殉教なんて損ではないか!
May
12
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「バプテスマのヨハネの斬首」
マタイ14章1~ 12節
~マタイ福音書連続講解説教36~
バプテスマのヨハネとヘロデ・アンティパスとは、
対極にいる人物として本章に書かれています。
それはマタイ福音書2章で、
東方からイエスを拝みにやってきた博士たちとヘロデ大王が対極にありますが、
そのパターンに似ています。
• 権力者と市井の一般人
• 不信者と信仰者
• 己の欲に振舞わされた人と神の使命の道に忠実であった人
• 人を恐た人と神を畏れた人
• 殺人者と礼拝者
などなど。
メシアの道備えをしたヨハネは獄中で数年間を過ごしますが、
最期は斬首されるという悲惨な結末を迎えます。
彼は、
1. ヘロデ・アンティパスの虚栄心・メンツの犠牲となりました。
ヘロデ自身はヨハネの語る真理に納得するところもあり、ヨ
ハネを保護したほどでしたが、「誕生日祝いに集まった重臣、千人隊長、ガリラヤの名士たち」の前で自分の約束を守らねばならない状況に陥った。
彼自身のメンツがより大事なものでした。
2. ヘロデヤの憎しみの犠牲。
夫ピリポと離縁し、アンティパスのもとに駆け落ちしたヘロデヤ。
この罪をヨハネから糾弾されて以来、心穏やかではいられなくなりました。
密かにヨハネ殺害の機会を狙うようになったのです(マルコ6:19)。
3. 娘サロメの冷淡さと無関心の犠牲。
彼女は感心される踊りを披露した見返りに、
母親の言いつけ通りに殺人を所望しました。
預言者ヨハネの働きの価値を何ら理解しないまま、
冷酷で気まぐれな判断をして、
母親に気に入られようとしたのです。
ヨハネの死には一体どんな意味があったと言うのでしょうか。
信仰を曲げなかったがゆえに、損と見えるクジを引き当ててしまった?
そのような例は聖書で他にも多く出現しています。
バテシェバの夫などがその代表です。
神が奇跡を起こして彼を救出されずに殉教を許されたのには、
人智を越えた深い神のお考えがありました。
それは、その当時においてはとうてい理解できることではありませんでした。
長い時を経てから分かることが多いです。
ヨハネは先駆者としての使命を全うしました。
その殉教は、イエスに最期の時に対する認識を新たにしました。
彼の殉教は彼の栄誉となり、その名声は広くエペソまで伝わって行きました。
そして、将来は主イエスから「いのちの冠」(黙示2:10)を受け取ることでしょう。
「すべてが相働いて益となる」(ロマ8:28)とは、
神に従うもの、神を愛するものに対する変わらない約束です。
そしてこの頻繁に語られてきた聖句は、
永遠という時間の流れの中で、
私たちの救いが完成する将来における「栄化」を教えている文脈(ローマ8:18-39)
に位置してます。
殉教や迫害、試練が「益」となるなんて、
現段階ではとうてい考えられない重たく、辛い現実でもあります。
そこで忘れてならないのは、
現段階だけが私たち信仰者の土俵ではないということ。
神の言葉が真実その通りであるのを実感・体験できるのは、
将来の主イエスによる裁きの時まで待たねばならないことを教えているのです。