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ディスペンセイションを3区分する必要性はあるのか?

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ディスペンセイションを3区分す...



(高橋から再びある読書会への投稿です)


《これまでの神学的な議論は、救済タグをクリックしていただけるとまとめて読むことが出来ます》

デイスペンセイションに関心をお持ちの方がいらっしゃるようですので、再び出現?させてください。
私の属している教団でも話題となりました。というより、5〜6年前ほどからこの教えが長く封印されていた後に息を吹き返し、特に関西あたりの牧師や教会に少なからぬ混乱を与えている側面があるとのことで、ある教師が関心を寄せてくださいました。
その方は、M氏から論文を取り寄せて、そのCD,RD,PDに分類したこと等を報告してくださいました。今より数年前のことです。その際に私が応答した文書を皆様にもみていただいて毒はないだろうと考えました。

M氏の論文に答える形となっていて、しかもその論文に反論している手前、M氏の関知していないところでこのようなFBで公表するのにだいぶ迷いました。
その私の教団の教師はかなり古くからデイスペの知識があり、それに対する警告が発端となって私との議論が始まりました。
私の立場のものとは、かなり異なるものであるのを説明するのに多くの努力が必要でした。M氏の3分類にも私の立場は納まりません。

M氏はフルク氏がRDに属していて古い、とされておられたのですが、そうではない反論を私がしています。
躊躇しながらも紹介するのは、理解する前にラベル貼りをして決めつけてしまうという過ちにご注意していただきたいためです。
なお、フルク氏とは、フクルテンバウム氏のことで、私がそのデイスペンセイション神学に関しては諸手を上げて評価している方のことです。
この読書会のメンバーは真摯な方ばかりであると信じていますので、他者の文書の一部引用の目的がその他者の見解の否定にあるのではなく、ただ学究目的のためであることをご理解いただけるものと考えました。その点、よろしくお願いします。
それでは、以下がその引用です。



「**先生。

M師の論考をお送りくださりありがとうございました。
ディスペンセイションについてより幅広く概観でき、理解を深めることができて感謝します。
これまで私はフルク氏からしかその手ほどきを受けていなかったのですが、他の専門家、しかも日本人の学者によるディスペンセイション考察を知ることは複眼的な視点を得ることができました。
以下、浅はかではありますが私の現段階でのディスペンセイション理解、フルク氏のディスペンセイションを簡潔に記しました。
M師の論文の主な論点と比較・対象していただいて、さらにアドバイスを仰ぐものです。
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(M氏)これは、PDのなした修正の根幹部分といえる。神の人頬救済の目的に基づいての一貫した歴史的介入を各デイスペンセーション¢中に認めていく聖書理解こそPDの最大の貢献といえる。PDはデイスペンセーションの数に関しては基本的に四つを設定している:
「族長」、「モーセ」、「教会」、「シオン」(「シオン」を「千年期」と「永遠」に細分する)(123頁)
PDのもう一つの大きな特徴は、「新約教会」の理解である。 RDでは、その奥義理解の故に、新約教会は基本的には旧約啓示の対象外と理解され、そういう意味では教会は挿入されており(これを「教会挿入説」という)、旧約聖書預言の預言対象であった王国とは一切無関係であり、旧約の可視的、地上的王国」は教会時代後に実現するとする。この意味では、旧約が預言している王国は延期された(これを「王国延期説」という)と理解している。 このRDの理解である「教会挿入説」と「王国延期説」がPDでは否定されている。言い換えると、旧約聖書に出てくる数々」の神の約束、たとえば、アブラハムの約束、モーセ契約、ダビデ契約、預言書での新契約等は全て、新約の教会において部分成就しているとPDは理解している。従来のRDの神学的枠組みが持っていた旧約のデイスペンセーションと新約教会との非連続の関係は修正され連続性が部分成就の故に確立されたことになる。


(高橋)RDの理解とされているこれら二つの説は、確かにフルク師のもので私も開眼される思いでその教えに触れました。つい最近も当教会の連続説教がマタイ福音書13章を終えたばかりの段階でして、それらの説をわたしも採用しています。


(M氏)ここに見られるウオルバードの見解は、ライリーのものと全く同じと言ってよい。 旧約聖書に啓示されていないという意味で概念化されている「奥義」観、今の教会時代は奥義としての御国の時代であり、旧約聖書に啓示されている御国の観点からは、挿入されたものであるということ、そして旧約聖書で約束されている御国は延期されたけれども千年王国時代に実現するということが両者によって主張されている。 これらは、「奥義」、「教会挿入説」、「王国延期説」の教理と一般に言われている。 これらは、RDの特徴であるが、これら三点に関してPDは修正を加えたのである。
また、「教会挿入説」と「王国延期説」はRDの「奥義」観の故に、奥義としての時代をその始まりと終わりを旧約聖書の啓示の流れから分離(非連続)するところから生じて来た。PDは教会時代の始まりの非連続性は聖書の教えではない、と修正した。言い換えれば、教会時代は旧約に約束されていたもので、それがキリストの初臨によって部分成就したものだと理解されるようになった。

ここで、注目したいことは、11節の「御国の奥義」は、「旧約の預言者や義人たちが切に理解したいと願っていたもの」とキリストによって解説されている点である。キリストは「奥義を理解できるグループAと理解できないグル-プBを神の摂理的な計画として提示しているが、グル-プAを更に細かく区別していることも事実である。このグループAの中に見られるキリストの弟子と旧約聖書の聖徒違の間の相違は、悟りが有るか無いかといった区別ではなく、両者とも真理の理解は許されているものの神の定めた時代性の故に旧約の聖徒達には理解の制限があったという意味合いの区別である。この区別は、旧約の聖徒違には全く啓示されていなかったというのではなく、啓示されていたけれどもその全面的な理解にはキリス卜の初臨を待たねばならなかったという意味合いでの区別である。 このことから、キリストがここで述べている「奥義」とは、旧約聖書に啓示されていなかったことではなく、17節にあるように啓示事実ではあってもその意味を充分理解できていなかったものがキリストの初臨によって十分に理解できるようになった真理と考えることが出来る。


(高橋)
二つの説が「奥義」観によって抽出される概念である、という指摘にも頷けます。
PDはRDを修正したものとして、啓示事実を認め、理解が十分で無かったとしている点には啓蒙されました。

確かにⅠペテロ1:10-12において、
預言者たちは啓示を受けていること、熱心に調べ尋ねているが、メシアの苦難や栄光の全てを理解していないことが分かります。

ただフルク氏をこの点でRDの範疇に収め、修正されなくてはならないと断じるのは早計でしょう。
彼の著作には、この、「啓示はあるが理解が不鮮明であった」神学が垣間見られます。

以下は彼のAriel's Bible Commentary. 1peter, p328-330のものです。

「恵みについて預言した預言者」には例えばダニエルがいる(7:15-16,9:1-3,12:8-9)。
これは予言全般に渡って言えることである。預言者は救いについて預言し、参加し、語っている。11節ではその予言の内容がある。ただしその二つの矛盾してると思われる点は最後まで調和できないままであった。一つがキリストの苦難。メシアの初臨のことである。
「苦難」が複数形になっているのは十字架を含めた地上生涯のすべての困難を意味している。
「栄光」は引き続きメシアに与えられるもので、それが複数形であるのは、メシアの復活、昇天、右の座への着座、再臨、千年王国の樹立などの多数を含む概念だからである。
ここでペテロが言っている点は、聖霊が彼らに内在して預言を与えていても、彼らの理解は十分でなかったということである。この節の完了形用法は、聖霊が預言者たちに継続して啓示を与え続けたのを示唆している。この矛盾と見えるメシア理解は、ユダヤ文学で「二人のメシア」観を作り上げて行った。ラビたちも、預言者同様にこの苦難と栄光の反する概念が一人のメシアに調和体現されるとは考えていなかった。
NTが教えているところは、二人のメシアではなく、一人のメシアが2回に渡りこられることである。
12節では、預言者への啓示に焦点をあてている。その時代の読者になって始めてこれら二つの矛盾点が理解できるようになった。「啓示を受けた」と複数形で書かれているのは、彼らに働いた聖霊を強調するため。しかしながら、その意味について当時の預言者たちは理解できていなかった。預言者達は彼らの世代のためでなく、NTの読者世代のための働きをしたのである。そういった例はローマ15:4,Ⅰコリント10:11にも見出される。
聖霊が使徒たちに働いて福音を説かれ、初めて預言者達の預言が理解できるようになったのである。」


このようにフルク師は奥義観についてはPDと同様であることは確かです。

また、RDは奥義時代の最初と最後を非連続のものとしている、との指摘も私には理解できません。私には非連続には見えず、統合された流れと認識できます。M師の列挙されたRD著書を読んだら理解が深まるやもしれませんね。

(M氏)教会時代は旧約に約束されていたもので、それがキリストの初臨によって部分成就したものだと理解されるようになった。
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(高橋)
この点も、その通りであると私は理解しているし、フルク氏も同様です。
OTに約束された教会時代の一例としてイザヤ書49章をフルク師は取り上げています。

メシアはイスラエルに来られる。3節
イスラエルはメシアを拒否する。4節
メシアは世界に伝えられて異邦人の光となる。6節
やがてイスラエルはメシアに立ち返り、回復される。8ー9節。

これらのイザヤ書預言を下敷きにしてパウロが
「イスラエルのメシア拒否は最終的なものでなく、やがて立ち返り、回復される」と論述しているのがローマ11:11-24です。

その他にも、メシアの初臨により異邦人に救いが及んだのは、アブラハム契約の内の新約条項の成就であるし、イスラエル国家の再建とイスラエル人の約束の国への帰還は、同アブラハム契約の土地に関する成就であると見なすことができます。
つまり、こういうことです。
「奥義の時代」の到来は、ユダヤ人による正式なメシア拒否によって始まるのですが、それは神様によってすでに想定済みでした。イザヤ書49章や53章に預言されている通りです。

ただその預言者時代にこれを啓示されていても理解できる人はいなかった。人の視点からみれば、千年王国時代が延期され、奥義としての教会時代が挿入されたかに見える、想定外の出来事となりました。
しかし神の視点から見たらすでに計画済みのことで、預言書にその奥義・教会時代の様子が預言されているのです。

この、神的視点と人的視点の相克は、バプテスマのヨハネをメシアの来臨直前のエリヤとどのように関連づけるか、ということと関連して理解できると私は考えます。
メシア到来の前にエリヤがくる預言がある。メシア地上再臨直前の「大いなる恐ろしい日」(大艱難時代)の前に、預言者エリヤをあなた方に遣わす。マラキ4:5-6
この預言は将来の大艱難時代にエリヤ到来により文字通り成就すると私は信じます。
将来のその時に延期されたのは、ユダヤ人がイエスを拒否した結果千年王国が成就しなかったゆえです。もしユダヤ人がイエスを受け入れていたら、B.ヨハネがエリヤであることになってしまう。

が、この二人は同一人物でない。
ヨハネはエリヤの様な働きをするし(マラキ4:6、ルカ1:17)、その雛形となるのは、神様がユダヤ人のメシア拒否をすでに想定し、お見通しであったからであるといえます。
マラキ3:1の「わたしの使者」とは、主の道を整えたヨハネであると言えます。
その際名前が伏せられているのは、ユダヤ人に選択の自由が与えられていた、神が彼らの拒否を決定したことでないことと、つながっていないでしょうか?
3章の2節以降は再臨の主イエスに関する預言です。ということは、1節の使者はエリヤでも良かったはずです。いわば、拒否、受容次第で、その使者はヨハネになったり、エリヤにもなりえた………神的な視点と結果から眺めた人側の視点の相克と言えないでしょうか。
http://hosannamin.org/page/seishohiroba-22
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(M氏)
キリストの宣教意図の一貫性
RDの主張するように、キリストはマタイの福音書の中で13章に至るまで「地上王国の提示の宣教」をしており、教会時代の宣教とは全く無関係であったと本当に言えるのだろうか。1章から調べてみると、驚くばかりのそれに反する啓示事実があることに気付く。 以下、主なものだけを紹介する:
1:21 「罪から救う」というヨセフに啓示されたキリストの働きは、教会時代を明確に意識しているのでは。
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(高橋)
すでに論述したように、神様は教会時代を想定し、予定されていた。それが聖書の至る所に見受けられます。以下の聖書引用についても同様です。
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(M氏)2:2 「悔い改めなさい。」というバブテスマのヨハネの宣教は罪の許しを前提とする教会の宣教を同じではないのか。
3;11 「聖霊と火とのバプテスマをお授けにばります」とは、明きらかに使徒1:4-5の復活後のキリストの言葉にあるように教会時代の状況を現している。バブテスマのヨハネはペンテコステを視野に入れた働きを展開していたことになる。 これは、RDの考えと全く矛盾する。
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(高橋)
私はここでの「聖霊のバプテスマ」は信者がやがて受ける祝福もであり、「火のバプテスマ」は不信者がゲヘナの火に落とされる将来のことを預言した聖句であると解釈しています。
その方が文脈からして、み怒りを受けるまむしの末たちの言及(7節)、千年王国とゲヘナの火にふるい分けるメシアの裁き(12節)と一致しているからです。


………………………略………………………………

(M氏)
マタイ5:20 「律法学者、パリサイ人の義にまさる義」とは、信仰による義と理解されるが、それならば教会時代のメッセージと何処が違っているのか。
9:13 「罪人を招くために来た」とキリストが自分自身について言うとき、それは今の教会時代のメッセ-ジと同じではないのか。

21:31~32 キリストはここでバブテスマのヨハネの宣教を振り返って、「取税人 や遊女たちは彼を信じた」ので神国にはいっていると語った。 このことは、13章以後の宣教もそれ以前の宣教も基本的には同じであることを示唆している。

他の福音書においては、上で指摘したことは更に真実であると思われる。 これ以上の証明聖句は必要ない。 使徒の働きにおいても、キリストが宣教意図を変更したことを示唆している所はどこにもない。 公生涯の初めからキリストはペンテコステからの聖霊の時代を視野に入れて働きを展開して行ったので、一つの宣教意図を終始持っていたといえる。

結論
以上の議論で明らかなように、RD神学の行き過ぎに対しては、PDは修正の手を加えて来ている。 福音聖書神学校もPDの立場で神学敦育を行っているが、RDの見解である「旧掛こ啓示されてないという意味での奥義」、「教会挿入説」、「王国延期説」は修正されたものが教えられている。
新約の教会は、決して旧約聖書の預言から切り離して考えられてはいけなくて、アブラハム葵釣、ダビデ契約、預言者の新しい契約の成就として考えられねばならないことをPDは強調している。
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(高橋)
現在の奥義時代に、異邦人の祝福を約束している新約の成就、それと共に土地の契約の部分成就が見られるとのご指摘には同調できます。ただ、ダビデ契約の成就は現段階でなく、千年王国の成就を見なければならないと聖書は教えているはずです。
この点、真鍋氏の見解であるPDには賛同できないものがあります。
フルク氏もおそらく賛同できないはずです。


先の先生からのメールで、ダビデ契約の成就が千年王国期であるとする立場においてはRDにふるい分けられるとするM氏の見解がありました。
ダビデ契約がどのようにして現在の教会時代に成就していると断定できるのか、PDのM氏のご見解を是非とも伺いたいものでございます。

そのダビデ契約の中心的な条項である、とこしえの王朝、御座、王国などはどれも、メシアが地上再臨されてはじめて成就を見ることができるものです。
主は現在の父なる神の右の座において、祭司としての執り成しが主なミニストリーであって、王としての地上統治ではありません。
ダビデ契約とはメシアが実際に見える形で地上を統治することに他ならず、それはメシアが再臨されて確立される千年王国で初めて実現することであると理解します。

すると、M氏による私の神学的立場は、RDでも PDでもないことになりますので、新たなラベルを作っていただかなくてはならなくなりますね。

(高橋・結論として)
わたしとしては、デイスペをそのような3分類する手法に賛成できません。
相手の神学理解を知らないままにラベルを付けて、そのラベルを見て評価・採点しているかのようなものではないでしょうか。
神は人と契約を結ばれたのですが、それは時代とともに変遷し、その契約内容も当然かわってきたのは否めない事実といえるのではないでしょうか。
モーセ律法時代に教えられているものと、新約時代の現在とはかなり異なります。
その視点を据えた神の人に対する扱い方なり、歴史認識などがデイスペンセイションであると私は理解しています。
**先生と意見交換できて感謝でした。

高橋京太 」




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