ゴラン高原
Ⅱ 聖書の用法からの検証
多くの人々はこれらは単なる意味論の範疇のことに過ぎず、
聖書のある箇所を取り上げては
霊的な変貌により(新生)、異邦人が新しいユダヤ人になったのは確かだ、
と主張する。
その論拠としている聖句を取り上げて検証してみよう。
①ガラテヤ 3:6-9
「6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 (ガラテヤ 3:6-9 )」
もし異邦人が信仰によってアブラハムの子供になったんだとしたら、
それは霊的なユダヤ人になったことではないのか、という反論である。
答えはNOである。
身体的な範疇を考えてみても、
すべてのアブラハムの子供たちがユダヤ人ではない。
例えばアラブ人たちはユダヤ人たちと同じほどにアブラハムの子孫であると言えるのであるが、
彼らはユダヤ人と言うカテゴリに入りようがない。
身体的なことでの真理は霊的な事柄においてもまた真理である。
つまり信仰によるアブラハムの子孫というだけでは、
ユダヤ人になるわけではないのである。
それでは、この聖書箇所は何を伝えようとしているのか。
これに答えるためには文脈を検証しなくてはならない。
ここで問われていのは、
救いが人の行いによるのか信仰による恵によって与えられるものであるのか
という議論である。
ヘブル語の「子供」とか「子孫」とかいう言葉には「従者」という概念がある。
重要なのは、
アブラハムは行ないにはよらず信仰に基づいて義と認められたという点である。
同様に救いを得るためには行いではなく信仰による、
信仰によってのみ義とされた人たちこそが真のアブラハムの従者となるのである。
異邦人のガラテヤ人たちは、アブラハムの子孫であると言われているのであって、
決してユダヤ人になったと言われているのではない。
アブラハムの子孫になることが、ユダヤ人になることではない。
ユダヤ人として認定されるためには、ヤコブの子孫でなくてなならないのだ。
旧約聖書において、神がユダヤ人と交わした契約をアピールするときには
「アブラハム・イサク・ヤコブの神」としてご自身を啓示されて来た。
「アブラハムの神」はユダヤ人ばかりではなく、
イスラム教徒のアラブ人の神でもあるのである。
「アブラハム・イサク・ヤコブの神」がユダヤ人の神である。
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