ホサナキリスト教会・聖書広場から 「山麓で勝利するために」
Aug
31
マタイ17章19~ 27節
~マタイ福音書連続講解説教46~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/7192746
山麓では、9人の弟子たちが戦いに巻き込まれていました(9~18節)
今回は、その世界にある現実問題にどう対処して行けば良いのか、という観点から
主イエスの教えを学んで見ましょう。
私たちは常に問題に取り囲まれてますが、
勝利のための秘策も用意されているからです。
Ⅰ 生きた信仰によります(19~21節)
「なぜ自分たちでは悪霊を追い出せなかったのか」
と密かに弟子たちは主に問いかけます。
かつて悪霊追放のための権威も与えられていて、
実績もあった(10:8)のに、
ここで律法学者たちとの議論にも破れて面子を失っているのです。
主イエスのお答え(20)は、
「信仰が薄いから」という、直球できびしいお言葉でした。
彼らは、活性化されていない信仰状態にあり、
過去の経験や、
優位な立場・肩書きに頼っても、
霊の世界では意味がないのです。
「からし種ほどの信仰があれば」と主は言われます。
これは最も小さなものを表すユダヤの格言です。
小さな「信仰」であっても、
種の中には命があるように
それが生きた信仰であるなら
そこに神からの命が通い、
「山」をも動かす、と言われます。
「山」とは、克服困難な大問題を比ゆ的に表現するユダヤの文学形態です。
マタイ21:21
すなわち「山を動かす」とは、
神にしかできない大問題を解決することで、
ここでは、口の聞けない悪霊を追放することでした。
神には不可能は一つもないのです(ルカ1:37)。
処女降誕も、
死からの復活も、
罪の赦しも
神にしか実現不可能な「山」です。
その神の力を引き出すパイプ役が信仰です。
その信仰を抱いて、世界の山と対峙するのです。
Ⅱ 御心への献身(22~23節)
主は、本拠地・カペナウムへ帰ってこられました。
そこで2回目の主の受難告知をされます。
初めての受難告知がピリポ・カイザリヤでのリトリートの最中でした。
いわば非日常での思いがけない啓示でしたが、
ここ彼らの生活の場にあっても、
主の定められたゴール(十字架)は、
変わらないことが示されます。
主イエスは父なる神の御心に献身しているのです。
弟子たちには不評ですし、多くの群衆にも理解できないことでした。
しかしそれは、旧約聖書預言の成就の道であり、
主が地上に来られた目的でもあったのです。
ここに不遇の境遇にあっても勝利する秘訣があります。
人の感心や自己の都合ばかりでなく、
最後のところで父なる神の御心に追従するかどうかです。
Ⅲ 他者への愛の配慮(24~27節)
徴税人たちは弟子のペテロに詰問します。
「あなた方の先生は、宮の納入金を納めないのか」
連続したリトリートゆえに、神殿税の納入期限が過ぎていたのです。
ここで神殿税とは、
20歳以上のすべてのユダヤ人が過ぎ越しの祭りの際に
神殿経費として納めていたものでした(出30:13)。
主は口伝律法をことごとく無視されました。
安息日の詳細な仕事をしない決まりや、食前の清めの儀式などです。
ただしモーセ律法はことごとく守り、一度も破られたことはないのです。
既成権威のパリサイ人達とは衝突されること多く、
ラディカルに見えた主でしたが、
本来の旧約聖書の権威にはことごとく従われていることを見逃してはなりません。
世の王たちはその家族・子供たちから税を徴収しないことをたとえに、
主イエスには納税の義務はないことをペテロに教えられます。
主こそ、神殿の主人であられるからです。
ところが、
「彼らにつまずきを与えないために」湖で釣りをするように命じて、
その口にあるスタテル1枚を
ペテロと合わせた二人分の神殿税とするよう命じられます。
福音の本質的な事柄でないなら譲歩して、
時に権利も放棄された主の姿から学びましょう。
真理を曲げてまで世の風潮に追随はできませんが、
どちらでも良いことなら、
相手がつまずきとならないための最大限の配慮をしましょう。