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つれづれなるままに

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「十字架刑」

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「十字架刑」
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
メッセージ・ノートはこちらから:

(掲載までしばらくお待ちください)

「十字架刑」

マタイ27章27~44節
~マタイ福音書連続講解説教 102~

十字架は、
ローマ時代以前から存在していた処刑方法であり、

エジプト、フェニキア、アッシリア、ペルシャ
などでも採用されていました。

最大限の苦痛と恥辱を与える見せしめの極刑として恐れられていたもので、
その執行手順をマニュアル化したのがローマ人でした。

そのマニュアルに従い、
刑場まで犯罪人は十字架の横木を担いで歩かねばなりません。

すでに鞭打ちにより多量の出血により体力を消耗していた
主イエスにはその力もなく、倒れるほかなかったのです。

そこでローマ兵は無理矢理にそばにいた
シモンに十字架を負わせます。

その息子たち、アレキサンデルとルポスはやがて
初代教会で名の知れた信者になります。

ゴルゴダという場所に到着すると、
いよいよ手首と両足を揃えたかかと部分に

大きな杭がハンマーで貫通させられ
十字架に打ち付けられます。

「苦味を混ぜたぶどう酒」が与えられましたが、
主イエスは飲まなかった。

それは鎮痛剤であったのですが、拒否した理由は
最後まで明瞭な意識を維持するためでした。

霊的な戦いを戦い抜くためのものです。

ロープで十字架が起こされると
穴にストンと落とされ垂直に固定されます。

己の体重で垂れ下がった上体のままでは呼吸が出来ません。
そのためには懸垂して上体を持ち上げ、肺を広げねばならないのです。

杭の打ち込まれている両手首とかかとの傷穴からは
その度に出血と激しい痛みが襲います。

かといって
力尽きて垂れ下がったままなら呼吸が出来ません。

筋肉は痙攣を始め
懸垂運動は長くは続けられるものではないのです。

長く苦しみを与えるために
小さな横木が足元や腰の位置に設けられ懸垂を助けたようです。

通常の場合、
これにより3-4日間は生きながらえたようでした。

死因は呼吸が出来ない事からの
窒息死となります。

当時は過越の祭の当日で、神殿では子羊が屠られる時間帯であり
大勢の通行人が十字架を目にしています。

サンへドリンの議員らと同様に
多くの群衆がイエスに罵りの言葉を投げかけます。

「神殿を3日で建てる人よ」
「神の子なら自分を救え」

「他人は救ったが、自分は救えない」
「十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる」

私が子供時代にこの記事を読んだ時、
十字架から降りて来れば良いのにと何度思ったことでしょう。

そして敵たちの鼻の穴をあかしてやれば良いものを…
ご自分がどれほど強いか、

真の神の子であることをここで証明すれば
人々は恐れ入って信じるのに…

そんな風にもどかしく持ったものでした。

ですがもしここで主が十字架から降りてこられたら
預言は成就せず、ご自身がメシアではないことになってしまうのです。

そして私や貴方の罪の処理は不履行となり
救いは完成しなかったのです。

ユダヤ人らのヤジはその点、正しいものでした。
主イエスは「自分を救えなかった救い主」です。

人々が神に求めているものとは
何でしょうか。

ユダヤ人はしるしを求め、
ローマ人は力を求め、

ギリシャ人は知恵を求めて来ました。
日本人はお金を求めて来たのかもしれません。

しかし、神が人に提供するものはそれらではない。
……一つだけのものです。

それは、「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリント1:23)です。
ユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かにしか見えない

その十字架のキリストが、
召された者にとっては神の力であり、神の知恵となるのです。

ハレルヤ。

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ピラトによる裁判

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ガリラヤ湖の夜明け... ガリラヤ湖の夜明け
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。

「ピラトによる政治裁判」
マタイ27章11~26節
~マタイ福音書連続講解説教 101~


❶ピラトによる判決

当時のローマ総督ピラトは、
イエスが妬みからユダヤ人に訴追されており

ローマ法に照らして死刑に当たる罪はないことを知りました。
釈放の努力もむなしく、暴動になりそうなのを見て

ユダヤ人からの「イエスを十字架につけよ」
との
声に屈することとなったのです。

その判決に自らは無罪であるのを演出するために
ガバダ・裁判の席に着席(ヨハネ19:13)してから

わざわざ手を洗って言いました。
「この人の血について、私には責任がない」(マタイ27:24)

ユダヤ人たちは
「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と返答。

このユダヤ人らの発言は
イエス殺しの犯人とみなされる証拠とされ

長年の欧州でユダヤ人迫害・排斥の根拠となったものです。
アンティ・セミティズム運動の寄って立つ聖句。

しかし、
それは聖書の誤った解釈であると言わざるを得ません。

イエス殺しの罪の刈り取りをするのはその世代の者たちで、
世代継承して罪を負うと考えるのは明らかな誤りです。


❷ピラトの責任回避

民衆の前で無罪を演出したピラトでしたが、
彼はそれで責任を真逃れたのでしょうか?

ローマ法を忠実に執行する最高責任者として
正義を曲げて民衆の声に従ったのは自己保身ゆえです。

その責任は神の前から逃れることは出来ません。
その名は使徒信条の中で汚名として歴史に刻まれることになります。

AD36には、
皇帝カリギュラにより全財産没収され、のちに自殺をしています。

人には、蒔いた種は自らが刈り取らねばならないという
原則を聖書は教えています。ガラテヤ6:7

ピラトが責任回避したのは、
自分自身と向き合うことを逃げたことから来るものでした。

なぜなら主ご自身と向き合えず、
逃げてしまったからです。

主が彼と対面された時に
言われました。

「わたしは真理のあかしをするために生まれ、
このことのために世に来たのです。

真理に属するものはみな、
わたしの声に聞き従います」

ところがピラトは、
「真理とは何ですか」(ヨハネ18:38)

と言ったきり
主からの返答を得る前に

答えを遮るようにして
振り返り
その場を後にしてしまったのです。

もし「真理」が明らかとなったとすれば
真理そのものであられるイエスを捕縛しておくわけにはいかない…

するとユダヤ人からの大反対や暴動までが予想され
総督の地位を維持するのが困難となる…

……それがピラトの隠れた本音でした。


❸神のさばきから逃れるために

民衆の求めにより
強盗と殺人の罪で十字架にかかる予定でいたバラバが

イエスの代わりに釈放されました。
ここには私たちへのメッセージがあります。

私たちもまた
責任回避の出来ない罪を犯してきたものです。

厳正な神の法廷に立ったなら
誰一人として無罪でいることは出来ないのです。

身代わりにイエスが神のさばきを受けてくださいました。
そこの一点にのみ、私たちが神のさばきを回避できる道があります。

これを受け入れたキリスト者は
現代のバラバということが出来るでしょう。



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イスカリオテ・ユダ

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モニュメントバレーでの日の出 モニュメントバレーでの日の出

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/uploads/2015/04/19/マタイ27章1~10%20「イスカリオテのユダ」.pdf

「イスカリオテ・ユダの役割」
マタイ27章1~10節
~マタイ福音書連続講解説教 100~

イスカリオテ・ユダについて考えてみましょう。

❶彼は、12使徒の一人でした

イエスの徹夜の祈りの結果、選ばれた12人の一人です。
ガリラヤ伝道においては癒しや悪霊追放、

宣教を力強く展開し活躍した一人です。
ところが、信者ではなかった(ヨハネ13:10~11)。

洗礼は受けている、肩書はある、実績もある、、、
それでも信者でない場合があり、これは最大の悲劇です。

そこで喜ぶべきは成功や名誉ではなく
「名が天に書き記されていること」(ルカ10:20)であると
主は教えられました。

❷イエスの死において果たした役割

サンヘドリンはイエスの処刑を祭りの時期から外そうと考えていた
主の計画では過越の祭りの当日に十字架刑がなくてはならなかった

最後の晩餐のある特定のタイミングを見計らって、主はユダを解き放った
ユダは捕縛者を先導し、ゲッセマネの園での祈りが終わった段階で現れ、
イエスが捕縛される

過越しと十字架のタイミングが
合致してなくては贖いが成し遂げられないゆえに

両者が合一するために
ユダの果たした役割は大きかったのです。

❸後悔と自殺

ユダの後悔
「後悔した」3節(メタメロマイ)

~良心の咎めや呵責のことであり、
ユダはここまでには至っても主イエスのところには来ていない。

救いに至る悔い改め(メタノイア)とは質的に異なる
それは神の業であり、信仰の一側面であり、
イエスにつながることである

死因
マタイによれば、首つりで死んだことになっている。

使徒1:18によれば、
「まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、
はらわたが全部飛び出してしまった」

過越しの食事の時間帯(一般市民の木曜夜から祭司らの金曜朝)
にかけてエルサレム市内に死体があってはならなかった。

城壁南面からベン・ヒノムの谷へ死体を投棄した。
それが使徒1:18の内容である。

❹聖書預言の成就

9節に「預言者エレミヤを通して言われたことが成就した」とあります。

ユダが賄賂として得た銀貨30枚が
陶器師の所有する畑購入代金となり

旅人たちの墓地となったのですが、
その通りの文書は旧約聖書どこを探しても出てこないのです。

預言成就において
新約聖書に引用される際の原則があります。

⑴複数の聖書預言による合成

ユダ預言の成就とは、エレミヤ32:6~9、
ゼカリヤ11:12~13の合成による成就

著名な名前を代表させている
~例としてマルコ1:2、3ではイザヤだけに言及
(マラキ3:1とイザヤ40:3との合成である)

⑵1点のみを取り上げて「成就した」とマタイが編集した「適用法」である

エレミヤからは「畑を買った」1点だけを適用
ゼカリヤからは「銀貨30枚が値積りされた」1点だけを適用

⑶将来にわたり複数回成就される
〜ヒノムの谷の呪いを預言(エレミヤ7:31,19:11)。

ヒノムの谷では我が子を異教の神に捧げる人身供養という
恐ろしい非道が行われれていました。

その偶像礼拝のさばきとして
神が「この民と、この町を砕く」と預言してますが、
それは歴史上数回に渡って成就されて行きます。

@ユダの投身自殺で成就
@AD70年のエルサレム崩壊で数多くの死体が積まれた
@主の再臨時に反キリストの軍隊が破られ、死体が積まれる
@ゆえにそこは不信者の最終運命の地、「ゲヘナ」と呼ばれる

#救済

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「さあ来て、朝の 食事をしなさい」

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「さあ来て、朝の 食事をしなさ...


ホサナキリスト教会
日曜礼拝・聖書広場から

ヨハネ21章1〜14節
「さあ来て、朝の 食事をしなさい」


主が復活されて2週後の
ガリラヤ湖畔での出来事であった。

❶対比

ペテロら7名の弟子たちが一晩中漁をしてみたものの、
「しかし、その夜は何もとれなかった」(3)

一方、主が言われる通りに「舟の右側に網を下ろし」再びやってみたところ、
「おびただしい魚のために網を引き上げることが出来なかった」
という大漁となった。

この違いはどこから来たものでしょうか?
人の側の努力や真面目さが違うのでしょうか?

いや、ペテロらは誠心誠意働いたはずです。
一晩中冷たい水や風にも耐えながら重労働に耐えたのでした。

それだけに収穫ゼロというのはキツかったはず。
肉体の疲労だけでなく、労働が徒労に終わった失意と虚無感に陥っていた弟子たちであった。

❷原因

ところで、主の言葉通りに再び網を投げ入れると
その失意は歓喜に変えられた。

朝もやに浮かぶ人影の正体が誰かを真っ先に見破ったのは
「主が愛されたあの弟子」と紹介されたヨハネだった。

不漁と大漁、失意と希望、成功と不成功、、、
両者を分け隔てているのは、

主がそこにおられるかどうかの違いである。
そして主のお言葉を聞いていたかどうか。

さらにその主のお言葉を通りに
信じて、行動に移したかどうかに違いがあった。

❸介入

「子どもたちよ。食べるものがありませんね」
困憊と挫折の只中にいる弟子らに声をかけられた主。

私たちがどんな理由で絶望しているのか、主はご存知であられる。
私たちのその惨めな只中に主は来られて同様に声をかけてくださるのです。

「さあ、来て朝の食事をしなさい」
疲労と空腹の中にいた弟子らのために、
炭火で焼いた魚とパンとが備えられた朝食。

主を否定したペテロ、同様に逃げ出した他の弟子ら。
彼らの傷心を癒し、主との絆を再構築する和解の食卓であった。

思いがけない失敗に沈むことがあったとしても
その現実の中に今も主は介入し、
私たちとの和解のテーブルを備えてくださっている。



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ある日のディボーション・ノートから

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ある日のディボーション・ノート...

「神は真実であり、
その方のお召しによって、
あなた方は神の御子、私たちの主イエス・キリスト
との交わりに入れられました。」
(Ⅰコリント1章9節)

キリスト者の交わりとは何か?

「交わり」の原語は「コイノス」であるが、
それは共有、共存、共通などの意味がある。

キリスト者とは
イエスとのコイノスを保っているものであると聖書は告げる。

❶それは生命的なコイノス

先ほど家族とのビデオ通話をした。
カナダにいながらリアルタイムで映像通信ができるとは便利な時代になったものだ。

妻の笑顔や子供らの日常の様子を視聴するだけで元気をもらった。
それは何ら変哲のないモノにすぎないが、

単なる業務連絡や知識の伝達を超えた
豊かさがある。命がある。

私たちが神の家族として受け入れられ、
私たちを活かす命のやり取りを始めるために

主は十字架の死による贖いを成し遂げ
復活による勝利を果たされた。

神との和解と
完全な赦しとがコイノスの土台となっている。

❷それは人格的なコイノス

私たちの主イエスは物言わない偶像や夢世界の虚像・フィクションではなく
現在も生きていたもうお方で、人格を持って交流される方である。

・知的な交流〜イエスの教えを知り、世界や将来、歴史の遺産などを知って主の御心がどこにあるかを知り得る。
・情緒的な交流〜詩篇のことばや賛美の音楽などによって喜怒哀楽を共有するのである。
・意志的な交流〜知的、感情面のコミュニケーションが深まるほど、私たちの主に対する献身は深まって行く。主と同じ願いや希望、憂慮や痛み、動機と目的を抱くようになっていく。

❸それは統治的なコイノス

主との交わりが深まるにつれて
主の栄光に満ちた世界を共有するようになる。

主の所有されている権威や富、
これらを分有する世界の共同相続人としての地位にあることに目が開かれていく。



#救済

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ゲッセマネでの苦闘の祈り

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ゲッセマネでの苦闘の祈り ゲッセマネでの苦闘の祈り



受難週です。
ゲッセマネ の園で苦しまれた主。

あまりの精神的なショックと苦悩は
発汗器官の毛細細胞を破壊し

血が汗となって滴り落ちるほどであったと
医者のルカは記録している。

現在、ホサナ教会ではマタイ連続講解が99回まで進み、
ゲッセマネの園とその後の主の逮捕まで辿り着いている。

「この杯をわたしから取り去ってください」
と主は祈られたが、

その「杯」について新しい洞察が与えられた。

それは十字架上で遂げられる磔刑ゆえの
肉体的くるしみばかりでなく、

その際の辱めと屈辱、
弟子らに背かれ逃げられてしまう精神的な苦しみばかりではない。

これらはすでに主は遥か以前からご存知で
覚悟はできていたはず。

そのゲッセマネの園で祈る段階になって
初めて主に啓示された苦悩があったのではなかったか?


罪そのものとなって父なる神からの刑罰を受けるということ、
呪われたものとなって断罪されるということの意味は、

父なる神からの断絶を意味したのだった。

それまで、歴史の始まる以前、永遠の昔から
一度として分かたれたことのない

父と子の間の
親密で愛おしい関係がプッツリと切られるのだった。

子なる主にとっては未体験の事柄であり、
その痛みと悲しみとは極限に達した。

私たちは経験しようのない領域である。
主にだけしか実際には分かりようがない痛みだった。

こうして言葉で説明を試みても
表面的にしか描写出来ないもどかしさを感じている。


主の断末魔の苦悩は十字架上で

「我が神、我が神、
どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」

と絞り出すような魂からの問いとなり、
太陽までも姿を消した3時間が続いた。

私の罪を赦し、神の家族として迎えるためには
そこまでの犠牲が必要だったとは!







#救済
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失敗から学ぶ

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今週は受難週。 エルサレムのヴ... 今週は受難週。
エルサレムのヴィアドロローサでは巡礼が始まります。
失敗から学ぶ

ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/6697599

「イエスを否定するペテロ」
マタイ26章69~75節
~マタイ福音書連続講解説教 99~


ペテロは3度も主イエスを否認してしまう。

それは主が預言された通り、
鶏が鳴く前に3度も主を否認したのでした。

その数時間前に
「たとい死ななければならないとしても、

私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」
(マタイ26:35)

と豪語したばかりであったのに…
使途集団トップであった彼にも手痛いばかりの失敗があった。

今回は失敗から何を学ぶかについて考察してみよう。
そこからでも益を引き出すことがあり得るのだろうか?

❶失敗の原因

そこにはぺテロの自負心とや自分へのこだわりというものがあった。
「自分だけは大丈夫。ここまで先頭を走って来たんだ…

これからだって…他者と比べたら私の実績や献身は優れているはず……」
そこに潜んでいるのは自己義認(自分は正しい)という態度だった。

そのような彼は
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」との

主の言葉を素直に受け入れることは出来なかった。
謙遜になれなかったのである。

真の自己…それは神の視点から客観的に評価されるものであるが…
を知らないままであった。

❷回復の保証

主はペテロが否認するのをご存知の上で

「あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました」(ルカ22:32) と語られた。

主は在命中ゆえにペテロのためにだけ祈れたのでしょうか。
現在の私たちのためにも祈っておられると聖書は教えています。

大祭司であられる主イエスは、
天においてとりなしておられるのです(へブル7:25) 。

私のために、
貴方のために。

そればかりではありません。
聖霊様がうめきをもって私たちのためにとりなしていてくださっています(ローマ8:26)。

それゆえ、自ら愕然とするような失敗をしでかしたとしても、
回復への保証が約束されていると言えるでしょう。

❸成長への変貌

ペテロは最も大きな失敗をしましたが、
後に最も大きな責任をゆだねられています。

初代教会のリーダーとして立たされるのです。
そこまでの大変貌をとげるために、主の視線は彼に常に注がれ続けました。

鶏が泣いた瞬間、
振り向いた主とペテロは目を合わせました(ルカ22:61)。

その時の主の視線はどの様なものだったでしょうか。
赦しと慈しみに富んだ主の眼差しにいたたまれなくなって

ペテロはその場を去り、
激しく泣いたのでした。

さらに、復活の知らせをペテロに先ず告げよ、
と御使いは墓場で会った女性たちに命じています(マルコ16:7)。

そして復活の主は、
ペテロに個人的に顕現されています(Ⅰコリント15:5)。

あの時の主の、
全てを包み込むような優しい視線はペテロをして悔い改めへと導きました。

それでは現在の私たちには、
主はどこで眼差しを向けてくださっておられるでしょう?

神の言葉、啓示の書である聖書からです。
そのお言葉に実存的に触れるとき、主と出会うのです。

その時同時に真の自己を客観視できるのです。




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キリスト者の弱さと強さ

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キリスト者の弱さと強さ


ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージ・ノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/64768-98

信仰ゆえの弱さ・強さについて考えて見ましょう

⑴弱くあれと主は教えられたのか。

クリスチャンは弱く、無抵抗な輩として
他者からの攻撃でも甘受すべきでしょうか?

「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」
という有名な主の教えから

抵抗せずに強きに屈するのが
信仰者としての姿勢であると考えられる場合があります。

ゲッセマネの園にて無抵抗のまま捕縛され、
敵のなすがままに愚弄された主の姿勢からも

そのように解釈できてしまうのです。

先週はマルチンルーサーキングのワシントン大行進から
50周年を迎えました。

その運動のキーワードは「非暴力、不服従」です。
差別を増長し人権を蹂躙する時の権力者らに

暴力で抗するのではなく(非暴力)、
どんな不利な制裁を受けても制度や指令には従わない(不服従)運動でした。


⑵弱さに秘められた強さ

主は12軍団(レギオン・6000人)の御使いを
指揮できる司令官としての権力を持っておられました。

しかし「聖書が成就するために」あえて弱さに徹せられたのです。

不条理な審問や牢獄、屈辱的な愚弄にも耐えられました。
そこに主の真の強さを見るのです。

力がないゆえでなく、あえて弱さに甘んじた強さです。

キング牧師の運動はインド独立運動の父とされる
ガンジーの影響を受けたものであるといわれています。

ガンジーは次のように言っています。

「侵略者の暴力に暴力をもって応じるようなことはせず、
侵略者の不法な要求には

死を賭しても服従を拒否する……
それが非暴力の本当の意味です」

この言葉と彼の実践に
非暴力・不服従運動の真の強さを見ます。


⑶強さはどこから?

①過去のストーリーの中に位置付ける。

主は、イスラエルの歴史ストーリーの中に自らを位置づけておられます。
「すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです」(56)

逮捕された後も裁判と嘲弄の中を無抵抗で通され
相手のなすがままに任せておられまます。

ところがその全てはイエスのシナリオ通りであり、
全ては旧約聖書の預言が成就するために事は運んでいたのです。

当時のユダヤ当局の裁判制度に照らすならば
少なくとも10箇所においては法規違反であり、
主の死刑判決は無効と言わざるを得ないものでした。

それら10箇所の網を潜り抜ける巧みな主の歩み、
それでいて悪の勢力に翻弄されているかのように見える

……そこに霊妙な主の摂理を見せられます。


②将来を見通して

主は将来の預言成就を見越しておられました。
「天の雲に乗ってくるのを、あなたがたは見ることになります」(64)

現在は罪人としての死刑判決を甘受する身であったとしてもやがての将来、
メシア王国が樹立される時には

世界を治める王として天から降りてこられるという
ビジョンを描いておられました。

神のみこころはこの世界に、歴史的に必ず実現するとの確信を抱き、
そのみこころの中に自己を置くならば

私たちも主と同様、
平安の中を生き得るようになります。


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ゲッセマネの祈り

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/6143097

「ゲッセマネの祈り」
マタイ26章36~46節
~マタイ福音書連続講解説教97~

ゲッセマネとは「油絞り」の意味をもつ、
ケデロンの谷、オリーブ山の西側の麓にある場所です。

そこにオリーブの木が群生し、
オリーブ油を圧搾機で抽出するところからその名がつけられました。

イエスが通常、弟子らと祈りをともにしていた場所でしたが、
その日、史上最大の決戦の場となりました。

と言うのは、翌朝の十字架を回避させようとする
全ての悪の勢力との熾烈な戦いの場となったからです。

もしその戦いに主が負けていたとしたなら、
今日のキリスト教会は一つとして誕生せず、私たちの救いもありませんでした。

しかし主は、脂汗どころか、血の汗を滴らせるほどの精神的圧迫・葛藤を経験し、
その戦いに勝利されたのです。

「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)

主がここで祈られた姿勢から、祈りの本質について学んでみたいと思います。


「祈りの本質について」

⑴神とのコミュニケーション

8人の弟子たちには
「ここにすわっていなさい」(36)と園の入り口で言い渡され、

内弟子であるぺテロ、ヨハネ、ヤコブには
ご自分の苦悩が見える至近距離にまで伴われています(37)。

ご自身はさらに進んで、一人になられて
「ひれ伏して」(39)祈られました。

ここに神とのコミュニケーション・レベルの段階が見て取れます。

主が最も濃厚で親密な神との交流を交わされているとき、
私たちはどこにいるのでしょうか。

そのゲッセマネの祈りがあったことすら知らない当時の群衆たち。
それは、祈りの世界に全く無頓着で門外漢の段階です。

8人の弟子たちは、
祈り自体は知っているし実践もしてきているが、まだ初期の段階です。
彼らは、そこに神との人格的で双方向の交流があることを経験していません。

3人の内弟子たちは、主が格闘しているすぐ近くにいました。
主の祈りの言葉やその苦悩まで見聞していますが、
それが意味している霊的な意味までは悟れないままです。

⑵ 神へのコミットメント

主はお一人で「この杯を取り去らしてください」と祈られました。
では、「この杯」とはいったい何でしょうか。

①肉体の死のことではありません。
主は十字架上での死を以前から覚悟されています。

②霊的な死のことです。
未体験の底知れない恐怖と暗黒に襲われました。

永遠の昔から瞬時たりとも絶やされなかった父なる神との親密な交流関係が
断絶され、敵とみなされ、呪いの的とされるという

十字架の霊的な意味がこのときに至って新しく啓示された故と言えるでしょう。
「悲しみのあまり死ぬほどです」とその苦悩のほどを吐露されました。

人間イエスは「杯を取り去ってください」とご自分の本音の願いをささげましたが、
同時に「わたしの願いではなく、あなたのみこころの通りにしてください」
と父なる神にコミットメント(委譲・献身)をしておられます。

私たちも同様にどんな自己的と思える願いでも本音で神様に迫って良いのです。
その中で、神のみこころに従う献身に導かれていきます。

⑶ 神へのコレスポンデンス(調和)

「キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことの出来る方に向かって、
大きな叫びと声と涙とをもって祈りと願いをささげ、
そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(へブル5:7)

主のゲッセマネの祈りは聞き届けられたと、
ここのへブル書の聖句は教えています。

人間イエスの願いはかなわなかったが祈りはかなえられ、
杯を受け取るだけの力と確信とを得たのです。

十字架の霊的な暗黒に立ち向かう決意が確立されたのでした。

主の孤独の戦いに期待した弟子たちは皆、眠りこけてしまっていました。
「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(41)

そんな中で父なる神は、天使を送り助けておられます。(ルカ22:43)

危機的な状況においてなおも神との調和(correspondence)を保てるのは
平常での祈りの歩みがあるからです。

かつてハガルは、
家を追い出され孤独な逃避行を続けているときに新しい神観に到達しています。
創世記16:13

それは彼女自身は気が付かなかったが、
「ご覧になる方」を発見したというものでした。

彼女が困窮の中で祈るより先に、
彼女自身とその境遇の全てをご存知であった主を知ったのでした。

私たちにおいて祈りとは、
神が私の全てをご存知の上でなおも受け入れてくださっていることを

発見し続ける営みと言えるのではないでしょうか。

#救済

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最後の晩餐は過越祭の食事場面

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:

http://hosannamin.org/whatsnew/view/6143096

「過越しの食事」
マタイ26章17~30節
~マタイ福音書連続講解説教96~

ダビンチ絵画で有名な「最後の晩餐」の場面です。

ユダヤ的な視点からは、
あの長テーブルと椅子に腰かけたスタイルの食事は大いに疑問です。

当時のユダヤ人の風習からすれば
肩肘を床やクッションに乗せながら足を後方に伸ばして食事をしたからです。

それは奴隷でなく自由人となった証のためでした。
さらにその場面はユダヤ人の最大の祭りである過越しの祭りの食事の場面でした。

その食事の際の作法や儀式を知ると
席上で話された主の言葉の意味をや状況を深く理解することができます。

前菜の段階でカルパスと呼ばれている緑色野菜を摂ります。
多くの場合はパセリが使用されました。

数人が塩水の入った鉢をシェアして、そこにパセリを浸して食します。
紅海でのエジプトからの脱出を記念するものです。

この瞬間、主はユダの裏切りを預言しています。
「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23~24)

当時、主の右側にヨハネ、左側にイスカリオテのユダが席に着いていました。
主賓に対して上座、次席の位置にあたります。

アフィコーメンの儀式が続きます。
これはマツァ(種無しパン)という3つのパンがありまして、

それぞれ真四角の布製袋3つに区分されたそれぞれの袋に
パンがひとつずつ入っています。

それらのパンには打たれた傷跡と刺された穴が開いています。
ローマのむち打ちで打たれた主の背中の傷跡と、
十字架上で槍で刺された脇腹を象徴するものです。

真ん中のパンは取り出されて二つに割られます。
片方は袋に戻して、もう片方は亜麻布にくるんで部屋のどこかに隠します。

これは主が死なれて三日後に復活され、
弟子たちの前に現れなさったことを象徴するものです。

この隠された半分のパンがアフィコーメンと呼ばれているものでして、
デザートを意味します。

続いてハロセットです。

これは、リンゴ、ナッツ、蜂蜜、シナモンを混ぜ合わせた、
泥を思わせる色と形をしています。

エジプト時代に煉瓦作製した奴隷時代を記念しています。
マツァの上に載せて、マロール(苦菜)と合わせてそれぞれに配られます。

主がそれを配られたとき、
深い悲しみと憂いとに溢れてユダの裏切りを再度預言されました。

ハロセッとをユダに与える場面がヨハネ13:21~30にあります。
「それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・ユダにお与えになった」

主はマツァを取り、ハロセットに浸してから隣のユダにお与えになられています。
そのマツァを受け取った後、ユダは退室して行きます。

ここまでが前菜で、
その後は神殿でささげた子羊のローストをメインディシュとして食します。

子羊ローストの後、
隠されていた半分のマツァ(アフィコーメン)は取り出され、
細かく割ったのちに全員に配られます。

その時、主はアフィコーメンを配りながら「わたしの体」であると告げられています。

そして第三の杯(これは贖いの杯と呼ばれています)が配られますが、
出エジプトの際の子羊の血を象徴するものです。

その時には「わたしの血である」と言われながら配られました。
それは、新しい契約のしるしとなりました。

「記念として」「わたしを覚えて」行う聖餐式を制定された瞬間でもあります。
マタイ26:26~28

最後に第四の杯で賛美の杯と言われているものが配られます(マタイ26:30)。

この時に弟子たちの裏切りを預言しますが、
ペテロのはこれに反して豪語しています。

賛美とはハレル(詩篇117篇、118篇)と呼ばれている詩篇をを賛美するものです。
第四の杯は締めくくりとなるもので、これをもってすべての儀式が終了します。

#救済

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