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- ホサナキリスト教会・聖書広場から 「山頂での栄光」
この日、入道雲がモクモクと発生。
真夏を思わせる気候となりました。
「山頂での栄光」
マタイ17章1~ 8節
~マタイ福音書連続講解説教44~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/71844
先回のマタイ16章のピリポ・カイザリヤからのストーリーを追って見ましょう。
17章との間には、6日間の時間の流れ(1節)があります。
その6日間、主と弟子たちとの間には冷たい隙間風が流れていたと推察されます。
主は最も大切な「受難」を打ち明けたのでしたが、
弟子たちには受容できないばかりか、
「引き下がれ、サタン」と厳しく叱責されてしまったからです。
メシア王国建設の代わりに受難と死だけが主の将来に待っているとしたなら、
その弟子として追従する意味があるのだろうか、
と弟子たちは自問自答したことでしょう。
気まずい空気の中で、
その話題を持ち出すことは弟子たちからはできませんでした。
この師弟関係のつまずきをどのように修復するかが、
17章の一つのテーマとなっています。
主は3人の内弟子だけを伴って高い山(多分ヘルモン山)へ登られます。
❶シャカイナ・グローリー
主イエスが祈っておられると、
「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣が光のように」
輝きます。
これは、主がその内側にすでに保持しておられる神としての本質が、
肉体のベールを裂いて輝き出た瞬間でした。
そして旧約聖書の二大巨頭と言うべきモーセとエリヤとが現れて、
主イエスのエルサレムでの最期(エクソダス:ディパーチャー)
について話し合っていたというのです。
❷ペテロの提案
彼はその時、
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。
もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
(マタイ17:4)
と言います。
ペテロはその時、
「恐怖に駆られて言うべきことが分からなかった(マルコ9:6)」。
この箇所を、多くの西洋神学者たちは、
彼が光栄に接するための時間稼ぎのためか、
寝ぼけていたために
そんな見当違いを口走ってしまったのだ、と説明します。
私はあるユダヤ人学者の説明を聞いて始めて得心できました。
ここでの「幕屋」は、モーセがシナイ半島で出エジプトの際に作ったものでありません。
それは仮庵の祭りの際に建てられる粗末な掘っ立て小屋のことです。
この時期、その仮庵の祭りの前後と思われます。
仮庵の祭りは、メシアの来臨とメシア王国成就を待望して
ユダヤ人が今日に至るまで毎年継続している秋の例祭です。
ペテロは、そこでイエスが栄光のメシアとして変貌された今、
旧約の代表者らとともに王国を樹立する瞬間がやって来たと理解したのです。
つまり彼の進言は決して場違いのものでなく、
預言成就の文脈に沿った正統なものでした。
ただ彼もその他の弟子たちも、
仮庵の祭り(秋)の前に、
過ぎ越しの祭り(春)が祝われている
預言的意味を把握していません。
過ぎ越しの祭りが予表しているものは、メシアの受難です。
栄光のメシア到来の前に、受難の時が来なければならないのです。
❸バットコル:天からの声
父なる神様が、
主イエスに直接天から声をかけられたことが、主の生涯に3度ありました。
その3度は何れも主の生涯の転機となる瞬間で、
父なる神の承認・確認を必要としていた時でした。
• 洗礼の時:マタイ3:17 ~ミニストリーの開始期に
• 変貌山 にて:マタイ17:5 ~ミニストリーが弟子たちに受け入れられない時に
• 受難の直前:ヨハネ12:28 ~ミニストリーの完成間近に
「彼の言うことを聞きなさい」とのことばは、先回の洗礼のときにはないものです。
これはペテロの誤り(16:22)が指摘されネバならず、
十字架の道が神の御心であることが示すためのものでした。
ここで、
主イエスにとってエルサレムでの十字架が
主のゴールであることが確認されました。
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