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  • 終末論を巡っての神学議論

終末論を巡っての神学議論

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終末論を巡っての神学議論


〜あるインターネット上での読書会で交わした
終末論を巡っての意見交換を引き続き紹介します〜


(T様から私への応答)

高橋京太様
 七つの例祭のご説明 とっても興味深かったです。
ディスペン批判者が多いサイトでこのように生の熱いお話しを読ませていただけること本当に感謝です。
 このような建徳的な対話がずっとなされると良いと思いますので、今後もよろしくお願いします。
 先に書きましたように、僕の関心は何よりも、「新しい天と新しい地」の実現を今から、生き生きとイメージしながら生きるということにあります。それに至るプロセスに関して見解の相違があっても、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」という告白をともにできることが何よりも大切かなと思います。

 Mさんが書いてくださったパウロがテサロニケの手紙を書いた当時の時代背景を参考に、そこから「空中で主と出会う」ということの意味を考える大切さを思わされます。
 テサロニケ第二の手紙2章では、第一の手紙のその個所から誤解が生まれたことを正すような意味で記されています。
 長くなって恐縮ですが、以下はライトさんの一般向け注解を参考にしながら書いたメッセージです。

  2章初めからは、「その日」の理解に対するテサロニケの信徒たちの誤解を正す勧めが、「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」と記されます。

 「再び来られる」は、原語でパルーシアと記され、「王としての現れ」を意味します。これは何よりも、第一の手紙4章15-17節の追加説明です。そこでは、主の現れ(パルーシア)のときに、死者が復活するとともに、生き残っている者たちも栄光のからだに変えられ、「空中で主と出会う」ということが記されていました。

  それは同時に、イエスご自身が言っておられたようにエルサレム神殿の崩壊を初め(マルコ13:2)として、目に見える世界の秩序が過ぎ去る、世界の終わり時と思われていました。

 彼らは自分たちが気づかないうちに、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて・・落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」していました(2節)。現在も、「大地震や放射能汚染で世界の終わりが来るかもしれない、こんなことをしていて良いのだろうか・・」と思う人がいるかもしれません。
  それに対し3節の原文では、「主の日」ということばが省かれながら、「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい・・・それは起こりえないからです。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ」と記されます。

  そして続けて、「滅びの子」に関する説明が、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(4節)と説明されます。

  つまり、私たちが注意を向けるべきことは、主の再臨がいつになるかということよりも、今ここで、私たちの信仰を揺るがそうとする悪の力に目を開くことなのです。

  この「背教」とか「滅びの子の現れ」は、既にダニエル11章32-37節に記されており、第一義的には紀元前168年にエルサレム神殿にゼウス像を建てたシリヤの王アンティオコス・エピファネスを当時は思い起こさせました。ユダ・マカベオスは武力闘争を展開しましたが、アンティオコスは戦いによってではなく、突然の病で倒れました。

  そしてまた、パウロがこの手紙を書く約10年前、ローマ皇帝カリグラは自分を神格化し、ついには紀元40年にエルサレム神殿に自分の像を置くようにと命じました。幸いユダヤの王ヘロデ・アグリッパがそれはユダヤ人の激しい独立運動を起こすと必死に助言し、実現はしませんでしたが、間もなく、カリグラは部下によって暗殺されるというようなことが起きていました。
  そればかりか、この手紙の十数年後には皇帝ネロが現れます。紀元64年にローマに大きな火災が起きますが、ネロはそれを起こしたのが自分であるとのうわさを消すために、その責任をクリスチャンに負わせます。
  そして、その迫害の中で、間もなく、ペテロが捕らえられて逆さ十字架で殉教し、またパウロ自身も捕らえられて首をはねられた記録されています。その後、ネロの狂気はますます進み、各地で内乱が続き、ユダヤでも反乱が広がります。その後、ネロは68年に自殺に追い込まれます。

  その後、一年の間に四人が皇帝を名乗るようになります。そして、最終的に勝利を収めたヴェスパシアヌスは紀元70年にエルサレム神殿を滅ぼします。それは、当時の人々にとっては、まさに旧約が繰り返し語ってきた「主の日」が実現したことを意味します。

  パウロはそのような大迫害が起きることを御霊によって示されながら、迫害への心備えをさせたのだと思われます。
  6-8節で彼はまず、個人的に、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいた」と彼らの記憶を呼び起こしつつ、「不法の人」の現れを、「いま引き止めているものがある」と言いながら、同時に、「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」と、「不法の人」のあっけない滅亡を予告します。

  それは上に記したすべての横暴な独裁者たちに当てはまります。ダニエル書でも黙示録でも、信仰者への厳しい迫害の時期は、驚くほど短期間のうちに過ぎ去ると描かれています(しばしばその期間は「三年半」に相当)。
  たとえば、第二次大戦下の日本でもホーリネス教会に対する激しい弾圧が起きましたが、その三年数か月後には終戦になり、反対に、キリスト教ブームに変わりました。

  ですからここに記されていることの中心は、「不法の人の現れ」から、「主の日」がいつになるかを予測できるなどという未来予測の話しではなく、信仰者への迫害や惑わしは、いつも繰り返し起きることの覚悟を求めることにあると言えましょう。

  キリスト者がこの世に誘惑や迫害に会うことは決して想定外ではありません。そのことが、9-12節に記されています。そして、その趣旨は、それを通して私たちの信仰が練りなおされ、神への愛が成長させられ、信仰の完成へと導かれることにあります。どの家族においても、どの共同体においても、苦難を共有することによって愛の交わりが成長するものです。

「空中で主と出会う」の意味は以下の通りかと思います。
 「空中で主と出会う」とは、空中に住まいを得るためではなく、主とともに天から下ってくるためです。
 「空中」は、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)というサタンの権力の現れる場ですが、その空中にキリストの支配か貫徹されるのです。
 そして、最大の慰めは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」という保障です。
  現在は、キリストが天におられ、私たちがこの混乱に満ちた地にあり、空中がサタンの領域という分裂状態がありますが、主の栄光の現れの時には、天と地が一つにされるというのです。
  
  そして、パウロは、「こういうわけですから、このことば(複数)をもって互いに慰め合いなさい」と述べました。私たちは天国に引き上げられて主をたたえながらハープ演奏を聞いてくつろいでいるような天国観を抱いてはいないでしょうか。

  私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地」を「治める」のです。そこではエデンの園にあったように労働が喜びになります。また、互いの弱さを隠すことなく、そのままの存在を喜び合うことができます。
  それは愛の交わりが完成する場所です。そこで夫婦関係が見られないのは、愛を学ぶ地上の学校を卒業したからです。


(私からの応答)

T様

「新しい天と新しい地」の実現をイメージしながら、今よりその約束を待ち望んでともにその希望に生きれることこそが重要であるとのご指摘に同感です。

そこに至るプロセスの見解に相違があったとしても、瑣末のことに過ぎず、「それが何だっていうの」ほどのことではなかろうか、と感じています。

オシメを川で洗うのに一生懸命のあまり、大切な赤子を流してしまう愚かさは警戒したいです。

それゆえこれからのわたしの反論はお気軽に受け流してくださいませ。
本日は感謝祭休日ですので、私もお遊びのつもりで投稿させていただいています。

主イエスにあって同じ希望を共有出来ることに連帯性を覚えながらの投稿です。

ライトが確かマタイ24章の終末預言はAD70年のエルサレム崩壊ですべて成就していると何処かで言明していたように記憶しますが、そこは賛同出来ない点です。

①7節「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」との表現はユダヤ的なイディオムであり、世界大戦を意味しているとのメシアニックジューの解説からです。前節の「戦争、戦争のうわさ」が地域戦争であるのに対して、「世の終わり」(6節)のしるしが世界大戦であるとの預言。それが「産みの苦しみ」として勃発して以降、世界大の飢饉や地震などの天変地異が増して行くとの預言。その世界大の、多くの民族を巻き込んだ戦争が1914年の第一次世界大戦。つまり、オリーブ山教説での「終末」は、1914年に始まっていると言えます。

②14節「福音は全世界に宣べ伝えられて、全ての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます」
この1世紀の段階で福音は新大陸にも日本にも届いておりません。それは。AD70から2千年以上経過していないとあり得なかった段階です。

③21節「世の初めから今に至るまで未だかつてなかったような、またこれからもないようなひどい苦難がある」との預言は、将来の大艱難時代に適用されるものといえます。ヨセフォスが70年のエルサレム崩壊では約100万人ほどの市民が虐殺されたとの記録を残していますが、ホロコーストでは600万人のユダヤ人が犠牲となりました。21節の苦難がエルサレム崩壊時のことを言っていないのは明らかです。

そもそもこのオリーブ山教説は弟子らが3節で掲げた質問に応えているものであり、70年の事件の範疇に押し込めるのは無理があります。
「世の終わりとその前兆」については、24:4-8で主はお応えになられています。
「あなたのこられる時とその前兆」については、大艱難時代の到来を告げています。

9-14が前半の3年半
15-30が後半の3年半です。

その両者の境は「荒らす憎むべきもの」像をエルサレム神殿に反キリストが設置した時となっています。15節。

T様は、この反キリストを、アンティオコス、カリグラ、ネロ、ヴェシパヌスであるとされておられます。その独裁者のユダヤ人やキリスト者への迫害が約3年半ほどの短期間しか続かなかった歴史的な経緯を当てはめて、「未来予測の話ではなく、迫害がいつも繰り返されること」であるとされておられます。

が、、、、
果たしてそうでしょうか?

ここで言われている反キリストはⅡテサロニケ2章の「不法の人」「滅びの子」のことであることには全く同意できます。

彼らは自殺や病で死んだと教えてくださいましたが、誰一人として「主が御口の息吹をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまう」(8)最期を遂げていません。

マタイ24:とテサロニケ2:が言及している滅びの子とは、大艱難時代の中間期に出現する反キリストであると私が結論している根拠です。
大艱難時代の最後に彼は直接、再臨のメシアによって滅ぼされます。 黙示録19:20

反キリストの霊をもった、そのような悪魔の化身ともいうべき人物は高橋様の言われたような人物たちが当てはまるし、使徒ヨハネもそれを指摘しています(1ヨハネ4:1-5)

しかし、このマタイ、Ⅱテサロニケ、ダニエル9章、そして黙示録が預言している反キリストとは、固有名詞の一人をさしていると考える他ないというのが現在のわたしの立場です。彼の名は666のユダヤ名であり、創世記3:15にて頭を踏み砕かれるサタンの子孫です。

私どもの解釈の相違を生み出す元は先述のとおり、
「聖書を字義通りに解釈するか、比喩的に拡大解釈するか」によって決定せられていると言えないでしょうか。

マタイ24:16によれば、反キリストが神殿に偶像を据えて激しいユダヤ人迫害を始めたら、「山」へ逃げろと言われました。
オリーブ山から眺めて山が見えるのはヨルダンの山地です。
そこのペトラ(ヘブル語ではボツラ)という地区に彼らは逃れるようになります。

ミカ2:12 でその逃れの場所を、「おりの中の羊」と訳出してしまっていますが、ここは音読みのまま「ボツラの羊」と訳すべきものです。ASVがそのように訳出しています。

ダニエル11:41にある大艱難時代のユダヤ人の逃れの場所としてのヨルダン川東岸と一致しています。

3分の1のユダヤ人らがそこで生き延びますが、彼らも銀を練るような試みを通った後に回心します。(ゼカ13:8-9)

その場所は、1260日(3年半)、彼女(ユダヤ人であって置換神学者の言う教会ではありません)を養うために神によって備えられたところです。(黙示録12:6)

アー、流石に疲れてきました。

私が千年王国前にラプチャーが起こるとしている理由を述べようと思いましたが、
過去にまとめたものを紹介するだけにさせてください。

III 携挙の時期: 艱難時代前である

1) 聖書の構成から
艱難時代の言及箇所に「教会」は一度も出現していない
艱難時代に聖徒が存在することが教会がそこに存在している証拠にならない 黙示録 6~18 章は艱難時代を扱っているが、そこに教会という語は一つもない 教会の重要性、黙示録の構成からしてそれには大きな意味がある

2) ルカ 21:31~34
地上に住む全ての人に艱難が襲うとのユダヤ表記である 「人のこの前に立つ」とは天においてなされること(35)

3) Iテサロニケ 1:9~10
一般的な意味の「御怒り」:ローマ 1:18
艱難時代の「御怒り」:黙示録 6:17、14:10,19、15:1
文脈では将来に関することなので、艱難時代のことである
教会を艱難から救い出すという特定の目的のために来られるのである

4)Iテサロニケ 5:1~10
神の御怒りに教会は予定されていない(4) 携挙(4:14~18)直後に論じられている
「しかし」:peri de (1) : コントラストを強調する接続詞 携挙の慰めに対して、主の日とは神の御怒りの日である
マタイ 24:36「ただし」も peri de、本来は「ところで」と訳出されるべき Iテサロニケ 5:8 節、9 節の「救い」は未来形であり、それは終末的なもので ありからだの購われるとき、つまり携挙のときを指している

5)黙示 3:10
「試み」とは文脈から艱難時代である 教会はその艱難時代から保護される


http://wdx.hosannamin.org/uploads/2014/06/06/教会の携挙%E3%80%80V.75%E3%80%80マタイ24章9~14節.pdf

ラプチャーによって教会は天に引き上げられ、その後7年間の大艱難時代が地上を襲い、主の地上再臨とともに新約時代の聖徒らが地上に帰ってくるとの論拠です。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4364275



(M様からの応答)

高橋京太さま とても詳細なコメントありがとございます、本当に勉強になりました。また、こちらの読書会で色々な意見を出しあえるのも感謝なことですね。また、「聖書を字義通りに解釈するか、比喩的に拡大解釈するか」とのご意見もその通りと思います。私もバーナード・ラムの「聖書解釈学概論」などでこの辺りは大変勉強させていただきました(分からない・覚えていないことの方が多いですがww)。なので、共感します。また、最近ことば社が出た聖書解釈の本も良さ気ですよ~(本の宣伝になってしまいました笑)。












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