❼Ⅱコリント3:2-11
「2 私たちの推薦状はあなたがたです。
それは私たちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、また読まれているのです。
3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。
5 何事かを自分のしたことと考える資格が
私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。
6 神は私たちに、
新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者です。
文字は殺し、御霊は生かすからです。
7 もし石に刻まれた文字による、
死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、
やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、
義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
10 そして、かつて栄光を受けたものは、
この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、
栄光のないものになっているからです。
11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、
永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
ここで扱っているのは、十戒である。
今も大抵のクリスチャン達が手放したくはないと考える律法の一部である。
モーセ律法のほとんどは無効であることは認めても、
ある一部のものは、
特に十戒は今も有効な神様から命令であると考えるクリスチャンは多い。
それでは、パウロがモーセ律法を何と呼んでいるかに注目してみよう。
「死の務め」(7節)
「罪に定める務め」(9節)
3,7節を見ればここで論じているのは十戒であるのが分かる。
「石に刻まれた文字」とは、十戒に他ならない。
ここでの要点は、十戒に代表されるモーセ律法は
「死の務め」
「罪に定める務め」
だということだ。
さらに、7,11節を見ていただきたい。
律法は「消え去るべきもの」とある。
ここで言われていることは一目瞭然でモーセ律法、
その中心であると目されている十戒はもはや効力を失ってしまっている、
ということである。
それとは反対に、メシアの律法は無効になることがないと言われていることから、
メシア律法の優位性を見ることができる。
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