ホサナキリスト教会
日曜礼拝・聖書広場から
ヨハネ21章1〜14節
「さあ来て、朝の 食事をしなさい」
主が復活されて2週後の
ガリラヤ湖畔での出来事であった。
❶対比
ペテロら7名の弟子たちが一晩中漁をしてみたものの、
「しかし、その夜は何もとれなかった」(3)
一方、主が言われる通りに「舟の右側に網を下ろし」再びやってみたところ、
「おびただしい魚のために網を引き上げることが出来なかった」
という大漁となった。
この違いはどこから来たものでしょうか?
人の側の努力や真面目さが違うのでしょうか?
いや、ペテロらは誠心誠意働いたはずです。
一晩中冷たい水や風にも耐えながら重労働に耐えたのでした。
それだけに収穫ゼロというのはキツかったはず。
肉体の疲労だけでなく、労働が徒労に終わった失意と虚無感に陥っていた弟子たちであった。
❷原因
ところで、主の言葉通りに再び網を投げ入れると
その失意は歓喜に変えられた。
朝もやに浮かぶ人影の正体が誰かを真っ先に見破ったのは
「主が愛されたあの弟子」と紹介されたヨハネだった。
不漁と大漁、失意と希望、成功と不成功、、、
両者を分け隔てているのは、
主がそこにおられるかどうかの違いである。
そして主のお言葉を聞いていたかどうか。
さらにその主のお言葉を通りに
信じて、行動に移したかどうかに違いがあった。
❸介入
「子どもたちよ。食べるものがありませんね」
困憊と挫折の只中にいる弟子らに声をかけられた主。
私たちがどんな理由で絶望しているのか、主はご存知であられる。
私たちのその惨めな只中に主は来られて同様に声をかけてくださるのです。
「さあ、来て朝の食事をしなさい」
疲労と空腹の中にいた弟子らのために、
炭火で焼いた魚とパンとが備えられた朝食。
主を否定したペテロ、同様に逃げ出した他の弟子ら。
彼らの傷心を癒し、主との絆を再構築する和解の食卓であった。
思いがけない失敗に沈むことがあったとしても
その現実の中に今も主は介入し、
私たちとの和解のテーブルを備えてくださっている。
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