのです。
私たちにも、このようなことがあるのではないでしょうか。今まで、信仰生活してきた、奇跡も体験してきた。しかし、悟りがない。また、試練がきたら恐れ惑う。小さなことで、信仰が分からなくなる。
悟りとは、物事の真の意味を知ること。見ていることと、心で信じていることが一致すること。ギリシャ語では、to set or bring together の意味。
それは、今までの奇跡について悟っていないからです。奇跡や、神の助けを経験する人は多いです。しかし、悟る人は少ない。奇跡の大小ではありせん。小さい祈りの答えが与えられた人でも、よく悟っている人もいます。
弟子たちは、一番イエス様のそばにいて、一緒に働いていても、まだ、悟っていませんでした。私たちも、このようにならないようにしたいと思います。教会に行っているが、イエス様をしらないということが無いようにしたいと思います。瞑想、静止の時を持つことは、とても大切です。私たちに悟りをもたらすからです。
三番目は、悟りが無いところに、継続的な御国の祝福が無い。です。
みなさんは、この三つからチャレンジを受けましたか。
今週、この三つ、また今日心に示されたことを瞑想しながら一週間をすごしましょう。
イエス様について悟りが与えられますように。
ぼ
2014年7月13日日曜日礼拝 音声はyoutube から、http://youtu.be/GHWr5owEYXE
聖書箇所
マルコ2章、3章から
中心聖句
マルコ2:22
また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」And no one puts new wine into old wineskins; or else the new wine bursts the wineskins, the wine is spilled, and the wineskins are ruined. But new wine must be put into new wineskins.”
●皮袋の説明
皆さん、ワインは発酵しますよね。前にも話しましたが、わたしもぶどうの汁でびっくりさせられた経験があります。日本に住んでいるとき、ぶどう畑をしている信徒の方が一升瓶に新鮮なぶどうジュースを入れて持ってきてくださいました。一人暮らしの私の小さな冷蔵庫には、一升瓶は縦にしても横にしても入りませんでした。それで、家にある入れ物に小分けにしていれて冷蔵庫にしまうことにしました。たくさんあったので早く飲みきることができません。そして一本ペットボトルに入ってるものが、しばらく冷蔵庫に残っていました。ある日、暑かったので、そういえば冷たく冷えたぶどうジュースが家にあると思い、わくわくして家に帰り、早速冷蔵庫から取り出して飲もうと思ったんです。きんきんに冷えたボトルを取り出しふたをひねろうとしたその時です、ばーーーんっっと言って、ふたがはじけとび、ふたが天上や窓に当たってまた激しくわたしに帰ってきました。ぶどうジュースはシューシュー泡となって勢い良く吹き出て半分以上なくなってしまいました。初めは何が起こったか分からないでいました。あれ、もしかして、発酵してたのかなと思い飲んで見ると、なんとお酒になっていました。
ぶどうジュースは、発酵するとこのように膨らむんですね。ですから、昔聖書の時代は、よく伸びる新しい皮袋に入れたのです。古い皮はもう伸びないので、このペットボトルのように、少しの衝撃ではじけて破れてしまうのです。マルコ2:18で、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちが来て「どうしてあなたの弟子たちは、他の人たちがしているように断食しないのか」と聞いたときに、答えたことばです。「どうして、みんなと同じように、古い習慣に従わないのですか」というのが質問の本質です。イエス様とイエス様の弟子たちは、彼らの目には、非常に新しく、非常に型破りに見えたのです。
●新しいワインのようなイエス様・御国の働き
イエス様の福音の働きは、新しいワインのようにどんどん膨らんで広まって行きました。ユダヤ人の当時の文化に新しいコンセプトをもっとチャレンジされました。
文化について。
文化とは、人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。
すなわち、文化とは、人間が作り上げてきた、その民族に染み付いた価値観と生活様式です。
そこに新しいコンセプトをもってイエス様は来られました。イエス様は天の御国のリアリティをもたらしました。御国とは、神の治めておられる場所。神のおられるところ、それが御国です。天には、悲しみも病もなく、痛みもありません。また悪魔・悪霊は住むことができません。愛、喜び、平安が満ちている場所です。イエス様は、この天のリアリティを地にもたらししてくださった。先週話しましたが、誰でも罪を悔い改める人は、このリアリティに入ることができるのです。
●イエス様の福音が新しくもたらしたもの
この二章三章で見るものをあげますが、どの記事も人々は大変驚きをもって受け取っている様子が読み取れます。
① 癒し 2:3-12 四人の友に運ばれた中風の人の癒し
v5イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。When Jesus saw their faith, he said to the paralyzed man, “Son, your sins are forgiven.”
ここで、律法学者。すなわち、聖書に精通してる宗教家たちが心の中で、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」“Why does this fellow talk like that? He’s blaspheming! Who can forgive sins but God alone?”
罪と病気の関係について…病気は、どこから人類に入ったのでしょうか。それは、最初の人アダムとエバからです。彼らは、神様との約束を破り罪を犯しました。善悪の知識の木の実を食べると死ぬようになると言われた通り、彼らの命に死が入りました。死が入ったということは、死に至る病が入ったということです。以来、私たち人類は病と闘いながら生きるようになりました。
イエス様は、罪を赦されました。がそれと同時に、その中風の人は癒されました。
v12すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。He got up, took his mat and walked out in full view of them all. This amazed everyone and they praised God, saying, “We have never seen anything like this!”
そうです、人類、かつて見たことがないことがイエス様によって地上にもたらされたのです。私たちもこれを信じますか? 私たちは、もうこのリアリティに移されているのです。
② 安息日と礼拝 2:23-28-3:4
安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだ。また、イエス様が安息日に人を癒したことで、宗教家パリサイ人たちに責められます。当時も今も、ユダやの世界では安息日は非常に大切にされています。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。という十戒がありますが、この目的は、すべての手の業、自分のための働きをやめて、神様を覚えて一日を過ごす、すなわち礼拝のために業をしないということでした。しかし、その意味がだんだん失われて来て、仕事をしないことが目的のようになってしまい、その律法に神様の心が失われてしまっていたのです。
イエス様は、ここで形骸化した安息日に対するチャレンジをもたらしました。。安息日の本質をもたらした。究極的には、生き様を通しての礼拝が私たちの使命となることを示された。人を癒すことは神の御心です。神に従うことは、神への礼拝です。また、食べるものがなくてひもじい時に、何もしないでひもじいままでいることは、神様の望んでいることではありせん。イエス様は、v27また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。Then he said to them, “The Sabbath was made for man, not man for the Sabbath. 人間のための安息日です、人間の健康のたにあるべきです。
③ 悪霊追い出し 3:15, 3:20-30
イエス様は、悪霊を追い出す力を与えるために特に12弟子を近くにおいて訓練されました。というのも、悪霊が縛っている状況が神の御国の支配の外ではあったということです。そして、イエス様とその弟子には、悪霊を追い出す権威があったということです。人々の目には、あまりにも新しいので、「イエス様が気が狂っている」という人もいれば、「悪霊の力でやっているのだ」という人たちもいました。人々の考え方に、悪霊の力から解放されるというコンセプトが無かったからです。というのも、アダムとエバが、その権威をサタンに聞き従うことによって譲渡してしまったからです。それ以来、サタンがこの世の君として君臨していました。ですから、悪霊を追い出せるということ自体新鮮なことだったのです。
今、私たちにその働きが委ねられています。私たちも、神の御国を運ぶ者たちです。
バスターダッグとお友達の証し…サイキックのお店に入った。すると、その場で霊能をしている人が急に何も見えなくなった。
④ 神の家族のコンセプト 3:31-34
私が一番クリスチャンになって感動したことは、洗礼を受け教会という神の家族に加わって、本当に、信者同志が愛おしく、兄弟姉妹という気持ちでいっぱいになりました。自分の家族よりも何か深いつながりを感じたものです。また海外にいってクリスチャンの人に会うと、抱き合って喜びたいほどの喜びと何とも言えない、親近感をもったものでした。これは、神の子となってみないと分からないことです。v35に、違う言葉で言うならば、誰もが父なる神の子の身分を持つ取り戻すことができるということです。御国におけるSonship をイエス様は、この地にもたらしました。そして、ご自身の十字架の業によってそれを可能とされました。当時、ここにあなたの母、兄弟がいると言われてのイエス様の応答に人々は、は? とびっくりしたと思いますが、イエス様は、御国のコンセプトをもたらされたのです。誰でも、罪を悔い改め、キリストを信じるなら、神の子とされる。御国の王子、王女として養子縁組されるということです。
さて、私たちのマインドは、チャレンジされましたか。
もしかしたら、この中のいくつかが受け取りにくいという方がおられるかもしれません。新しい皮袋を求めましょう。御国は、ここに来ています。イエス様は、ここにおられます。受け入れることができるように。古い自分を神様に明け渡していきましょう。
ぼ
2014年7月5日日曜日礼拝 音声はyoutube よりhttp://youtu.be/5qHZGm0C0vY
聖書箇所
マルコ1章1-4, 14-15
マルコ1章1-4
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
マルコ1章14-15
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
●背景
四福音書にはそれぞれ、テーマと誰宛に書いているかが違いますが、マルコは、「しもべとしてのキリストが描かれている。」また、異邦人に向けられて書かれている。ですから、今までの律法や、神の知識なしに読む人が分かるようにかかれている。神の知識の無い異邦人、日本人もそうですが、何が彼らを信じるに至らしめるのでしょうか。それは、やはり、力。キリストが一体わたしに何をしたのか。私と個人的にどんな関係があるのか。わたしは、イエス様のされたことを見て、この方を好むか。さあ、一緒に読んでいきましょう。
●福音の初めは、信じることではなく、悔い改めることであった。
バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、バプテスマを授けていた。また、イエス様も、「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言われた。私たちは、福音と聞くとき、信じないと救われない、と思うのではないでしょうか。実のところ、悔い改めないと救いはない。福音を受け取ることはないのです。
●福音とは
キリストのついての啓示、教え。良い知らせ、救いのためのニュース、イエス・キリストのなさったこと
〇福音 evaggelion ユアンゲリオン ギリシャ語
●悔い改めとは
〇悔い改め メタノイア ギリシャ語 考えが変わること。悔い改めた人は、その人の行動の目的が変わるので、行動の変化が見れる。
罪から180度方向転換し、反対方向に歩み始めること。
私たちは、なぜ、悔い改めるのでしょうか。赦されるために悔い改めるのでしょうか。それても、救われたいから悔い改めるのでしょうか。
これは、神を恐れることを抜きには語れません。
○「神を恐れること」とは
それは、罪が示されたから、罪を徹底的に自分から話す必要があるからです。また、神を敬うがゆえに悔い改めるといってもいいでしょう。神が分からない人は、悔い改めが分かりません。人に迷惑をかけていないなら、また人に責められていないなら、自分の罪もあって仕方がないと思うのが人の考えです。しかし、神の存在を認め、神を敬う人は、「神の愛することを愛し、神の憎むことを憎む」のです。ですから、神の水準に合わせて、自分を吟味し、罪が認められたら、自分から手放したいと思うのです。
ですから、私たちは、悔い改めるのです。
そして、罪とは真逆の方向に歩みはじめるのです。
私の証し…
教会に来るまで、漠然と私は罪ある人間だとは分かってた。悪い人間だと。しかし、警察に捕まるようなことはしていないので、罪人だとは思ってなかった。教会に行きはじめ、神様のことを信じるようになった。神様の愛に触れられて、もっと神様に近づきたいと思った。また、一方で、今まで分からなかった私の罪、というより、罪の根源、根っこのようなものに悩むようになった。教会の人たちと接したり、聖書の話を聞くたびに、心がちくちく痛んだ。そして、完全にそれらを手放したいと思うところまで至った。
しかし、ある人たちは、心がちくちくするので、教会に行くのをやめて、前の生活、心の痛まない生活に戻る人たちもいます。心がちくちくすることは、よいことなのです。それが無ければ悔い改めに導かれないからです。もしも、心が罪を示されてちくちくするなら、手放すことをすればいいのです。それが悔い改めです。
それでは、質問します。あなたは、悔い改めましたか。あなたは、悔い改めの経験を持ちますか。今も悔い改めていますか?
神を恐れることの正反対が宗教です。
宗教とは、自分の力で神に到達しようとする努力です。宗教には神への怖れがありません。自分の力で到達しようとしているのですから。宗教は、人を変えません。自分の精進のための努力が増すだけです。しかし、神を恐れるところからくる、啓示、そして、その啓示への応答、すなわち、悔い改めは人を全く変えます。
あなたの考え方が変わるからです。考えが変わると私たちの態度が変わり、私たちの態度が変わると私たちの行動が変わるからです。また、素晴らしいことは、神様は、心で悔い改めた人には、それを真逆の行動に移す時、それができるように助けて下さるのです。それが、キリスト者のもっとも身近な奇跡です。
私たちの行動が変わっているでしょうか。もしも、教会に通っていない人と、同じことで悩んだり文句を言っているのだったら、私たちの行動は変わっていません。ということは、私たちの考えが変わっていないのでしょう。すなわち、悔い改めに導く啓示がない。ひいては、神を恐れていないといえるでしょう。
●「時が満ち、神の国は近くなった。」神の国に入ること
神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさいとイエスは言われました。すなわち、悔い改めなければ、神の国には入れないということです。神の国とは何でしょうか。国ですから、王である神が完全に支配されている場所であり、病もなく悲しみもなく、涙はすべて完全に慰め主なる神にぬぐってもらえる場所です。
イエス様は、ヨハネの三章でニコデモにこう言っています。ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3 Jesus replied, “Very truly I tell you, no one can see the kingdom of God unless they are born again.”
新しく生まれなければ、神の国は見ることができない。見えないというのです。私たちは、悔い改めるとき、何が起きるかというと、Mind/考え/心の刷新が起きます。考えが180度変革します。そして、この世の領域から、神の領域に考えが移されるのです。そして、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。まるで新しい人になったかのようです。考えというものは、私たちの行動を支配しているからです。
例: 文化の例。ある文化の中に生きていたら、その文化の範囲を超えてみるということはなかなかできない。アメリカに来た頃、自己主張をすることが本当に難しかった。自分でなくなるような感じがした。文化の殻を破っていく必要があった。私たちのマインドも、調度そのようです。考え方を変えるというのは、本当は非常な労力がいるものなのです。
ですから、神の国というのは、古い人・古い文化しか分からない人にはには見えないというのです。
そして、神の国に入ること、これこそが神様の私たちに提供している生き方なのです。イエス様も言われました。「神の国が近づいた」と。世の文化から、神の国の文化に入りましょう。と招かれている。
イエス様の意図している悔い改めは、罪から離れるだけではなく、神の国に入る、神の国を見ることができる両方の意味を持っているのです。
これが、福音のはじめだとしてマルコ書に記されています。マルコ書は、仕える姿で来られたイエスキリストの業が多く記されています。これらは、神の国を表しています。
私たちも、神を恐れ、日々、形だけでの信仰ではなく、悔い改め、考え方が刷新され、神の国の業をイエス様とともにこの世にもたらすものとなりましょう。
ぼ
2014年6月29日日曜日礼拝 音声は、youtube から http://youtu.be/r0BXKaegaGc
マラキ1:2,マラキ3:7-12
不従順な民に与える旧約最後のメッセージ
マラキは、「わが使者」という意味。時代は、捕囚後。ハガイ、ゼカリヤの時代。ハガイが預言したように、神殿を建てた彼らに神の祝福が臨まなかった。民は幻滅していた。マラキは、このような時代に神の言葉を預言した。彼は、その理由に、捧げ物に問題があると指摘している。当時、一部の特権階級を除いては、人々は依然として、貧窮の中にあった。(ネヘミヤ5:13)礼拝は空虚な形式と化し、神への捧げ物、律法の遵守は軽視されていた。彼らはまた、異教の女を娶るなどして神への背信行為を繰り返していた。
1章 宮の犠牲の軽視。
2章 祭司の腐敗。
異教の燐邦人との結婚。民は、異教の民と結婚したいがために、自分の妻と離婚したのだそう。神は、離婚を憎むと言われている。
3章 立ち返れ。神を信頼せよ。と神は言われる。
☆どのようにして。。。In what way マラキ書によく出てくる言葉
神に罪が示されても、「どのようにして私たちがあなたの名を蔑みましたか。」‘In what way have we despised Your name?’「どのようにして私たちは煩わしたのか」“In what way have we wearied Him?”などと、自分たちの犯している罪に全く気がついていない。民の姿を見てとれる。
マラキ書の初めにあるとおり、自分たちの罪の姿に気がつかないのは、神の愛を見失ったことにはじまる。全ての“ずれ”は、ここから始まっている。
マラキ1:2
「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。2 “I have loved you,” says the Lord. “Yet you say, ‘In what way have You loved us?’
神に愛されてる実感の中からでると、人間と言うものは自分のしていることが分からない。愛から離れるなら、礼拝に意味がなくなる。
礼拝とは、神の愛に応答することである。
先週のメッセージでも習いましたが、私たちの礼拝の土台は、贖いです。新約のわたしたちにはイエス・キリストです。すなわち神の愛です。土台が失われるなら、礼拝は、当然形式的な宗教行事となってしまうのです。
私たちは、いつも神の愛に留まっているでしょうか。
☆どのようにして、主に帰ろうか 神に帰れといわれた民の言葉。。。
マラキ3:7
7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところへ帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。―万軍の主は仰せられる―しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う。Yet from the days of your fathers You have gone away from My ordinances And have not kept them. Return to Me, and I will return to you,” Says the Lord of hosts. “But you said, ‘In what way shall we return?’
まず、わたしのところへ帰れ。そうすればわたしもあなたがたのところに帰ろう。
自分から、自発的に神様を選ぶ必要がある。神の愛は、いつもそこにある。そんなに腐敗していても、なおも神は愛している。だから、神に自分から帰れというのである。
☆十分の一献金をもって神を試す … 神との信頼関係を養うため
マラキ3:8-12
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉献物によってである。9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる― 12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。“Will a man rob God? Yet you have robbed Me! But you say, ‘In what way have we robbed You?’ In tithes and offerings. 9 You are cursed with a curse, For you have robbed Me, Even this whole nation. 10 Bring all the tithes into the storehouse, That there may be food in My house, And try Me now in this,” Says the Lord of hosts, “If I will not open for you the windows of heaven And pour out for you such blessing That there will not be room enough to receive it. 11 “And I will rebuke the devourer for your sakes, So that he will not destroy the fruit of your ground, Nor shall the vine fail to bear fruit for you in the field,”Says the Lord of hosts; 12 “And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the Lord of hosts.
神の愛から離れてしまい、神に愛されること、愛すること、罪の意識が鈍ってしまった。もう一度、信頼関係を築くために、もう一度神様を試せという。どのようにして神に帰るのかと問う民に対する答えである。
聖書の中で、主を試していいと言っているのはこの箇所のみ。あとは、主を試すことは禁じられている。
神に十分の一を捧げて必ず、神に養われるというのは、確実な法則であり、誰もが体験できる奇跡。神を感じられる方法です。新約の中にも、「与えよ、そうすれば与えられる」との通り、与えるものには必ず与えられるのです。
なぜ、十分の一献金なのか。
私たちのお金との関係が如実に私たちの心の状態を照らしだします。
Ⅰテモテ6:10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。For the love of money is a root of all kinds of evil, for which some have strayed from the faith in their greediness, and pierced themselves through with many sorrows.
マタイ6:21
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 For where your treasure is, there your heart will be also.
マタイ6: 24
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 “No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or else he will be loyal to the one and despise the other. You cannot serve God and mammon.
◎私の証し。
神様を信じたばかりのころ、あまり聖書も読めなく。なかなか、霊的に成長しなかった。信じて初めの三ヶ月か五ヶ月くらいだったと思う。なかなか十分の一献金ができなかった。大学をローンで行ったので、それを返さなければならず、家にもお金を入れ、わずかなおこずかいしかもともとなかったからです。十分の一献金を強制されたことはありません。でも、心の中でもやもやしていました。何か、十分の一献金をするように心が向いた。また、霊的にも成長したかった。十分の一献金をして見た。そして、いつもお金が月末に足りなくって心配するのに、なぜか、足りた。次の月も大丈夫だった。どころか、いつもより多く貯金できた。そして、ますます神様に対する飢え渇きが増し加えられていった。そして、洗礼を信じて六ヶ月後、聖霊のバプテスマを受けるようになり、信仰が劇的に変わった。そればかりでなく、人生の目的、神様からの召しをはっきりと受け取ることになった。以来、十分の一は必ず捧げている。今まで、何一つ足りなかったことはなかった。
食べ物がなくなっても、誰かが私のその時食べたいものを持ってきてくれたり。必要なもののために祈って、祈り終わったときに、部屋のドアがノックされ、必要なものが必要をはるかに超えて与えられたり。たくさん奇跡を体験した。
神様を信頼するということは、奇跡の始まりです。それは、唯一つ、神様がわたしをこれを通して試して良いといわれている、十分の一献金からです。ここから、祝福のドアが開かれるのです。
とすれば、十分の一は、信仰の基本ともいえますね。
この小さなステップが、後にいかに大きな祝福になるか皆さんも驚くでしょう。
マラキ3:11, 12
わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる― 11 “And I will rebuke the devourer for your sakes, So that he will not destroy the fruit of your ground, Nor shall the vine fail to bear fruit for you in the field,”Says the Lord of hosts; 12 “And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the Lord of hosts.
マラキ3:17
「彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は仰せられる―わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。“They shall be Mine,” says the LORD of hosts, “On the day that I make them My jewels. And I will spare them As a man spares his own son who serves him.”
神に信頼するものは、その日、神の宝となる。
☆ 幼児の例
みなさん、幼児が両親と信頼関係を築く方法を知っていますか。それは、いないいないばあ、を通してです。あれは、単なる遊びのようですが、幼児にとっては大切なものです。大好きなお母さんがいなくなった。どうしよう。ばあ、ああ、出できた。何回も何回も繰り返すことによって、あの手の向こうに見えないけど、大好きなお母さんの笑顔があるんだ。いつもそこにあるんだということを学ぶ大切な行程の一つなのです。親と子の信頼をいうものを確信させるものなのです。
また、一歳くらいになった子どもは、よくテーブルから箸をわざとおとしたり、物を落とします。お母さんが何度ひろってもすぐにわざと落とします。お母さんたちは、いらいらしてもうやめてと、怒ってしまうことも多いですが、実は、これも子どもたちは、何回落としても、やっぱり私のお母さんは拾ってくれる。私のお母さんは、いつも自分のためにいてくれる。という信頼を習っているんです。何回も何回も。
神様は今日言われます。その最初の一歩を私のほうに踏み出して見ないか? と。私は、必ず、あなたのために現れるよ。必ずひろってあげる。必ず、養うよ。必ず、守るよ。と、今日私たちは、もう一度始めの愛に帰りましょう。そして、神様との信頼を築きましょう。
ぼ
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