関ヶ原
Nov
26
犬山城を立ち名鉄線で岐阜までの間、計画通りには進軍出来なかった。
長良川鉄橋上で信号待ち、次の駅で乗り換えとなり、
このままの進軍速度では関ヶ原のボランティア・ガイドとの
待合せ時間に間に合わなくなる。
大垣駅でも乗り換えの立ち往生があった。
この駅から徒歩15分の所に位置する大垣城は数年前に訪れている。
その大垣城を石田三成を頭とする西軍が
関ヶ原に向けて進発したのが
1600年9月14日午後7時頃と言われている。
今日JRなら14分で終わってしまうも、
当時は東軍に気づかれまいと、
灯火統制や
馬にもくつわを喰わせて静粛統制された
数万の人員が粛々と雨の中を進んだ。
ようやく関ヶ原に到着したのが翌日の午前1時頃。
列車の左手前方に南宮山が見えてくる。
西軍はこの南宮山の南麓を大きく迂回したが、
列車は関ヶ原を東西に貫いている当時の東山道をなぞりながら直行を続ける。
西軍の動きを探知した徳川家康は15日午前2時頃に進軍命令を発して、
先鋒部隊が関ヶ原に達した世の明け方頃には
すでに西軍は布陣を完了していた。
南の南宮山が北側に広がる伊吹山山系に接しようとしている狭隘部が
関ヶ原の東側入り口となっている。
その入り口に達して直ぐに左手に見える低い丘陵が桃配山で、
家康が合戦初期に本陣を構えた場所。
既に列車は東軍の4人の武将たちの陣地を通り過ぎている。
関ヶ原から大垣城方面に有馬富、山内一豊、浅野幸長、池田輝政らの諸隊である。
これら諸隊は最後まで合戦に参加していない。
南宮山頂上に陣を構える西軍の毛利秀元・1万5千の大部隊に備えるためだ。
さらに南宮山の北麓には吸い付くようにして
西軍の安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親らが睨みを効かせている。
関ヶ原に入って周囲を見渡してみると
なるほどそこは四方を小高い山や丘陵地に囲まれた盆地である。
この盆地の東西を東山道が貫いていることは先ほど述べた。
さらにその中央部で北西に北陸街道が、東南に伊勢街道が伸びている。
諸国への街道の交差点であるそこには、
往古の時代、不破の関が置かれていたのは頷ける。
さて、予定よりも1時間ほど遅れて(もちろんその旨はお伝えしている)
歴史民浴資料館へ行って見るとガイドのN氏は待っておられた。
先ず私たちが向かったのは、
合戦の開始を告げる狼煙が上がった関ヶ原北端の丘陵地点である丸山。
そこには東軍の黒田長政と吉田重勝が布陣した。
東軍で唯一の丘陵の上に陣を構えた部隊である。
そこの直ぐ目の前が関ヶ原の激戦地となる。
四方を山に囲まれた関ヶ原全容を見渡して言えることは
明らかに西軍の布陣は圧倒的に有利な地理条件にあるということ。
山の麓に鶴翼の体勢に陣営を広げる西軍に対して
東軍は何れもその下方部に位置する平野に陣を構えた格好となっている。
東軍は言わば、
なだらかな丘陵を下から登山しながら刀や槍捌きをせねばならない。
明治政府のお雇い軍事顧問にドイツ人のクレメンス・メッケル少佐が
関ヶ原に立ち、両軍配置図の説明を受けた時、
即座に西軍の勝利を断言したとの逸話が伝わるが、
素人でもその判断はできる。
関ヶ原を覆う濃霧が晴れ渡った午後8時頃から開戦となり、
西軍有利のまま、一進一退の攻防が約4時間も続く。
正午過ぎ、決戦を決定的に方向付ける異変が起こった。
それまで松尾山山頂でだんまりを決め込んでいた小早川秀秋の裏切りである。
西軍有利に進展していたこれまでの戦いが、
一気に形成逆転となる。
松尾山を駆け下りた小早川隊1万5千6百は、
南天満山に隣接している大谷吉継、
その北の宇喜多秀家、小西行長らを壊滅させながら
鶴翼の最左翼に位置する石田三成に迫る。
迫ったその手前には島津義弘、豊久らがいたが、
彼らは夜明け前の奇襲作戦を石田三成に採用されなかったことに
腹を立てて戦いには参加せず、
傍観を決め込んでいた。
彼らは迫り来る津波のような東軍を前に退却せねばならないのだが、
ここで薩摩隼人の意地を見せるべく無謀にも家康本陣前の敵前突破を敢行。
1千5百の島津隊が伊勢街道を敗走して薩摩まで達したとき、
義弘の手勢は80騎余りとなっていたという。
さて、関ヶ原のガイド案内のことである。
黒田陣地の後、激戦地に立ち、それから
石田三成陣地の北天満山の山麓まで登った。
その後、西軍が崩壊して行った逆のコース、
つまり鶴翼の左端から大谷吉継陣地までを
3時間程かけて歩きながら説明を受けた。
ガイドと一緒に半日で鶴翼に広がる西軍陣地を踏破したことになる。
次回訪問の時には、
1日じっくりかけて東軍陣地をご案内いただきたく願っている。