長崎の平和記念公園から浦上天主堂を望む
先日、春日井栄光教会の日曜礼拝でお話させていただいた要旨です。
説教題:「永遠のいのちは得られるか」
聖書箇所: マタイ19:16-26
16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
17 イエスは彼に言われた。
「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。
良い方は、ひとりだけです。
もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18 彼は「どの戒めですか」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「殺してはならない。姦淫してはならない。
盗んではならない。偽証をしてはならない。
19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
20 この青年はイエスに言った。
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
23 それから、イエスは弟子たちに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
26 イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます。」
永遠のいのち(16)=天国に入る(23節)
…それは人の功績によるのか、神の一方的な恵みによるのか?
この箇所は歴史的に教会が「捧げ物や犠牲によって人はその救いを獲得できる」との教理のために利用されて来た。
17節後半、21節、そして23節だけを切り取って何遍もそれだけを読むなら、
そのように解釈してしまうのも無理はない。
聖書は文脈に留意して解釈しなくては、正しく理解したことにならない。
❶永遠のいのちを得たい青年
「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いか」
との青年の問いには彼の立脚しているパリサイ神学、
つまり律法をより詳細に遵守して神に認められようとする
律法主義が露見している。
それに対して主は
「なぜ良いこと(アガソス)についてわたしに尋ねるのか。
良い方(アガソス)は一人だけだ」とお答えになられた。
<ユダヤ的な文脈に注意せよ>
「アガソス」がユダヤ文化圏で使われた場合、
それは神に関する絶対的な尊さ、善良さ、美しさに
関してのみに用いられてきた。
並行記事で青年は、
「アガソス先生」と主に呼び掛けて質問している。
ここで主は「あなたはわたしを神であると告白するのか」
と問いかけておられのだ。
世辞でしかなかった青年の一言を取り上げて、
彼をメシア信仰へとチャレンジされておられる。
❷永遠のいのちを得る方法
「完全になりたいなら、持ち物を売り払って貧しい人達に与えよ」(21節)
との主のお言葉は、
功績による救いへの達成を教えたものではない。
「小さな時から皆、守っている」と青年が自信ありげに答えたモーセの律法を、メシア(律法の起草者であり付与者)として解釈したものである。
「隣人をあなた自身の様に愛せよ」との律法を実践するとは具体的にどういうことかを明らかとしたのである。
<聖書全巻の文脈に照らし合わせよ>
旧約でも新約でも聖書は一貫して人は信仰と恵みによって救われるのであり、
行いによらないと明確に教えている。
本日の箇所の直前、子供達が主の所にやって来た時、
「天の御国はこのような者たちの国である」と教えておられる。
子供達には功績の実績がなかったはずである。
また直後の箇所では
「先の者が後とされ、後の者が先とされる」との教えが、
たとえ話で解説されてある。
ここで「先の者」とは、自他ともにエリートとされた富める青年に他ならない。先の者は神の前では評価されていないのだ。
❸永遠のいのちを与える方
自己流でないメシアの律法解釈の前に、
誰が自己義を確立できよう。
律法は救いを与えるものでなく、
メシアへと導く養育係りの役割に過ぎない。ガラテヤ3:24
<ストーリー展開の文脈に留意>
ポイント❶にある17節前半の主の質問に再注目して欲しい。
両者の会話の流れが17節の前半と後半では途切れている。
質問に答えられない青年の沈黙が数秒間続いたのだ。
彼は主をメシアと告白できなかった。チャレンジを拒否したのである。
そこで主は、
「もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」(17節後半)
と言葉を続けられた。
繰り返すが、ここから行いによる救いの教理を打ち立ててはならない。
主の真意は真逆にある。
信仰のない彼のパリサイ神学の土俵に降りて勝負しようとされているのである。戒め=律法をメシアが本来の解釈をして人に適応するなら、
誰一人律法を守れる者はいないことを知らせるためである。
「それ(救い)は、人に出来るものではない。
しかし神にはどんなことでも出来る」(26節)
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