テルアビブ
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
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「建設家達が見捨てた石」
マタイ21章28~ 42節
~マタイ福音書連続講解説教61~
受難週の第3日目・火曜日の出来事である。
当時の過越の祭りではニサンの月の10日に捧げ物の羊を1頭選り分けると、
それに疾患や外傷がないかを14日まで吟味されることになっていた。
「贖いのための神の子羊」として主イエスは
同10日にエルサレムへの勝利の入城をされた後、
4つのグループから質問を受け、論争に巻き込まれていく。
火曜日の出来事とは、その論争に明け暮れた一日であった。
先ずサンヘドリンというユダヤ最高議会の構成員達(祭司長や長老たち)
から論争を挑まれる。
主イエスはこれについては直接答えるのを拒否されるが、
3つのたとえ話を用いて彼らの罪状を言い当て、
その結果である裁きを免れる事なしと断罪し、
将来の世界情勢がどう変遷していくかを預言された。
❶ぶどう園としてのイスラエル
最初の二つのたとえ話で主はイスラエルをぶどう園として描写している。
それは旧約聖書からの長い伝統でもあった。
話は変わるが、
カリフォルニア州はナパバレーを筆頭に多くの世界的なワイン産地となっている。
そのワイン造りは、カトリックの神父さんたちから始まったものであった。
ミッションストリートを巡りながら
各地に宣教の拠点となるカセドロを建てて行ったカトリックは、
ミサのためにぶどう酒がどうしても必要だった。
教会の敷地内から始められたぶどう造りが、
今日のカリフォルニアワインの元祖である。
ワイン造りには壮絶ともいうべき忍耐が強いられる。
長い年月と費用、労力を投じてようやく収穫を得るのである。
神はイスラエルをワインを作るような細かな配慮をもって、
いわば手塩にかけて育てて来たのである。
彼らと契約を交わし、律法を与え、ご自身を啓示して、様々な特権を与えてきた。
預言者を度々送ったが、イスラエルは彼らを辱め、殺してきた。
そしてぶどう園の所有者(神)は、最後に一人息子(イエス)を送った。
ぶどう園を預っていた農夫達(ユダヤ人リーダーたち:サンヘドリン)は、
その息子をも殺して財産を横取りしようと相談する。
神が良い収穫を期待して育てたユダヤ人の実情は
そのような期待はずれのものとなった。
そのユダヤ人リーダー達は、
「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、
季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません」
と答えているが、それは自分たち自身への死刑判決を結審したことになる。
事態はその通りに推移して行くのである。
それではユダヤ人が神の期待に応えて来なかったとしたら、
彼らに与えられた契約はどうなるのであろうか?
彼らが契約不履行ゆえに、
契約そのものも反故とされるのであろうか?
❷家を建てる者たちの見捨てた石
『22 家を建てる者たちの捨てた石。 それが礎の石になった。
23 これは主のなさったことだ。 私たちの目には不思議なことである。
これは詩篇118:22からの引用である。
ここで礎の石(コーナーストーン)について説明をしなくてはならない。
それは建設工程で最も重要な作業である。
礎としてどんな石を、どの場所に、
どの方角を向けて据えるかで建物の全体像が決定されるのである。
コーナーに据えられたその石の直角に交わる2辺が、
土台の縦と横のラインを決定する。
最も熟練した建設家がそのコーナーストーンを選び、
所定の位置に据えるのであるが、
一度据えて見たもののどうも収まりが悪いので、
横に跳ね除けて別の石をコーナーに据え直すということも時に起こった。
「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、
そのようなコーナーストーンになり損ねた石のことである。
ここで「石」とは旧約聖書の用例から神やメシアを指す言葉である。
つまりユダヤ人たちからメシアが拒絶されることを預言した聖句なのである。
農夫達がオーナーの跡取り息子を殺してしまおうと陰謀しているたとえと共通している。
❸それが礎の石になった
一度捨てられた石が、
再び見直されコーナーストーンとして採用されるというモチーフ。
ユダヤ人による後日のメシアの受容が預言された聖句である。
それは詩篇が書かれた時点では将来に属することである。
イエス時代においてももちろん実現されていない。
イエスは拒否され十字架で死なれ、
民族としてのユダヤ人多数に理解されないまま天にお帰りになられた。
現在においても未だイエスはユダヤ人に受け入れられることなく、
その預言成就を目にしていないのである。
ところが、「礎の石になった」。
これは完了形で書かれていることに注目したい。
たとい人の目から見て将来に属することであっても、
神からすればその契約履行の確かさゆえに、
すでに過去に成就したものであると見なしているのである。
このような語法は預言的完了形と呼ばれるものである。
ユダヤ人によって拒否されたイエスが、
将来のある時点(それは艱難時代を通り抜けた世代のユダヤ人であるが)、
イエスをメシアとして受け入れるときが来るとは、
何とも信じ難いことである。
教会歴史においても、
教会はユダヤ人をイエス殺しの犯人であるとして目の敵にして来たのである。
今日の多くの教会もユダヤ人に対する約束や契約は終わってしまい、
キリスト教会がそれを引き継いだのだとする神学が流行している。
イスラエルへの祝福や契約はキリスト教会に置き換えられたとする考えが、
置換神学である。
今日までもその論争が続けられている。
まさに「主のなさったこと」は、実に「私たちの目には不思議なこと」である。
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