イスラエルと教会11~その⑥
Mar
15
「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」
❷ユダヤ人の不信仰は神の約束を無効とするのだろうか。 3ー4節
言葉を言い換えるなら、
ユダヤ人が信仰に欠如したら
神の真実性までもが疑うものとなってしまうのか
という点である。
ここでパウロは全てのユダヤ人が不信仰に陥ったとしてるのでなく、
彼らのうちのあるものたちが不信仰に陥った点をあげているのに注目しよう。
ユダヤ人の中には救いに至る信仰を持つものたちが
これまでにいつの時代にも存在していたし、
今後も少数であるが存在し続けるであろう。
それでは、不信仰なユダヤ人ゆえに、
神の約束の真実性が損なわれるのだろうかという点はどうであろう。
答えはNOであり、
ギリシャ語の中で最も強い否定形の用例が用いられている。
「絶対そんなことはあり得ない」というもの。
神の真実性は人間の不信仰によって左右されるものでないのである。
パウロがここで言っている「神は真実な方であるとすべき」とは、
神はご自身の約束の言葉をお守りになられる方であると教えるものである。
「全ての人を偽り者としても」とは、
ユダヤ人に対する神の約束は成就しないと教える
全ての人の事を指摘した聖句である。
❸人々の不信仰にも関わらずに神の真実性が保たれるなら、
神は人を裁くことが出来るだろうか。5-8節
神の真実性がいよいよ現されるために
人は罪を犯し続けても許されるのではないか、
という論点についてパウロは再び厳しい調子で否定している。
その議論の行き着く結論は、
神は誰をも裁かれないことになる。
その教えは、全ての人がやがて世の終わりに神の裁きに服するという
古からの明瞭な聖書の教えと明らかに矛盾することになる。
7ー8節は人間の視点からの論点であり、
ある人々がパウロ神学を誤解して攻撃しているところである。
彼らはパウロがモーセ律法とは異なる義を伝えている道徳廃棄論者
であると結論づける。
それは誤解であり、ここでの答えは次のようになる。
律法を守ろうとしてもそこに至らない点で裁かれるのと同様に、
道徳廃棄論ゆえの積極的な悪行もまたもちろん裁かれるのである。
神はとにかく罪を公正に裁かれるお方であられる。