復讐は神のなさること
Feb
27
以下はクリスチャニティトディからの引用です。
ローマ教皇フランシスコは17日、過激派組織「イスラム国」(IS)系のリビアの武装グループが、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首したことを公に糾弾した。
「彼らが、カトリックであろうと、正教会であろうと、コプト正教会であろうと、ルーテル派であろうと、それはどうでもいいのです。彼らはキリスト教徒で、その血はみな同じであり、彼らの血がキリストへの信仰を告白しています」
教皇は声明でこう述べ、「きょう私は、21人か22人のコプト正教のキリスト教徒が殺害された記事を読みました。彼らのただ一つの言葉は、『イエス様、助けてください』だったことでしょう。ただ、キリスト教徒であることを理由として殺害されたのです。キリスト教徒の兄弟姉妹の血は、叫び声を上げる証です」と語った。
(ここまで)
昨日はコプト教会の主教が赦しを強調し、
今回はカトリックの代表が弾糾している。
一体、クリスチャンとしてどちらの姿勢を貫けば良いのだろう?
二つの立場は互いに対立点が際立っているように見受けられる。
それは表層的な見方であり、
それぞれにはそれぞれの視点からの主張なのである。
コプト側は、個人的な復讐心を抱いて、
心に憤りや怒りを溜め込むことの無意味さを解いている。
カトリック側は、正義が蹂躙されて
悪がのさばる事に耐えられない苦痛を表現した。
これら双方の視点からは
聖書がその通りに教えているところである。
人が個人的な復讐感情から報復に走ることを禁じている。
「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それはこう書いてあるからです。
『復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする』と主は言われる」
(ローマ12章19節)
では、どのようにして神は悪に報いるのか?
最後の審判まで、遠くの将来まで待たねばならず、
その間どんな酷い悪行には立ち向かわずに泣き寝入りするしかないのか?
政府が神の代わりの正義の代行者として
神によって建てられているとローマ書13章は教えています。
「彼は(支配者)無意味に剣を帯びてはいないからです。
彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」
時の政府が神の代行者として正義を執行するようになった経緯は
ノアの洪水以後のことです。
それ以前は政府というものがないため、
それぞれがわがまま放題で甚だしい逸脱社会となりました。
それで当時の世界を洪水で滅ぼし
それ以後の世界には地上政府を組織して正義と秩序とを維持するようにしたのです。
それがノア契約と言われるものでした。
「人の血を流すものは、
人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。」
創世記9章8節
現在でもこのノア契約は有効に機能しています。
人権を踏みにじり人命を搾取するテロリストらには
現在の段階から懲罰され、断罪されるべきものです。
詩篇には悪と暴虐が地に満ちた時、
神の介入ゆえの正義が回復する求めが随所に見られます。
「主は仰せられる。
『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから
今、わたしは立ち上がる』」
(詩篇12:5)
祈りを捧げます。
主よ、急いで来てください。
現在もこの瞬間、イスラム国に捕らえられている方々を救出させてください。
そしてあなたの正義が彼の地に執行されますように。
悪に囚われて思いの儘にされているIS戦闘員たちの目を開いてください。