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エルサレム旧市街の城壁
「その日、主は再び御手を伸ばし、 ご自分の民の残りを買い取られる。
残っている者をアッシリヤ、エジプト、 パテロス、クシュ、エラム、 シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。」
(イザヤ 11:11 JAS)
これまで小欄はイスラエルの約束の国への帰還が
2回に分けて行わると言ってきました。
どうして「2回」と言えるのか?
その根拠となる聖句をイザヤ書から学んでいきましょう。
上記の聖句をご覧ください。
日本語の新改訳や口語訳聖書には「再び」と訳されている語句に注目です。
これはへブルの原語では
「שֵׁנִי 」
となっていて
本来は「2回目」と訳されるべき語句です。
日本語訳聖書にそれが明確に訳出されていないのは、
70人訳聖書を参考にしているためででしょうか?
その70人訳聖書には「2回目」という語句がありません。
英語訳を調べてみると、
ほとんど全ての翻訳で「second time」と訳出されています。
30ほどの英語訳を比べてみて、
1つだけこれが訳出されていないものを見つけました。
それは日本語訳と同様、
70人訳聖書を参考として翻訳作業を進めたからと思われます。
And it shall come to pass in that day, that the Lord shall set his hand again the second time to recover the remnant of his people, which shall be left, from Assyria, and from Egypt, and from Pathros, and from Cush, and from Elam, and from Shinar, and from Hamath, and from the islands of the sea.
LEE Isaiah 11:11
And it shall happen on that day, that the Lord will put forth his hand again the second time to acquire the remnant of his people, which shall remain, from Asshur and from Egypt, and from Pathros, and from Cush, and from 'Elam, and from Shin'ar, and from Chamath, and from the islands of the sea.
NAS Isaiah 11:11
Then it will happen on that day that the Lord Will again recover the second time with His hand The remnant of His people, who will remain, From Assyria, Egypt, Pathros, Cush, Elam, Shinar, Hamath, And from the islands of the sea.
NIV Isaiah 11:11
In that day the Lord will reach out his hand a second time to reclaim the surviving remnant of his people from Assyria, from Lower Egypt, from Upper Egypt, from Cush, from Elam, from Babylonia, from Hamath and from the islands of the Mediterranean.
NKJ Isaiah 11:11
It shall come to pass in that day That the Lord shall set His hand again the second time To recover the remnant of His people who are left, From Assyria and Egypt, From Pathros and Cush, From Elam and Shinar, From Hamath and the islands of the sea.
NRS Isaiah 11:11
On that day the Lord will extend his hand yet a second time to recover the remnant that is left of his people, from Assyria, from Egypt, from Pathros, from Ethiopia, from Elam, from Shinar, from
どうしてこの2回にこだわらねばならないのでしょうか?
イスラエルの帰還が2回に分けて起こる根拠となる大切な聖句だからです。
しかし、ある人々はこのようにも主張します。
「帰還が2回であるのは解りました。
2回目の帰還後にイスラエルは千年王国の祝福に与ることも、
続くイザヤ書12章から明らかであるのも納得できます。
でも、最初の1回目の帰還を1948年のイスラエル共和国独立前後
としなくてはならない理由はどこにありますか?
最初の帰還はバビロン捕囚からの帰還であるとしてもいいのではないでしょうか?」
この質問に答えるために、
最初の帰還が預言されていたエゼキエル22:34をご覧ください。
「 わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、
あなたがたを国々の民の中から連れ出し、
その散らされている国々からあなたがたを集める。 」
(Eze 20:34 JAS)
ここに「国々の民の中から」「散らされている国々から」とありまして、
この最初の帰還は全世界からの帰還であることが告げられています。
バビロン一国からの解放と異なる点がその理由となります。
それでは、この2回目の帰還では
イスラエルの人々はどこから集められてくるのでしょうか。
11 その日、主は再び御手を伸ばし、 ご自分の民の残りを買い取られる。 残っている者をアッシリヤ、エジプト、 パテロス、クシュ、エラム、 シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
12 主は、国々のために旗を揚げ、 イスラエルの散らされた者を取り集め、 ユダの追い散らされた者を 地の四隅から集められる。
(Isa 11:11-12 JAS)
11節を見ると主にイスラエルの周辺諸国、中東の国々からであるのが分かります。
これは大患難時代の中間時点で反キリストがイスラエル撲滅を諮り、
人々は大急ぎで、着の身着のまま周辺諸国へ逃亡していくからです。
12節を見ると、それに加えて世界中からの帰還民があることが
「地の四隅から集められる」とあることでわかります。
1か月ほど前の栄光教会にて。
中央前列・私の前に創設者の熊井牧師。
その右となり、左手に聖書を抱えているのが在りし日の
ハワード井上牧師です。
この日はカークランドにある栄光キリスト教会にお邪魔してきました。
この6月から毎月、礼拝でお話をさせていただいているのです。
先週、驚きの知らせが届きました。
栄光教会で協力牧師をされておられたハワード・井上先生が急に天に召されたのです。
いつも笑顔と冗談を絶やさずに人々を明るくしてくれた先生でした。
そして何事においても率先垂範される働き者でもあられました。
この地上で再びお会いできないのは寂しい限りです。
しかし私たち信者には確かな希望があります。
今や天にて不自由な肉体を脱ぎ去って、
愛する主イエスとともにおられるのです。
そればかりか、古今東西のクリスチャンたちと
賑やかな交流を楽しんでおられることでしょう。
やがて私もまたその交流に入る時があるのです。
「死」は決して敗北でも悲劇でもありません。
勝利の凱旋へと移行するためのトンネルのようなものと言えるでしょう。
井上先生。
これまでいただいた励ましと勇気をありがとうございました。
(コリント書の引用)
55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
(1Co 15:55-58 JAS)
エルサレムを見下ろして
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1017
「メシアの再臨と統治」
ゼカリヤ9章10~17節
~ゼカリヤ書連続講解説教 13~
9章は、世界を征服する二人の王について預言されています。
一人は、アレクサンダーで、1~8節。
もう一人がメシア(キリスト)で、9節にあります。
①気づかずに読み過ごしてしまいます。
9章に歴史を二分する重大事件、
世界の王の進軍が預言されていると気づく方はまれでしょう。
何が書いてあるか分からないまま、
わたし達は多くの場合、読み過ごしてしまいます。
そして何となくわかるような気のする1節を取り上げて、
そこに自分なりの意味付けをして「恵まれた」とする読み方に終始してしまいます。
私が長い間そうでしたし、
今でもその癖から抜けてないかもしれません。
注意深く、BC520年ころのユダヤ的視座からテキストを読解する努力をするならば宝のような預言が隠されているのを発見します。
心は神の預言の確かさに喜び、
この世界が神の統治のもとにあることを再確認するのです。
②正確な預言に驚くばかりです。
アレクサンダー大王のパレスチナ侵攻はBC332年です。
ゼカリヤはそのはるか以前、180年ほど前に預言しています。
その征服者は北から南に下り、シリア、フェニキア、
ペリシテの町々を蹂躙して進み、人々を震え上がらせる預言です。
その一つにツロの町があります。
それはアッシリアやバビロンの包囲にもかかわらず落とされることのなかった
難攻不落の町ですが、その高慢さが神のさばきを受けるとあり、その通りに実現してしまうのです。
沖合の孤島に城壁を構えている町をどのように攻め落とすか、
その攻城方法と直接崩壊となった要因まで預言の通りであったことが考古学的発見から裏付けられています。
さらにメシアであるイエスのエルサレム入城は降ること、
5百年ほどになります。
入城方法とその際の人々の歓迎ぶりまで、
預言はことごとく成就してしまいました。
あまりの正確な的中に、聖書の霊感を信じない学者は
ゼカリヤ執筆年代を後代に想定しようと無理をします。
しかし、執筆年代を変更させる合理的・論理的根拠に欠けるし、
主イエスの時の預言成就以降にまで引っ張る学者はいないのです。
③二人には対象となる点があります。
アレクサンダー大王と主イエスとを比べると類似点と相違点があるのに気づきます。
アレクサンダー、当時知られている古代世界の大半を席巻し、征服した王です。
そして彼のギリシア文化を世界中に広め、世界を一つにまとめ上げてしまいました。
わずか10数年間の間に。比類ない大王です。
その統治拡大方法は殺戮と隷従であり、人々を恐怖のどん底に陥れました。
イスラエルの人々の祈りに答えた神は、彼がエルサレムを攻略することを赦さず、
ギリシア軍は素通りしてエジプトへと降って行くのです。
一方、主イエスもまたある意味で世界を征服した王です。
キリストを王とあがめ、信じる人々は世界中に広がって
20億人とも30億人とも言われています。
彼の教えに信奉する指導者らによって、この世界は改良、改善されて来ました。
人権思想や平和や平等という民主主義の国々を生み出したのこととキリスト教が深い関連にあることを認めない学者はいないでしょう。
そのイエスが、先ずユダヤ人の王としてエルサレムに進軍した時のことです。
人々は大喜びで迎え入れ、子供たちまでもが賛美して踊りながら歓迎したと
新約聖書は記録しています。
人々を恐れさせ、殺し、圧政を敷いたアレクサンダーに対して、
人々を愛し、赦し、自らは十字架で死を遂げられた主イエス。
あなたにとってのヒーローは
どちらの王でしょうか。
さらに紀元30年、今から約2000年ほど前に
エルサレムに入城された主イエスは、
再びこの地上においでになられます。
その預言が10節以降のものです。
その時には戦乱の中で天から降臨され、
信仰のイスラエル人を守り、救います。
そして不信仰の世界帝国の軍隊を打ち破って後に、
エルサレムにて王座に坐されます。
そこから世界中を統治されるのです。
初めて世界には恒久的で完全な平和と繁栄が訪れるようになります。
この話は貴方にとって夢物語に聞こえますか?
ゼカリヤがBC520年ころにこの書を書き記したとき、
人々はツロをはじめ世界中を席巻する王の登場について疑ったでしょうね。
エルサレム入城の王が、正しい方、柔和で、救いを賜る方であり、
人々が喜び叫んで歓迎するとはいつのことかさっぱりわからなかったでしょうね。
現在の段階で、9節までは実現しているのです。
10節以降も実現すると考えるのは理屈に合いませんか?
神の言葉はその時が来れば、必ず実現します。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6-1
「わたしに帰れ」ゼカリヤ1章1~6節
~ゼカリヤ書連続講解説教 1~
「ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、
預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。」 (ゼカリヤ 1:1 )
このペルシア王のダリヨスの第二年とは、BC.520であることが分かっています。
ゼカリヤという人物を紹介する際、二世代前の祖父からの系図が記されてますが、これは典型的なユダヤ的表記です。
そしてこの三世代の人名の中に、
ゼカリヤが本書で伝えたいメッセージの大筋が隠されていると言えます。
イドとは「彼の時」 という意味。
ベレクヤは「主は祝福する」 。
ゼカリヤは「主は覚えておられる」 。
ユダヤの人名にはどれも意味があり、
多くの場合、その人物を読み解くカギとなるものです。
ここでは、本書に一貫している神の行動原理が読み取れます。
「神の時が来たなら、神はイスラエルを祝福してくださる。
神はご自身の契約を覚えておられる故に」
BC.538 年、クロス王はバビロンを滅ぼし、
新たにペルシア帝国を建て上げました。
その時、捕囚となっているユダヤ人に解放令を発し、
故国に帰ってエルサレム神殿を再建するよう命じます。
以来、ゼカリヤ登場まで約18年が経過しましたが
、神殿の完成を見ることなく放置されていたのです。
帰還民たちは自分たちの生活再建が進まず、
神殿を顧みる余裕がなかったからです。
そんな世相にあってゼカリヤは神殿再建のビジョンを人々に語り、
再建事業を再開させます。
70年ほど前、先祖たちは神のさばきゆえにバビロンに滅ぼされました。
その罪を今の世代が負わずとも好いのです。
神はこう言われます。
「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる」
人々は悔い改めに導かれ、神殿建設にも着手します。
ところが後日、神殿は建設したものの夢見ていたような生活の再建と豊かさは戻ってきませんでした。
失望が広がろうとする時に、
ゼカリヤはメシアが到来して統治する平和と繁栄の王国を指示します。
「将来への希望」
~これこそ、現在の苦境を乗り越えていくエネルギーとなるものでした。
「神の時」はやがてやってくる。それはメシアの到来です。
その時、「神は祝福してくださる」のです。
繰り返し預言者が約束した喜びと平安にあふれる国に住む日がやってきます。
なぜなら、「神は覚えておられる」からです。
何を神は覚えておられるというのでしょうか。
アブラハムと交わした契約です。
この契約ゆえに神は行動を起こされます。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
聖書本文とメッセージノートはこちらです:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/9-1
「アレクサンダーとメシア」
ゼカリヤ9章1~9節
~ゼカリヤ書連続講解説教 12~
ゼカリヤは紀元前500年代に、二人の王の到来ついて預言しました。
一人は、アレクサンダー(1~8節)でBC.332年に成就しました。
もう一人はユダヤ人の王・イエスでBC.30年に成就しています。
この二人の王を並立させているのは対比させ、両者の違いを際立たせるためです。
アレクサンダーは破竹の勢いでギリシアからシリアへ進行し、南下してフェニキア、エジプトへと侵攻していきます。
街々を破壊し、人々に恐怖と失望を与えながら進軍します。
イスラエルの全部族はただ神に目を注いで保護を祈るほかありません(1)。
9節にメシアのエルサレム入城が預言されますが、
様相と内容が激変しています。
この王は人々に恐怖ではなく大きな喜びを与えるというのです。
勇ましい軍馬や戦車で威容をただすのではなく、
柔和なロバの子に乗って来られます。イエスのエルサレム入城がそうでした。
マタイ21:1~11
この王の性格についてさらに預言されていることは、
① 「正しい方」:義なる方
メシアに帰される性質です
「神の義」を与えたもう方です
② 救いを賜る
破壊ではなく、救いのために来られる
そのためには、犠牲を自らが被る
③ 柔和
「抑圧された」という意味
受難の王としての預言である:イザヤ53章
私たちはどちらの人を王といだいているでしょうか。
他者を蹴落としながら己の利を追及する王様でしょうか。
他者とは己の野望のために利用するだけのもので、己の成功が至高の王様となっている姿勢です。
一方、神が与えた使命の道を進みゆく王様でしょうか。
それは己をより大きな存在のために明け渡した姿勢です。
エルサレム市内を見晴らして
17 次のような主のことばが私にあった。
18 「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。
19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。
20 銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。
21 わたしはあなたがたをかり集め、あなたがたに向かって激しい怒りの火を吹きつけ、あなたがたを町の中で溶かす。
22 銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。」
(エゼキエル22:17-22 JAS)
先回に引き続いて、
イスラエルの民が約束の地に帰還する聖書預言の箇所を学びます。
聖書には不信仰で不従順ゆえに「選びの民」であったイスラエルが
世界中に離散されることが預言されています。
「63 かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたが入って行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。
64 主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。」 (申命記 28:63-64 JAS)
AD70年にローマによってエルサレムが崩壊して以来、
イスラエル人は国を持たない流浪の民として
世界の厄介者の境遇に甘んじねばならなかったんです。
その離散した民が約束の地に帰ってくる。
しかも2回、その再集結が起こることが預言されています。
1回目は、不信仰のままでの再集結です。
そこで痛い神のさばきを受けます。
つまり終末時代にイスラエルが通過する大患難時代のための帰還です。
2回目は、イエスをメシアと受容し、信仰をもっての再集結です。
この時、新しい契約がイスラエルの民全体と交わされて、新生した民が再集結します。
この時は世界中からやってくるというよりも
主にイスラエル近隣諸国からの帰還であると教えられています。
反キリストの迫害から国を追われた民が
信仰に目覚めて再集結します。そして千年王国を受け継ぎます。
つまりこの時は祝福をいただくための再集結であると言えるでしょう。
冒頭のエゼキエル22章の預言は、
この1回目の不信仰のままでの帰還を預言しているものです。
① 不信仰の状態。18節。
イスラエルの状態が「かなかす」であり、「炉の中の青銅、スズ、鉄、鉛、銀のかなかす」であるとされます。金や銀そのものと比べて価値の低い状態であり、不信仰を象徴しています。
② 約束の国への再集結。19節。
「いま、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める」
現在のイスラエル共和国の成立とユダヤ人の再集結とは、この預言が実現しているものです。
③ 大患難時代を通過。20~21節。
「炉の中に集められるのは、火を噴きつけてとかすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもって、、、」
大患難時代、反キリストによる世界大の組織的なユダヤ人抹殺運動が起こります。AD70年のローマによる100万、ホロコーストによる600万人(当時のユダヤ人人口の3分の1)の虐殺よりも厳しいものとなり、ユダヤ人の3分の2が虐殺されていくと預言されています。
④ 新生するイスラエル。22節。
「このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。」 絶滅を前にした彼らは霊的に目が開かれるのです。初めてイエスを通じて神を知るようになる、それは信仰による新生を体験することを意味しています。
施しを乞うために座っていたパレスチナ人女性に、そっと食料を手渡すイスラエルの国境警備隊員。誰もが穏やかで平和に暮らすことを望んでいる。エルサレムの旧市街にて。
33 わたしは生きている、--神である主の御告げ--わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。
34 わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。
35 わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。
36 わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。--神である主の御告げ--
37 わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、
38 あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地に入ることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
(エゼキエル 20:33-38 JAS)
現在のイスラエル国家の成立は1948年です。
約1900年間、「約束の国」から離れ、世界中に離散していたユダヤ人が
帰還して国家を再建しました。
そこには神的な奇跡があったとしか結論付けられない要因があります。
離散中、死語となっていたヘブル語の復活はその一つでしょう。
人々の日常会話から消え去って千年以上も経過しているというのに、
旧約聖書をはじめ古代の文献にしか残っていない言語が復活して
現在も使われているとは驚くばかりです。
このイスラエルの再建と復興に神的な要素を認めずに
単なる歴史の巡り合わせとか、政治均衡状の偶然だと結論付ける人もいます。
しかし、数千年以上前から旧約聖書にそのことが預言されているのです。
今後数回にわたって、離散したイスラエルの民の再集結と国の復興が預言されている聖書個所を紹介したいと思います。
ここで注意を促したいのは、
聖書は2回に分けてイスラエル人の再集結を預言している点です。
この「2回」というのがとても重要です。
それによって聖書を神のことばとして字義通りに信じる原理主義?の信者であっても、
今日のイスラエル政府の政治的軍事的行為と姿勢に同調する必要はなくなるからです。
たとい神の預言通りに現在のイスラエル国家が成立していたとしても、
その政府に賛同することがクリスチャンに求められていることにはなりません。
それでは今回はその第1回目です。
Ⅰ 第一回目のイスラエル人の集結と国家の復興
エゼキエル20章33節~38節
この中で特に注目したい点は、
① 「注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める」(34節)
ここで世界中に離散したイスラエルの民が約束の地に集結することが約束されていますが、それは「注ぎ出る憤り」の後だとあります。
それでは、神がイスラエルに下した憤りとは何でしょうか。
それは第二次大戦中のホロコーストをはじめとするユダヤ人抹殺運動です。
もちろんこのおぞましい民族抹殺行為は悪魔(サタン)からのものですが、
それが起こるのを許容されたという点で間接的に神の行為ともいえるのです。
② 「わたしはあたながたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたを裁く。わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野で裁いたように、あなたがたを裁く」(35~36節)
イスラエル人の再集結の後にやってくるのは何でしょうか。
それは神の裁きであるというのです。
かつてモーセに率いられて約束の地に向かっていたイスラエルの民は
不信仰のゆえに多くがシナイの荒野で滅びました。
それと同様の裁きのために集結するというのです。
その「裁き」とは大患難時代と言われてるものです。
これは将来の終末時代にユダヤ人抹殺を目論む世界統一政府によって行われるものです。
その際、ユダヤ人には逃れの地が用意されています。ここの「荒野」とは、イスラエルの地を迫害によって追い出された彼らが避難していく場所でボツラ(ペトラ)のことです。
(ペトラについての預言は今後学んでいきます)
③ 「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、~」(37節)
大患難時代が神の降される「むち」ですが、
そこを通ったユダヤ人は霊的に開眼します。
それまではイエスを悪霊憑きだと拒絶していた人々が、
メシアであると悟るのです。
その信仰が神とイスラエルとの間に結ばれる
「新しい契約」と呼ばれているものです。
迫害が究極まで強まり、民族絶滅の寸前で彼らの目が開かれるのですが、
その時が「あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(38節)との預言が成就するときです。
(結論)
さて、私たち新約時代のクリスチャンもまた、
同様のプロセスを通過して信仰に至った者たちです。
神からの様々な試練や困難を通過して、目が開かれて、自らの罪を悟ったのです。
同時にその罪を処理してくださるメシア・救い主がイエスであることを知りました。
民族として大患難時代にイスラエル人の上に将来実現することは、
異邦人である私たち信者のうちに先に実現しているものです。
神とイスラエルとの間に約束されている「新しい契約」を通じての祝福に
私たち異邦人も参与しているのです。
「万国のエルサレム巡礼」
ゼカリヤ8章18~23節
~ゼカリヤ書連続講解説教 11~
この年の暮れ、聖地旅行を考えています。
聖地の政情不安もあってまだ最終的には決められません。
やがてのメシア王国が樹立される時代になったとき
世界中の国々の民が聖地旅行をするようになると預言されています。
今日の聖地旅行では主イエスの過去に辿られた足跡を訪ねながら
祈ったり、霊想を深めていきます。
やがてのメシア王国では、エルサレムで世界の王として君臨される
主イエスに直接会い、祝福をいただくために聖地を訪れるようになるのです。
ゼカリヤの時代、毎年4回の断食をして悲しみと悔いを表現していたイスラエルの民ですが、その時にはすべての例祭が「喜びと楽しみ」の時となります。
それでは今日の教会時代の私たち信者にとってどのような例祭がふさわしいのでしょうか。
悔い改めを繰り返すべきでしょうか。
喜びを表すべきでしょうか。
イエスご自身は断食をされずに、宴会を楽しまれた記録があります。
マタイ9:14~17
当時の宗教家たちにとって週に2回の断食は常識でしたので
主の姿を見て「大酒飲みで大食い」だと非難します。
それに対して主は、
「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れなさい」と言われました。
新しい葡萄酒とは聖霊のこと、
新しい革袋とは新約時代の新しい革新的な生き方のことです。
断食をはじめとする宗教的な規律に制約された生活ではなく
聖霊によって与えられた喜びを表現していく、
それによってイエスにある祝福を顕すよう、私たちは招かれているのです。
イエスの再臨によって実現するメシア王国の特徴である
「喜びと楽しさ」は新約時代の我々信者がすでに体験できるものです。
すでに聖霊が我々信者の中に与えられているからです。
さあ、今週も主にある喜びをもって主に仕えてまいりましょう。
Newport Covenant Churchに行ってきました。
Keith& Celiaが主催するJapanese Culture Fellowshipに参加のためです。
4年間日本宣教師として活躍し、
ホームへ帰って来た彼らが、その報告と祈りの課題をシェアしてくれました。
着物姿がにあうCeliaが三味線を3曲も演奏し、
その一つは私にもわからない古語を使いながらの歌唱にはたまげました。
ビデオ報告を拝聴しながら
お茶や生け花、料理や音楽、教会内でのバイブルクラス運営を通じて
彼らが日本の社会に溶け込み、人々の精神的な支柱となって必要とされていることが良く伝わってきます。
来年5月の日本への再渡米までの間、
ホームでのこうした暖かな交わりを通じて英気を養えるのは幸いですね。
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