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ホサナキリスト教会・聖書広場から

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「永遠の命を得るには①~人の功績か?」

マタイ19章13~ 22節

~マタイ福音書連続講解説教51~

聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250

財産家(22)であり、役人(ルカ18:18)でもあった青年が主の下に来て尋ねた。

「永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしょうか」

彼は、真面目な求道者でもあることがこの質問から知ることができる。

パリサイ神学では、ユダヤ人として生まれた選民であるなら
永遠の命は保証されていると教えていた。

彼はその教理に飽き足らず、
救いの確信を探していたのだ。

しかし、彼の思考の根底には
パリサイ神学が岩盤のようにどっしりと据えられていたことも、
「良いことをする」ことが命を得る=天国行きを保証する
という問いから窺える。


❶「良いことをする」事でなく、メシア信仰による

主は、良い行いによる救いでなく、
信仰による救いをここで彼にチャレンジされている。

マルコの並行記事では、
青年は主を「尊い先生」(マルコ10:17)と呼びかけている。

「尊い」とは「良いこと、良い方」(16,17節)と同じで、
アガソス(ギリシア語)である。

この語句は、ユダヤでは神のみしか用いられなかった。

人を形容する場合のそれは、カロスであった。

マルコの記事では、
なぜ私を「尊い」とするのか。
神のみが尊い方である(マルコ10:18)と、
主は尋ねられている。

ここは誤解を生み易い箇所である。
主の意図を理解した上で解釈する必要がある。

ここでは、
「あなたはわたしをメシア(神)であると信じるのか」と
彼に問うているのである。

ご自身が神ではない、と言っているのではなく、
メシア信仰へのチャレンジである。

17節にある質問と答えとの間には、沈黙の数秒間があった。

青年は、主への信仰告白が出来ずに沈黙してしまったのである。

ゆえに、主は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と、
彼の無言の返答に代わる言葉を続けられたのである。


❷モーセの十戒の役割

ここで主は、
青年の立つパリサイ神学という土俵へと降りておらるのを見逃してはならない。

「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」

ーこの言葉だけを取り上げて短絡的な結論を出すなら、
文脈を無視していることになる。

実にここは、
カトリック教会による功績による
救いの教理の根拠として用いられた聖句なのである。

ところが実際のところ、主はそれとは正反対のことを教えようとされているのだ。

「どの戒めか」と問う青年に、モーセの十戒を示された主。

「そんなことなら分かっているんだ、小さい時から守ってきた。
もっと斬新的な戒めを教えてくれよ」

そう彼は催促する。


分かったつもりになっている彼に、

主は彼の置かれている状況に即した実際的適応をして見せられた。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」とは、一体どういうことか?

その適用例を聞いて青年は身がすくむような、
奈落の底を見せられた思い。

正しく律法を学び、それを自分自身に適用しようと努力するなら、

彼ならずとも私たちは、たちどころに不適格者であることが露呈される。

律法は、それを遵守することで救いに誰一人至らないことを教える役目がある。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)


❸完全になりたいのなら

「完全になりたいのなら」=「欠けたことが一つあります」(マルコ)とは、
「あなたの律法主義生き方を完全にしたいのなら」という意味。

青年の土俵に降りて来られた文脈の中での言葉であることに注意。
ここでも良い行いが完全をもたらすと教えているものではない。


21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」

22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(21~22節)


この聖句も多くの場合曲解されて来た。

一段上の完成された霊的エリートになるためには、
無一文となって修道院生活に入るようにと教えている、といった具合に。

主は彼に律法の具体的適用例を教えておられるに過ぎない。

彼は律法を実行できないジレンマに直面させられた。

彼自身のパリサイ神学の結果として、命が得られない結論に到達したのだ。

彼は「悲しんで去って行った」~永遠の命をあきらめざるを得なかったのだ。

富を選ぶか、神を選ぶかの選択を迫られた瞬間であったとも言えよう。




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