日本人の米国大陸初上陸の聖地
Aug
30
おどろおどろしい岩肌が砂浜から屹立していたり、その岩に万を越える貝が付着していたり、確かに日常お目にかかれるものでない。
そこからさらに10マイルをビーチに沿って南下すればCape Alavaがある。
その地点こそ、日本人が始めて米国大陸に足を踏み下ろした場所である。
天保3年(1832年)、江戸に向けて出航した宝順丸は途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく漂着した場所がそのCape Alavaであり、その時に生存者は音吉、岩吉、久吉の3人しかいなかった。
彼らは現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助される。というよりも、奴隷としてこき使われたのが実情。
昨日訪れたマカー族博物館には音吉らの出身地である愛知県美浜町と友好親善を交わした記念碑が陳列されていたのが、少々滑稽でもあった。
後に彼らはロンドン、そしてマカオへとイギリス船の好意を得て、帰国の望みを託しながら移される。音吉はそのマカオで、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに協力して世界で最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させるに至る。1837年年6月、薩摩からの漂流民4人を加えた合計7人の日本人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来る。ここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かう。
7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき予期せぬ砲撃にさらされる。これがモリソン号事件である。当時の江戸幕府は異国船打払令を発令していて、日本沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっていた。やむなく彼らは故郷の国の地を踏むことなく、マカオに引き返すしかなかった。
その漂着は今からわずか180年前のことであり、当時となんら変わらない海岸線の風景を見るにつけ、3人の漂流民たちが辿った苦労が偲ばれてきた。
最後に暗記している音吉の協力によるギュツラフ訳ヨハネ福音書の1章1節を紹介して、数奇な運命の中で神に用いられた人物のよすがとしたい。
「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクト トモニゴザル」