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みなさん、こんにちは。
今週の日曜日は、ミャンマーからアメリカに来て聖書学校で学ばれているジョシュアさんに来ていただいてメッセージをしていただきました。
これで3回目なのですが、
ミャンマーは、仏教の国で、なんとなく精神世界も日本人と似ているようです。
聖書の言葉の説き明かしも深いものがありますし、
日本人にはとても理解しやすいです。
彼は、最近結婚されて、奥様は妊娠中です。
聖書の箇所は次のとおり、イエスさまが初めてされたメッセージと言われています。
マタイ5章1-12
1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
みなさんは、どのようにこれを読んで感想をもたれましたか?
何か心のプラスになったらいいですね。
今週も祝福がありますように。
ぼ
2015年3月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、youtube; http://youtu.be/nhbYaUXdrWU
ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
ヨハネ15:7-12
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples. 9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. 10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love. 11 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete. 12 My command is this: Love each other as I have loved you.
★ ぶどうの木と枝
ヨハネ15:5 イエス様は、イエス様がぶどうの木で私たちが枝だと言われました。私たちは、イエス様と繋がって木がその幹から養分を吸い取って成長するように、イエス様から養分、愛、いのちを受け取って成長していくものなのです。
五節でも、そういう人は、多くの実を結ぶと書いてあります。そして、イエス様を離れては、私たちは何もすることができない、すなわち、神の御国のために何も成し遂げることはできないのだ、ということを言われました。
面白いことに、ぶどうの木というのは、りんごの木のようではなく、幹と枝がはっきりしません。ぶどうの木というのは、蔓なのです。Vine
神様は、私たちとイエス様との関係は、このようだと教えておられるのです。
どこからどこまでが枝で、どこからどこまでが蔓わからない。
外から見たら、一体に見えるということです。
★ 内住のキリスト
ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.
私たちは、キリストを信じたときから、私たちの内に神の霊が私たちの内に住まわれます。ですから、他の聖書の箇所でも、私たちの体は、神の宮だと言われています。
そして、神は、霊ですから、目に見えません。ですから、信者である私たちを見る人は、同時に神様をも見ていることになるのです。
★ とどまることは、あなたの選択でもある
そして、人々が私たちの内にキリストを見るときには、私たちがキリストと真の意味で一体となっている時です。
さて、七節のはじめには、こうあります。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、If you remain in me and my words remain in you,
つまり、「とどまること」というのは、私たちのチョイスである。私たちの意思に関わることであるということです。イエス様に繋がっていれば、多くの実を結ぶ、ただし、イエス様にとどまってるなら、ということなのです。
「とどまる」という言葉は、滞在する、宿るということです。私も先月から、立て続けに日本からのお客さんを迎えていますが、一番の楽しみというのは、一緒にご飯を食べたり、ゆっくり交わったりすることです。ただ、私の家の一室を使ってもらっているだけではないのです。もてなし、というのは、部屋を貸すことではなく、ともに時間を共有し、互いを分け合うことです。
私たちは、イエス様にとどまっているでしょうか。
ただ、日曜日だけ、イエス様に繋がってはないでしょうか。イエス様にとどまるというのは、日常の生活の細部に至るまで、イエス様とともにいることです。
それは、あなたのチョイスにかかっています。そういえば、教会に来ている以外は、神様のことを忘れてしまう人もいるのではないでしょうか。
イエス様は、七節で続けて、言われます。何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ask whatever you wish, and it will be done for you. 私たちが神の御国の建設、御国の業をこの地上にもたらすために必要なものは、みな、求めれば与えられると言うのです。そして、イエス様は、次の二つを勧められます。
・愛にとどまる。。。
V9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. イエス様とお父様に習うということです。先週のメッセージの通りに、私たちは、体験を通して、愛することを心に焼き付けるのです。また、自分が愛された通りに、人にもするのです。自分に愛された経験のない人は、愛そうとするときに、独りよがりな愛、ゆがんだ愛を発信してしまい、受け取り手に伝わらないことがあります。私たちには、御父と、イエス様という素晴らしい見本があり、またイエス様も私たちを愛することで、私たちが他人をどのように愛したらいいか、示しておられます。 宗教から命へ。。。デリックの話し。
・み言葉にとどまる
V10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love.
ロマ12:1-2 にこのようなみ言葉があります。
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship. 2 Do not conform to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God’s will is—his good, pleasing and perfect will.
私たちは、神様の御心を自分でしようとしても、心の一新すなわち、言語では、私たちのMind 考え方が変革されなければ、できない。と言うのです。
私は、心の癒しのミニストリー、解放のミニストリーをしていますが、この働きの全てを一言で言い表すと、自分の世に染まった考え方を捨て、神様のみ言葉を真の意味で信じるように導くことです。これには、自分が持っている、み言葉に合わない考え方に気付くことと、み言葉を知ること、また、み言葉を信じること、そして、信じているみ言葉を行うことで、完成します。
神様の戒めにとどまることは、愛にとどまることであるとイエス様は言っていますね。聖書の教えは、神の愛です。私たち、イエス様にとどまるものは、イエス様を尊敬し、そして、イエス様の愛することを愛し、イエス様の憎むことを憎みます。これが、神の戒めにとどまること、み言葉にとどまることです。
★ 喜びの満たし
V11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.
喜びは、天国の通貨のようなものです。天国にはお金がありません。しかし、喜びがあります。地上での神様のための働きも、報酬は喜びです。
人と言うのは、お金のために働いている人は、自分のことを幸せとは思いません。いつも、何かが足りないと感じながら、奴隷のように生きています。
しかし、給料が少ないが、意味のある仕事をしていると感じながら働いている人は、いつも満足しているそうです。また、先日、学生映画会で見た、Happy というドキュメンタリー映画でも、人間の幸せを形作る要素のなかに、社会、コミュニティにに貢献していると感じることをすることでした。地域のごみを拾うなどの奉仕活動をしている人、インドのマザーテレサの働きに携わっている人たちなど、みな、人生の意味を人に何かを与えるときに豊かに感じ、自分は、幸せだと思うのです。
これは、喜びという報酬を手にしているからです。
イエス様は、互いにこの天の報酬である喜びを持ち続けようではないかと、あなたに今日励ましておられます。
もう一度言います、イエス様にとどまるのは、あなたの選択にかかっているのです。イエス様に留まりませんか。そして、イエス様の愛を受け取り、人に与え、愛するものとなりませんか。そのためになら、神様はどんな祈りにもこたえて下さるとおっしゃるのです。
祈りましょう。
2015年3月1日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/QNp9b5scbA4
ヨハネ13:1-15
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
ヨハネ13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
イエス様愛のメッセージ
その① 弟子たちの足を洗われた
当時は、外に出かけると足が汚れた。家に帰ると奴隷が足を洗うという習慣があった。イエス様は、教師であり、師匠である立場であるのにも関わらず、奴隷のすることを自ら買って出たのだ。なんという衝撃だろうか。
イエス様は、行いをもって愛のメッセージを伝えられた。行動の伴う愛というのは、なんとインパクトがあることか。言葉よりも多くを語るものだ。
イエスの愛のメッセージは、行動の伴うものであった。言葉よりも、行いを通して示されたことのインパクトは大きく、心に忘れることなくいつまでも残るものだ。
足を洗う意味。。。。罪が赦されるという意味がある。 いわば、足を洗うということは、私たちの心を洗ってもらうということだ。イエス様に個人的に心のうちをうちあけ、洗って綺麗にしてもらうことだ。
その② この愛は、裏切る者にも与えられた
v2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、And supper being ended, the devil having already put it into the heart of Judas Iscariot, Simon’s son, to betray Him,
イエス様は、後にイエス様を裏切るユダの足をも洗われた。イエス様は、誰が裏切るか知っておられた。なんとふところが深いのだろうか、と思わされる。それと同時に、イエス様は、このようなメッセージを残された。イエス様の愛は、全人類のために与えられたということだ。あなたが、理解できようが出来まいが、拒もうが、それは、もうあなたの前に差し出されているということだ。
その③ イエス様の愛を受け取ることを教えている。
v8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 Peter said to Him, “You shall never wash my feet!” Jesus answered him, “If I do not wash you, you have no part with Me.”
ペテロは、先生に自分の汚い足を洗ってもらうのを申し訳なく思い、断りました。すると、イエス様は、私と何の関係もありませんと言われました。 イエス様に足を洗われないのなら、イエス様と何の関係もないのです。イエス様に、個人的に罪を赦してもらわなければ、何の関係も無いのです。
教会に行っても、宗教行事に参加していても、イエス様に個人的に、足を洗ってもらわないならば、イエス様との関係は無い。すなわち、死後、みな神の御前に裁きを受けますが、その時に、イエス様と関係ある者とみなされない。神の家族とみなされないのです。
その④ イエス様の模範に従うこと。互いに愛し合うこと。
v12-15 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。12 So when He had washed their feet, taken His garments, and sat down again, He said to them, “Do you know what I have done to you? 13 You call Me Teacher and Lord, and you say well, for so I am. 14 If I then, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also ought to wash one another’s feet. 15 For I have given you an example, that you should do as I have done to you.
ヨハネ13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」A new commandment I give to you, that you love one another; as I have loved you, that you also love one another. 35 By this all will know that you are My disciples, if you have love for one another.”
イエス様は、あなた方もイエス様と同じようにしなさいと言われています。
私も、ある人の行動から多くを学び、今もその模範どおり心がけていることがあります。
私が、いつも人に気前良く与え、祝福をしたいと思い、また、必要がある人がいたらその人を思いやるように考えるように、心に深くその思いを焼付けされてくれた方がいます。
本人が嫌がるので名前は出しませんが、私が、アメリカで就労ビザを待っているとき、お給料がもらえないので、貧しい生活をしていました。ある時、その方は、デパートに私を連れて行ってくれ、上から下まで、靴まで何でも私の好きなものを買って良いんだと、買い揃えてくれました。私は、とても祝福されました。そして、感動しました。その方は、何も大金持ちではありません。家には必要のある子どもたちがいます。けれども、この方の神様に対する愛、また私に対する愛ゆえに、そのような行動をとってくださったのです。
そして、その時一つ思ったことがあります。それは、「私もこのように人にしてあげよう。」と言うことです。。
いつか、アメリカでお給料をもらえるようになったら、私も人を祝福したいと思ったのです。
そして、それ以来、私は、必要のある人はいないか。どのようにしたら、その人を一番祝福できるかと考えるように変えられました。
これが、自然なことです。人というのは、言葉で教えられるよりも、行動で示される、すなわち、人に良いことをしてもらう時に、感動し、そして、自分もそのようにしたいと思うものです。
イエス様は、言われました。「師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに洗いあいなさい。」と。 イエス様が、奴隷のように地面にはいつくばって私たちの足を綺麗にしてくれるのだから。イエス様があんなにひどい目に合わされて十字架に掛けられ、私たちの罪を負い、私たちを赦してくださったのだから、私たちも、互いに赦しあうべきです。
「赦しあう」と言う言葉を聞いて、「そうしよう」と思うだけでは十分ではありませんし、それだけでは、あなたの行動は変わらないのです。
先ほども言ったように、やはり、自分が受け取り、体験しなければ、私たちの心までは変わらないのです。あなたが感動するほど、イエス様の愛を存分に味わっていないならば、イエス様の言葉は、もう一つの律法にすぎないのです。
私も、あの時、あの親切な方の好意を拒んでいたなら、今になっても決して何も学ばなかっただろうし、私の生き方は、変わっていないまま、けちであったに違いありません。
ちょうど、イエス様がペテロに、「わたしが足をあらわなければ、あなたと何の関係もない」と言った通りです。
今、ここに、こんなに素晴らしい生き方があるなら、そうしたい。人を赦したい。人を愛したい。人を祝福するものとなりたいと思う人は、いますか。
その人は、ぜひ、イエス・キリストの愛を受け取ってください。まず受け取ることです。
あなたが、まず、イエス様の赦しを体験しなければならないのです。
お祈りしましょう。
ぼ
聖書の中にいろいろなストーリーがありますが、この箇所も有名です。
師匠であるイエス様が弟子たちに仕えた名場面です。そして、この後まもなく、イエス様は捕らえられ残酷な殺され方をするのです。。。。
ヨハネ13章1-15節
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
2015年2月22日日曜日バイリンガル礼拝音声はhttp://youtu.be/qONBRKzTMjU
私たちは、先週からヨハネ10章から12章を読んでいますが、イエス様がご自分の死に関してよく言及されるようになりました。
ヨハネ10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。“I am the good shepherd. The good shepherd gives His life for the sheep.
イエス様は、ご自分の羊・民を救うためには命をも捨てる、というのです。それこそが良い牧者だと。
また11章では、死んだラザロを蘇らせるという奇跡をなさいました。この奇跡は、ヨハネの福音書七つ目の奇跡であり、七は完全数、完全性を示す奇跡となりました。そして、この奇跡のためにますます宗教家たちは面白くありませんでした。しかし、イエス様は、このラザロの奇跡を通して明確なメッセージを送っています。
ヨハネ11:25,26
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。“I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live. 26 And whoever lives and believes in Me shall never die. Do you believe this?”
12章では、異邦人の人たちがイエス様に会いたがり、弟子たちにお願いするようになりました。するとイエス様は、神様の時が近づいていることを感じ、一粒の麦の話しをされました。
ヨハネ12:23-26
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。23 But Jesus answered them, saying, “The hour has come that the Son of Man should be glorified. 24 Most assuredly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the ground and dies, it remains alone; but if it dies, it produces much grain. 25 He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life. 26 If anyone serves Me, let him follow Me; and where I am, there My servant will be also. If anyone serves Me, him My Father will honor.
神様は、地上の全てを造られましたが、その全てに神様特質・メッセージを入れておられます。神様は、種をデザインされ、種が地に落ちて、種の殻が割れて中の栄養が全て新芽に吸われて、新芽が殻を破って出てきます。これを、ユダヤの当時の人たちは「死」とみなしていました。種は、自分が死ぬことによって新しい命を生み出します。
★豊かに実を結んだストーリー
・宣教師…
今日歌った歌「私は知っている」は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。そして、今や、五十以上の教会ができ、また宣教師たちも海外に送られるようになりました。その一人が私です。あの、スウェーデンの宣教師が人生を日本にささげつく下から、今の私があり、今ここでいのちを捧げているのです。
・イエス・キリスト
ロマ5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。But the free gift is not like the offense. For if by the one man’s offense many died, much more the grace of God and the gift by the grace of the one Man, Jesus Christ, abounded to many.
★私たちにとって死ぬこととは。。。 v25
・自分のいのち
自分のいのちを憎むとありますが、ここでいういのちは、新約聖書の原語ギリシャ語では、サイキという言葉が使われています。これは、the soul の意味であり、情、欲望、感覚、衝動を含みます。the seat of the feelings, desires, affections, aversions 自分、自分という自分がかわいいという思いです。
先に述べた宣教師も、イエス様も自分のいのちを憎まれました。自分の外国へいくという不安、怖さ、孤独さそのようなものを全てわきにおいて、むしろ神様を見上げて、神様をとって、従っていかれたのです。これが、自分のいのちを憎むということです。
イエス様は、自分のいわゆる肉の欲、情、衝動は死ななければならない。と言われているのです。この肉の性質というのは、自分で考えて行っているわけでなく、自然に自分からでてくるものです。
「罪」と言う言葉を教会に来るようになるとよく耳にすると思いますが。罪とはなんでしょうか。前に言いましたが、的外れなこと。つまり、神様の心、掟、真理から外れていることですね。みなさん、罪を故意に犯しますか。悪いとわかってて犯す人もいるでしょう。しかし、知らず知らずに犯している罪のなんと多いことでしょう。身体に染み付いた考え方から来る行動で、人を傷つけることがなんと多いことでしょうか。無意識に罪を犯す性質を、自分の命といっているのです。
・永遠のいのち
自分のいのち・情を憎むものは、それを保って永遠の「いのち」を得る、と。言葉には原語では、違った言葉が使われています。それは、ゾーエーと言う言葉です。Of absolute fullness, both essential and ethical which belong to God, life real and genuine, a life active and vigorous, devoted to God.
絶対不可欠であり、道徳的にも全くの充足しているさまであり、神に属するものである。本物の命である。活動的で、活発な神に献身した命である。
◎自分の命憎むとき、永遠の命に至る。。。
種が死に、芽という全く違う形のものが生まれる。自分の命を憎むなら、永遠の命に至る。たましいの領域から、霊が生きるという領域に移される。死から不死の世界に移る。質の違うものに変わっていく様を語られている。すなわち、自分の命を憎むものは、生き方が変えられるということである。
いもむしが、美しいアゲハチョウになるように、神様は、醜いものからでも、美しいものに変革させてくださるのです。また多くの実りを与えてくださるのです。これが神様の約束です。ただし、イエス・キリストにあるならです。
★この道には、報いがある
私に仕える者は、わたしがいる所にいる。。。所 abiding in Me.John15,
この場所は、私たちが宿るところ。留まるところ。泊まるところ。住まうところ。
主にある安息を意味する。主にある充足。主のSeat of Rest
★一つだけ覚えていて欲しいこと。
皆さん、新しい生き方に入りませんか。自分のいのち・感情や衝動を愛する生き方から神に属する命に写りませんか。 種は内側から、殻を破るのです。他の誰かが殻を破ってくれるのではありません。そこには、あなたの意思がとても重要に関わってきます。あなたの決断。新しい命に入りたいという決断かとても大切なのです。
新しい命に入りましょう。そこには、神様の約束があります。必ず多くの実りと報いがあるのです。
ぼ
私の大好きな歌があります。
この歌は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。
この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。
「私は知っている」
私は知ってる 一粒の種が
まかれたことを 育ったことを
実を結んだことを
私は知ってる 一人の人が死んだことを
捧げつくしたことを 誉れをとらなかったこと
神は愛なり 神は愛なりと
刻まれた 墓標を 小さな 小さな
墓を私は知ってる
死ぬことは 痛みだろうか
死ぬことは 消えることなのか
それは それは キリストの いのちに
継ぎ合わされること
それは それは 新しく 生まれること
私は知ってる 一粒の 種が
私にもある
キリストの命を 与えられていることを
神は愛なり 神は愛なりと
刻まれた 墓標を 小さな 小さな
墓を私は知ってる
一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま
一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま
礼拝後のベイビーシャワー。。。みなさん良い顔です。祝福の流れるところにいのちが溢れます。
2015年2月15日日曜日バイリンガル礼拝、音声は、http://youtu.be/8pxmQY5UHSI
ヨハネ9章1-8
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
Now as Jesus passed by, He saw a man who was blind from birth. 2 And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”3 Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him. 4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”6 When He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.8 Therefore the neighbors and those who previously had seen that he was blind said, “Is not this he who sat and begged?”
★ 病気の原因?
V2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”
私たちは、病に直面するときに、何が悪かったのだろうか。。。と考えます。私にも、長年病を患っているおばがいました。祖母が気に病んでありとあらゆることをやりました。先祖のたたりかと。。。お遍路さんに、お百度参り、霊能者に除霊もしてもらいましたが、結局なおらず、おばは自殺してしまいました。
「この人が生まれつき盲目なのは、だれが罪を犯したからですか?」と、弟子たちは質問しました。
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪が入ったから死が入り、死が入ったらので病気が入りました。人の命は限りあるものとなりました。罪の性質が遺伝し、受け継がれると同時に、病気や死も必ず受け継がれていきます。ですから、この盲目が誰かの罪の結果であることは、もしかしたらあながち間違っている質問でもないかも知れません。
しかし、イエス様は、こう答えられました。イエスは答えられた。
V3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him.
わたしは、この箇所を読むといつも泣きそうになります。感動するのです。
罪の問題を解決し、罪の連鎖を断ち切り、わたし達を祝福を流すものとするために、地上に来られたイエス様が、「神のわざがこの人に現れるためだ」と言われるのです。
私達に、希望があるのです。
しかし、誰でも彼でもに神のわざが現されるのでしょうか? そうではないのです。イエス・キリストと出会い、このお方に掛けた人のみです。
罪、死、病気の問題を解決できる方は、キリスト・イエスの他に誰もいないからです。キリストこそが、神のみ業、栄光をあなたの上に現すことができるのです。
★ その時は、限られている。
V4,5 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”
私たちは、人生の重要な決断を後回しにしがちです。また、よく神様に関することは、老年になってから信仰したらいいか、などと言う人も日本では多くいます。しかし、私たちは、いつ自分の命が終わるのか誰も知らないのです。また、死後自分がどこに行くのか、死んでからも私たちの霊が存在していることも、何も気にしないで生きています。聖書の違う箇所にこのような言葉があります。
Ⅱコリント6:2 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。Behold, now is the accepted time; behold, now is the day of salvation.
“今” こそが、あなたの、恵みの時であり、救いの日なのです。 今です。やがて、恵みや、救いのオファーが閉ざされる時が来るのです。この地の終わりの時が来ます。もう誰も、救いの宣教のために働かなくなる時が必ず来るのです。そして、それがいつ来るのか誰にも分かりません。
★ 不思議な方法で不思議なことが起こる
私たちの最大の敵は、自分の理性と言えるのかもしれません。私たちの経験や蓄積してきた知識、知能かも知れません。
イエス様は、とっても不思議な方法で、この生まれつきの盲人を癒されました。
V6,7 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行ったWhen He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.
生まれてから、全く目が見えないのに、こんなどろとつばで目が治るわけが無い。とか、何でわざわざシロアムまで行って洗わないといけないのか、と、ぶつぶつ考えて、やらなかったら、彼は癒されることはなかったでしょう。信仰がなければ、私たちには神のみ業を体験することができないのです。どんな素晴らしい学問も、医学も、哲学もわたし達を死の力から解放することはできないのです。ばかばかしいように思えることでも、イエス様を信じる信仰があるならば、あなたは、人生が180度変えられることを体験するでしょう。
他の聖書の箇所にも次のような言葉があります。
1コリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God.
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。Because the foolishness of God is wiser than men, and the weakness of God is stronger than men.
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。27 But God has chosen the foolish things of the world to put to shame the wise, and God has chosen the weak things of the world to put to shame the things which are mighty;
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。that no flesh should glory in His presence.
盲人は、従って見ました。言われたとおりやってみました。すると、生まれてから見た事の無いものを見るように変えられたのです。
彼が、池に行ってみたのは、彼の信仰の表れとなりました。信仰の証しとなりました。
信仰がなければ、神に近づくことはできないのです。信仰がなければ、み業は現れないのです。
今が、恵みの時、今が救いの時です。今日、あなたの前に立ちはだかる病や困難、岩のような大きな動かない問題があったとしても、今がその時です。神のみ業・栄光があなたに現れるのです。信じましょう。
ぼ
シアトルで、日本人とアメリカ人対象にしてミニストリーをしていて一番嬉しいことがあります。
それは、帰国していった人たちが里帰りに来てくれることです。
そして、もっと嬉しい事は、その人たちが教会に来ることを楽しみにしてくれてたり、懐かしく思ってくれること。
そして、一番嬉しい事は、日本でも教会に行ってくれていることです。
2月、3月、4月と、何人かの里帰り組みが遊びに来てくれます。
以前、こちらに留学生として滞在しておられた方々です。
二十歳前後にこちらにおられた人たちなので、成長がとっても楽しみです。
まるで、親戚のおばちゃんの気持ちです。
一人ひとり、大切な人たち。
再会を楽しみに、そして、祝福を続けて祈っています。
写真は、先週の里帰りさんと。。。。
来てくれてありがとうね。
ぼ
みなさん、こんにちは。
今週日曜日の礼拝の聖書の箇所です。
この奇跡は、後に大問題に発展することになります。
それは、イエス様が安息日にそれを行われたからでした。
当時も今もですが、ユダヤ教では、安息日に何も働いてはいけないとされています。
これを厳密に守るあまりに、本当の神様の心を見失ってしまったようです。
当時ユダヤ教の宗教家たちは、癒されて喜んでいる家族とその本人を追い掛け回して、検証しようとしています。
イエス様は、宗教と真っ向から対決しにこられました。人々に宗教をとるのか、神の愛をとるのかと選択を迫られています。
みなさんには、本末転倒だと思えることは、ありますか。
また、この世に宗教以上のもの、愛が存在することを信じますか。
ヨハネ9章1-14
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
ぼ
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