皆さん、こんばんは。 今日もお元気でお過ごしでしょうか。 先週、サンフランシスコでは多くの友人たちとの出会いがありました。 今日はそのお話です。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 日本式接客法 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その日も、サンフランシスコ・ユニオンスクエアで ビジネスを営む友人たちから大歓迎を受けました。 ところで、 「お客様は神様です」 そのように日本では言われてきました。 神様にに対するように恭しく丁重にお扱い申し上げて たとい理不尽な要求があったとしても 腹にグッと抑えて笑顔を絶やさず…… お客様は、福をもたらす神様なのだから。 そのような接客倫理が一般的にまかり通ってますね、日本国内では。 いやはや、この米国でも実は日本人の運営する商売の現場は、そのようなものがまかり通っているのです。 時には、国内よりもハッキリとした色彩を帯びるほどに。。 一見すると、それらは質の高いサービスのように見受けられます。 しかしながら、それではどこまで行っても「裏・表」、「本音と建前」の世界から抜け出ることはなく、 「友人」関係には到底至りません。 帰国するたびに感じること。 ホテルマンやエレベーターガールの腰を曲げての慇懃なご挨拶。 決まり切ったフレーズを流暢に繰り返すのは良いが、 マニュアル以外の現場のニーズにどこまで応じることができるのか? いや、 とっさなニーズに応じようとのサービス意欲は、 日本式接客法から引き出せるものだろうか? 商売でも芸事でも何事においても定められた「形」があり、 先ずはその形に問答無用に自らを当てはめる。 「外」にあっては、ことごとくその「形」なるものに追従せねばならず、 それを様式美として洗練させたものが日本文化であるとすると、 それらはフィクションに過ぎず、何ともお寒い空洞が「内」に残ることになる。 そんな「内と外」の使い分けは室町時代から始まり…… オット、オット、おっとっと、、、 細部に入りすぎるので、その話はこれ以上進むませないことにします。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 米国西海岸の接客法 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 米国では、その「内・外」、「主人・各人」を分け隔てる壁は小さく、相手によって敬語を使い分ける必要もない。 そもそも英語には、日本語にあるような微妙な敬語変化はない。 米国といっても、欧州の気分を多く引きずっている東海岸よりも、こちら西海岸ではその傾向が強い。 いわば西は、生粋のアメリカン。 この日に会った30歳ほどの男性ですが、 5年ほど前から私の顧客となってくれていて、 心地よい付き合いの続く中で、すでに「友人」の領域に入りつつある。 私の顔を一目みるなり目を釣り上げて、彼は上ずった声で言い放った。 「一体、どこに行っていたんだ?!」 私 :「………」 「俺にはお前が必要なんだ。 ようやくお会いできてサイコーだよ! キョウ・トウ!!」 私の名前をそこまで覚えてくれているだけでありがたい。 私は彼の名を完全に忘れてしまっていた。 過去数ヶ月間の互いの消息を交換し合いながら 他愛のない会話が続く。 彼の名前を思い出せないのは実に不便であったが、 今更聞くわけにもいかない。 友人なら名前を忘れるなんてご法度だ。 彼のように私を期待して待っている人がいる限り 他州までの遠征が続けられる。 もはや、収益が理由とはならない。 人の役に立てれることは、己の魂を揺さぶられることである。 それはすなわち、神に仕えることである。 顧客自身が神になるのではない。 顧客もビジネスマンも等しく見上げる絶対者(神)がいるので、 互に対等の立場に位置し、友人となり得るのだと思う。 最後に聖書のお言葉をお贈りします。 8 私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので、 私はゆるぐことがない。 9 それゆえ、私の心は喜び、 私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう。 (詩篇 16:8-9 ) 今日も皆様お一人ひとりの上に 豊かな神様の祝福がございますように。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ メルマガ 「アメリカの国から」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 本ブログにアクセスしなくても、皆様のメールアドレスに配信します。 ご登録はこちらから http://www.mag2.com/m/0001598558.html