岩上敬人先生による、Eラーニング講座・
「使徒パウロの足跡をたどるーパウロの手紙を深くじっくり味わうために」
8回の講義・提出課題のあった中で、
私にとって最も刺激的で有意義であったと思われた一つを紹介します。
それは、第3週目のディスカッショントピックでした。
【二つのディスカッショントピックの課題】
(1)資料1を読んで、パウロの回心について、今まであなたが理解していたものと違っていたら、どこが違うかを述べてください。もし「パウロの回心はこのようなものだった」とあなたが考えるものがあればそれも書いてください。
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(2) 資料1には、「自分の犯した罪の大きさ、また罪深さは、十字架経験によって本当 に理解できる」とありますがそれについてどう思いますか。そのような経験をしたことがありますか。もしあれば書いてください。(詳しく書く必要はありませ ん。)
【私はディスカッショントピック⑴を選んで、以下のように応答しました】
今回の学びを通じてパウロの回心がどのようなものであったか、大きな示唆が与えられ、また漠然としていたことにも鮮明さが与えられたようで感謝しています。
テキストには、
「パウロの回心は私たちが経験するような、個人の罪深さを自覚し、個人の罪の赦しを求めて、主イエスと出会ったという回心ではありませんでした。
つまり、回心する前、ルターやウエスレーのように自分の罪深さや霊的な苦しみ、内的な罪の意識に苦しんでいたとは思えません。」
との御見解がありました。
私は長い間、漠然としてではありますが、内的な罪の葛藤に苦しんだ挙句、
ダマスコでのイエスとの出会いに至ったと考えていたようです。
宗教改革後のプロテスタント教会の神学的な潮流に身を晒していた者の一般的な見解であると言えるでしょうか。
その根拠として、ローマ7章にある「私」が罪責感に激しく苦悩しているところが影響していたように思います。
その「私」とはパウロの信仰後の告白か、信仰前の告白かの議論はありますが、パウロ個人の正直な内情の吐露であると考えておりました。
真に「私」が誰であるかを理解するためには、パウロの用いている修辞的技法を知る必要があると説いておられます。著書のP210。
その「私」表現は、当時の世界で使われていた勧告的修辞学の人格体現化という技法であるというご指摘に目からウロコが剥がれたようです。
彼が演じていた人物とは、
7:7-13では、アダムであり、
7:14-25では、アダムにある人間であるとのこと。
それがローマ6ー8章で、
アダムとアダムにある人間、
キリストとキリストにある人間の対比を一貫して説いている文脈にも合致することからうなずくことができました。
さらに、この「私」がユダヤ人パウロやクリスチャンパウロではなく、その良心の葛藤を書いたのではない根拠として、岩上先生はパウロ自身が書いた他の書簡での自身の告白を上げておられます。ピリピ3:6、使徒23:1
「律法による義についてならば、非難されるところのない者である」
と胸を張った人物が、
どうして罪責感に悩んだ末に回心したと言えるか、
とのご指摘に賛同する者です。
彼の回心は重たい罪の罪責感から解放されたものというよりも、
新しい神概念の啓示によって、これまで培って来た契約や律法理解をさらに大きな次元から包み込むような完成された契約・律法概念を把握したものと言えるのではないでしょうか。
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